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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

2017-01-01から1年間の記事一覧

メルロ=ポンティ追悼:「モーリス・メルロ=ポンティ」

*「モーリス・メルロ=ポンティ」(Maurice Merleau-Ponty, in L’Autres écrits, Seuil, 2001) 初出は『レ・タン・モデルヌ』(1961年、184/5号)。のちに『続・エクリ』に収録された。 『エピステーメー』(朝日出版社)ラカン特集に邦訳があるほか、向井…

精神分析的宴:セミネール『転移』

*『その主体の不均衡、そのいわゆる状況、およびその技法の展望からみた転移』(1960-1961)(Le Seminaire livre VIII : Le transfert, Seuil, 1991) ほんらいのタイトルは、Le transfert, dans sa disparité subjective, sa prétendue situation, ses ex…

「精神分析はわれわれの時代の倫理たり得るか?」:ブリュッセル講演

*「精神分析の倫理ー精神分析はわれわれの時代が必要とする倫理たり得るか?」(Ethique de la psychanalyse ― La psychanalyse est-elle constituante pour une éthique qui serait celle que notre temps nécessite?) 1960年3月9日、ブリュッセルのサ…

サントロペより永遠に:ウィニコット宛書簡

*ドナルド・ウッズ・ウィニコット宛書簡(1960年8月5日付) 2月に受け取っていた手紙への返事が遅れたこと、および主幹を務める「精神分析」に掲載の「移行対象」論文の著者名のスペルミス(tが一つ脱落)を詫びたあと、ロンドン・ソサイエティーでの講…

科学モドキの洪水:「主体の隠喩」

*「主体の隠喩」(La métaphore du sujet, in Ecrits, Seuil, 1966) 法哲学者カイム・ペレルマンの発表への回答として1960年6月23日にフランス哲学協会にて報告されたものに加筆。『エクリ』第二版の刊行時に「補遺」の一篇として収録された。 隠喩と無意…

壁に向かって語る:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(了)

823頁4段落目~ ファルスのイマージュ(ーφ)は象徴的ファルス(Φ)へと「肯定化され」(positiver)、ある欠如を満たす。(-1)の支えでありつつ、(ーφ)は否定化不可能な象徴的ファルス、享楽のシニフィアンとなる。女性も倒錯もここから説明可能。 倒…

欲望のグラフの終焉:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その3)

809頁4段落目以下の数頁は向井氏の注釈においては省略されている。その部分のアウトライン(超約)。 不透明なシニフィアンによって表象される主体を意識の透明性に還元してしまうようなコギト解釈は誤り。「自己」なるものの混乱を隠蔽するものとしての「…

絶対知という狂気:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その2)

つづけて(799頁最終段落)言語学のおさらいがひとしきりあり、言表行為の主体と言表の主体との差異が存在と存在者とを隔てるハイデガー的「襞」になぞらえられ(rabattre en son gît la présence…)、シニフィアンによる主体の消失(fading)が「現存在狩り…

ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)

*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966) いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落…

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966) 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であ…

「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」

*「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」(A la mémoire d’Ernest Jones : Sur sa théorie du symbolisme) ジョーンズ追悼論文。1959年1月から3月にかけて執筆され、1961年に「精神分析」誌に掲載された。『エクリ』所収。 フロイ…

マシーンとしての構造:「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」

*「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」(1961年) 1958年のロワイヨーモン・コロックにおける発言に加筆のうえ、ラガーシュのテクストとともに1961年に雑誌「精神分析」第6号に掲載された(同号にはロワイヨーモンで発表…

純粋欲望批判:セミネール第7巻『精神分析の倫理』

*Le Séminaire Livre VII : L'Ethique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986. フロイトはアリストテレスどうよう、人間的行為の原動力を快にみいだすが、快原則と現実原則のパラドクシカルな「倫理的葛藤」は、「君主(maître)の道徳」としてのア…

スピノザは正しかった:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(了)

第XXVII講(01/07/1959) 現時点での精神分析のパラダイムが対象関係論であることが確認され、対象にたいする道徳主義的な正常化(「よい」対象)という観点に釘が刺される。対象への原初的同一化の観念は「唯一の」現実を前提しているが、実は「一つの」現…

倒錯者のビー玉、あるいは<他者>の内奥の対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その21)

第XXVI講(24/06/2107) 欲動の部分的な性質ゆえ、対象への関係は部分欲動の組み合わせを以ってする。しかるに本能の観念は対象を求心的に捉える。 倒錯的幻想は倒錯ではない。倒錯を「理解」しようとしてもその構造の再構成には至らない。『ロリータ』にお…

倒錯者としての女性:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その20)

第XXV講(17/06/1959) 誤りや迷いは啓発的であるとの言葉を枕に、「国際精神分析雑誌」に掲載された倒錯論が俎上に載せられる。著者らは倒錯的幻想と倒錯とを混同している。幻想のレベルでは神経症者と倒錯者の根本的な相違はない。著者らは倒錯をアブノー…

