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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ラカン vs. エラ・シャープ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その7)

第Ⅷ講(14/01/1959)

 

 これ以降の五講はエラ・シャープの症例「唯一の夢の分析」のコメントに当てられる。シャープの症例はマリ=リーズ・ロート編『ラカンが読むエラ・シャープ』(Hermann)に仏訳(ラカン訳を踏襲したもの)が掲載されているほか、日本ラカン協会紀要の最近の号に諸岡優鷹氏によるレジュメが掲載されており役に立つ。

 

 情動(affect)と存在。「情動は、存在にかんして主体のある一定の位置において提供されるなにものか。つまり、根本的で象徴的な次元において主体に提供されるものとしての存在にかんして。しかし、情動は、この象徴界のなかに現実界の壊乱的な侵入をなすこともある」。

 

 「死んでいる父の夢」において決定的なシニフィアンが「かれ[=息子]の願いによって」であったとすれば、「唯一の夢」におけるそれは「わたしはそうはおもわなかったが、かのじょはあまりにも失望していたので、わたしはかのじょを自慰しなければならないとおもった」。患者じしんが、masuterbate の他動詞的な用法を不正確であると指摘している。「わたしはかのじょが[不満なのであれば]自慰すればいいのにとおもった」とするべきところである。が、ここで重要なのは患者じしんが誤用を指摘しているという事実そのものである。

 

 ここで夢の結末部から症例の冒頭部、シャープによる患者紹介に戻る。患者[弁護士]は法廷に立つと恐怖症を来す。うまく行き過ぎることを恐れるのである。つづけてシャープはつぎのように書いている。死に際しての父の言葉は「ロベールに跡を継いでもらわなければ」であった。それゆえ患者にとって、成長することは死せる父と同一化することであった。父の死は貪り食う者としての母のイマーゴに結びつけられる。患者は父にもっぱら死者としてしか言及することがなく、父がかつて生きていたという指摘は患者に恐怖をもたらした。この忘却は父への殺意に由来する。シャープは復讐への恐れについて述べているが、ラカンは懐疑的である。患者の「言語外的な紹介」(音もなく面談室に現れる)についてのシャープの味わい深い記述が賞讃される。患者の几帳面さは感情を欠いているようにみえる。ここから主体の存在への関係に関わる情動への再度の言及。入室前の咳。シャープはそれをいわばノアの箱舟における鳩のお告げとして聞いた。この咳に感情が宿っている。患者自身が咳について話しはじめる。患者はその日すまいとおもっていた咳をしてしまったことを悔いている。シャープは患者から、咳が室内で抱擁中の恋人たちを引き離す目的をもっていることを聞き出す。幼年時に抱擁中の兄とガールフレンドを目撃した記憶が語られる。面談室に入室前に咳をすることについては意味がないとしたうえで、室内のじぶんの存在をごまかすために犬になって吠えるという幻想が語られる。ついで犬が患者の足にからだをこすりつけて自慰しているという別の幻想が語られる。患者はそれをやめさせようとしなかったことを恥じ、誰かが入室することを恐れたという。そこで患者はまた咳をし、夢の話をする。このことからも咳がひとつのメッセージであることがわかる。幼児が犬をワンワンと呼ぶことはシニフィアンの使用である。ところでこの幻想においては患者じしんが「ワンワン」と鳴いている。患者は言語の領域からみずからを追い払う(動物になる)ことで存在を隠している。「誰でもない者がいます」(il y a personne.)というシニフィアンによって。「<他者>を前にしているかぎり、わたしは誰でもない」。ここで自分の不在を訴えるべきはある女性である。女性に自慰していてもらいたいとは、じぶんにかまわないでもらいたいということ。

 

 

第Ⅸ講(21/01/1959)

 

 シャープは夢を全能性への願いという主題に結びつけて解釈している。全能性への願いは神経症的な願望であるとされている。ラカンはそれにたいして懐疑的である。全能性とは言説のそれであり、その言説を発するのは<他者>である。シャープはくだんの全能性を攻撃的なそれであるとしている。仕事の成功を恐れるほかに、患者はテニスの試合で相手を負かす(corner)ために必要なことができない。シャープはこれを全能性を発揮することの困難と解釈する。シャープは欲望を要求への関係においてみてとり、想像的な葛藤のレベルにみてとる。この解釈にたいする患者の二つの反応。(1)夜尿。(2)テニスでの敗戦。

 シャープの解釈には先入主が潜むが、それはときとして当を得ている。シャープは想像的な勢力争いの次元で解釈している。

 夢において患者は妻と世界一周し、チェコスロヴァキアで拾った女と妻の面前で行為する。

 咳は防衛である。患者の隙のない言葉とは違い、咳は突発的であり、患者がコントロールできないものである。

 患者はじぶんから咳のことを話すことで、咳がメッセージであると述べているが、シャープはそれに気がつかない。

 「グラフ」への参照が促される。咳の目的が何であるかの問いは<他者>を起点とする。この時点で患者はシャープが考える以上の地点に到達している。くだんの問いは疑問符のかたちをしたグラフ上段に位置づけられる。グラフ下段は<他者>のディスクールである。患者は内なる<他者>(たる無意識)の欲望を問うているが、この<他者>が去勢されていることを知らない。シャープはこの次元に気づいていない。

 シャープはくだんの幻想において関わっているのが[部屋の]外部にいるというかたちで現前する第三者を含めたトリオであることを見落としている。

 シャープは幻想が分析家を巻き込むことへの拒否を見落としている(「わたしはあなた[シャープ]をそんなふうにはみていません」)。実際には拒否ではなく、遠回しの承認である。

 犬の幻想における「……と誰かが考えるのではないかと私は考える」。主節と従属節の主語の二重構造に[つねにそうであるように]欲望が潜んでいる。ここにもシャープは気づいていない。

 シャープはこの幻想の目的を「他人を巻く(dépister)」ためとしているが、正確には、じぶんがいる場所にいないことを「見せる」ためである。この患者による主体の確認はつねにこうした構造に則っている。

 シャープは患者に、かれが分身への殺意を抱き、それへの復讐を恐れていると告げる。シャープの解釈は患者を主体化するいっぽうで、このくだんの構造(「かれはじぶんのいるところにいない」)をあきらかにする(?)。

 幻想は理解不可能であるが、想像的な構造を示している。理解可能性や一貫性は情動のもたらすものである。情動が動機を欠いていればいるほどそれは理解可能なものとしてあらわれるという法則がある。幻想を理解するのではなく、その構造をあきらかにすべきである。くだんの幻想には意味はなく、その非現実性が唯一の価値である。吠えることで、患者は「それは犬です」と述べている。幻想においては<他者>のシニフィアンがどれかを問うべきではない。吠えることはじぶんがいないことのシニフィアンである。主体は犬ではないが、吠えることによって「いるところにいない」という状況を実現する。

 幻想におけるシニフィアンの機能はいかなるものか?この問いに答えるべく、幼児におけるシニフィアンの操作が考察される。「犬はワンと鳴く」と言うだけでは「記号」による自然界の関連づけ(模倣)にすぎないが、「犬はミャーと鳴き、猫はワンと鳴く」と言うとき、シニフィアンの「置き換え」(=隠喩)が起こっている。幼児における言語の発生は、形容詞の次元が導入されるこの時点に位置づけられる。親が間違いを訂正すると泣くのは、幼児がしていることが隠喩である証拠である。ダーウィンへの脱線のあと、ルイス・キャロルへの言及とともに、シニフィアンはノンサンスの練習によって導入されることが確認される。ピアジェを読むくらいなら『不思議の国のアリス』を読むべし。 

 

 「それは犬だ」という幻想においては「主体の省略」という幻想の公式が見られる。「それ」は主体ではなく小他者(a)である。

 「犬は、ふたたび犬を自慰させる(masturbating a dog)思い出を呼び出す」(シャープ)。ラカンはこれを「自慰する犬(un chien qui se masturbe)……」と訳す。患者の幻想においては室内にいるのは犬だけだから。患者の連想がグラフ下段、メッセージとコードのあいだに位置づけられる。上段においては、メッセージとコードは下段とは別の性質を帯びる。そこでは<他者>が主体と同じ言語を話すパートナーに帰される(?)。上段のラインは私のうちなる<他>のシニフィアンS (A barré)に到達する。主体はS barré◇a をとおって欲望への問い(d

)に赴く。患者は「何であるのかがわからない何か」がある場所に入るときに咳をする。シャープは「分析家をめぐる性的幻想」と述べている。ラカンによれば、室内に何があるかではなく、「じぶんのいるところにいない」という幻想の構造が重要なのだ。犬は患者じしんであるかぎりでそこにはいない。犬は幻想ではなく現実の犬である。シニフィアンではなくイマージュとしての他者、同室者であり、患者に“一体化”している。患者は想像的にこの現実的動物であり得るが、「吠える」というシニフィアンを奪い取っている。この現前する他者が自慰している。この他者が患者に自慰して見せている。この関係は扉から入ってくるかもしれない第三者によって支えられ、その状況がもたらす羞恥によって成立している。主体(患者)は目撃者であるこの他者のまえに恥ずかしさのために文字どおり「消え入る」。「第三者(<他者>)が入ってこないようにじぶんのすべきことを示してください。わたしはじぶんであるこの犬という他者をまなざす。<他者>が入ってこないという条件で。さもなければ恥ずかしさのあまり消えてしまう。しかしそのいっぽうで他人としてのわたし、つまり犬をわたしは<自我理想>として、わたしがしないことをする者として、まなざす」。シャープであれば<全能の理想>と言うだろう。しかし、犬が自我理想となるのは、犬が話さない動物であるかぎりにおいてであり、犬のうちにじぶんの見たい者を見ることができるかぎりにおいてである。つまり、すべきこと、できることを見せてくれるかぎりにおいてであり、それは入ってくることができ、話すことができる<他者>の目の外に置かれているかぎりにおいてである。

 言い換えれば、エラ・シャープが自慰しているのを患者に見せることができるのは、患者が面会室にまだ入っていないかぎりにおいてである。咳はこの状況を保証するためである。

 二つの他者(autre)がゲームに参加している。話さない想像上の他者と、話しかけるべき他者。ただし後者は鉢合わせが時期尚早に起こらないように、主体が消え入らないように、注意することを要求される。