欲望への防衛、あるいは神経症者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その19)

第XXIV講(10/06/1959) 神経症者における欲望の構造の規定に先立ち、倒錯者におけるそれが回顧される。 主体はまず他者のイマージュを、ついで幻想を欲望の支えとする。露出症者と窃視者は相補的ではなく並行的である。いずれにおいても幻想において主体は…

裂け目としての主体、あるいは倒錯者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その18)

第XXIII講(03/06/1959) <存在>と<一者>について。「存在」とは象徴界のレベルに現れるかぎりでの現実界のことである。「純粋な存在」は間隙、切断に位置し、それゆえもっともシニフィアンならざるものである。切断が象徴界において「存在」を現前化さ…

ハムレットのアナモルフォーズ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その17)

第XXII講(27/05/1959) グラフにおいて幻想は上段と下段の交点に位置づけられる。下段の線(個々の主体を越えて連綿と続く「具体的な言説」)は意識にたいして完全に透明であるが、こうした透明性はそもそも幻影である。意識とは直接与件ではなく、なにより…

対象(a)入門:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その16)

第XXI講(20/05/1959) 前講で提示されたシェマは、division (割り算)の商(quotient)と余りによって要求における主体の分裂(Spaltung)を表している。欲求(besoin)を十全に満足させると想定される全能者としての現実的主体(Sr=母)は、言語を通した…

無を“死蔵”する対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その15)

第XX講(13/05/1959) 「フロイト的事象」の特異性。フロイト的「もの」とは欲望である。これまでの分析理論において欲望は軽視されてきた。分析において、欲望は障害(trouble)として現れる。欲望は対象の知覚を乱す(troubler)。欲望は対象を貶め、その…

なぜヒトラーを殺せなかったか?:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その14)

第XIX講(29/04/1959) 『ハムレット』読解の最終回。 『ハムレット』がその全篇にわたり語っているのは喪という主題である。「経済、経済!」と現代社会。使用価値と交換価値の分離による物質世界(le monde de l’objet)の搾取を説くマルクス主義的分析は…

喪と現実界における穴:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その13)

第XVIII講(22/04/1959) ハムレットにとって出会いはいつも早すぎ、かれは出会いを遅らせる。それにたいし、行動するとき、ハムレットはいつも性急である(ポローニアス殺し)。ここには神経症の生の現象学がみられる。ハムレットはつねに<他者>の時にい…

ファルスとしてのオフィーリア:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その12)

第XIV講(11/03/1959) 『ハムレット』が「欲望の悲劇」と規定される。初演された1601年の二年後に女王エリザベスが逝去している。時代の転換点に書かれたという事実は重要。 分析プロパーではジョーンズがハムレットと女性的対象の関係を問うている。エラ・…

エディプスとハムレット:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その11)

第XIII講(04/03/1959) これ以下の七講は本セミネールのクライマックスをなす『ハムレット』読解に費やされる。 シャープの患者においてはファルスが自我理想の位置を占める。そしてファルスへの同一化は母への原初的同一化である。患者は母のファルスを否…

ファルス湮滅大作戦:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その10)

第XII講(11/02/1959) エラ・シャープ「唯一の夢の分析」の読解最終回。なお、ここでとりあげられた症例を収録したシャープの『夢分析実践ハンドブック』は勁草書房より来月に邦訳の刊行が予告されている。 クラインはファルスを諸対象中のもっとも重要なも…

チェスとしての精神分析:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その9)

ミレール篇「ル・セミネール」の版元は2013年刊行の本巻よりSeuilからMartinièreにバトンタッチされたが、誤植が間々ある。 第XI講(04/02/1959) シャープは主体のファルスを攻撃的な道具と見なす。ラカンはそれにたいして別の「解釈」を提示しようとするも…

奇術としての幻想:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その8)

第X講(28/01/1959) エラ・シャープ症例研究の続き。 「グラフ」が再度参照される。シニフィアン連鎖は解釈可能な要素によって裁断されている。それによって主体は要求(demande)が欲求(besoin)から固定(疎外)するものの彼方(残余)、つまり「存在」…

ラカン vs. エラ・シャープ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その7)

第Ⅷ講(14/01/1959) これ以降の五講はエラ・シャープの症例「唯一の夢の分析」のコメントに当てられる。シャープの症例はマリ=リーズ・ロート編『ラカンが読むエラ・シャープ』(Hermann)に仏訳(ラカン訳を踏襲したもの)が掲載されているほか、日本ラカ…

「死んでいる父」と「叩かれる子供」:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その6)

第7講(07/01/1959) 依存神経症という観念は、欲求とその抑制的な影響力を見えなくしている。症状は欲求不満(frustration)という減算・中断の帰結ではないし、主体の変形ではない。想像的な欲求不満はつねに現実的なものに関係している。欲求不満の諸帰…