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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

対象(a)入門:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その16)

 

 第XXI講(20/05/1959)

 

 前講で提示されたシェマは、division (割り算)の商(quotient)と余りによって要求における主体の分裂(Spaltung)を表している。欲求(besoin)を十全に満足させると想定される全能者としての現実的主体(Sr=母)は、言語を通した要求(demande)の主体となることによって分裂し、斜線を引かれる(商)。この無を示す「余り」を自前で支払うのは主体じしんである。

 対象aは欲望の対象であるかもしれないが、欲望に適合しないという条件のもとにそうなのである。対象は幻想という「複合」において作用する。『続・精神分析入門』の Wo Es war, soll Ich werden.が召喚され、そこにおけるIchが das Ich (自我)ではなく、シフターとしての「私」であることが確認される。分析という「干拓事業」の終了において、この「私」が到来する。対象は欲望を方向づける指標(index)である。無意識がはじまるところに主体は消失する。これは意識の「剥奪」をいみしない。じぶんが誰でどこにいるのかを知らない意識とは別の領域に参入するのだ。この停泊地点はどうじに指標(index)でもある。目の前の対象が魅惑する。対象の機能は主体をその消失(syncope)の前に、実存のまったき抹消の前に引き止める(retenir)ことである。これが幻想の構造をなす。

 みずからが誰であるかという神経症的な問いに際し、主体はロゴスの威力(virulence)に攫われて「疎外」を被る。人間とは世界におけるロゴスの活動をみずからのレエルによって支えるべく存在する。現代における認識[論]の危機の指摘とともにレエルが定義される。アリストテレスにおいて、知るとは知られる存在への同一化をいみしている。「フロイト的心理学」において、主体のレエルの相関項は認識ではなく欲望である。主体のレエルは認識の主体として位置づけられない。主体におけるなにものかが認識の彼方に分節されるのだ。言説としての主体を支えるこのなにものかをラカンは「存在」と呼ぶ。レエルとは、サンボリックにおいて記載されるかぎりでの存在と定義される。存在は切れ目の間隙にしか存在しない。対象aは主体がその問いかけの果てに出会われる切れ目として、間隙のようなものである。主体は斜線を引かれた主体としてみずからを問うとき、幻想における対象aというひと連なりの諸項によって支えられる。

 

 対象aが三つのカテゴリーに分類される(その機能は同一である)。

 (1)前性器的対象(2)ファルス(3)妄想

 

 (3)にかんして、「かれらはじぶんじしんのようにじぶんの妄想を愛する」というフロイトの一節が想起させられる。妄想とは無意識的連鎖のレベルでのシニフィアンの不在、穴を支えるために主体がみずからの実質(substance)から引き出す諸シニフィアンのことである。

 

 (1)は離乳(切れ目)の対象である。みずからより排出し、みずからより切断する対象である。口唇的レベルでは乳首であり、肛門的レベルでは糞便に相当する。これらは「切れ目の構造」をもつ。

 呼吸は切断の要素をもたない。呼吸はリズムであり、拍動であり、生の交替である。それゆえ想像的な平面で間隙・切断を象徴化する機能はもたない。とはいえ発声は切断であり、スカンションである。妄想における声は対象である。ここで「屁」にたいする一瞥。

 

 (2)去勢複合において対象はもぎとり(mutilation)というかたちをとる。主体はみずからの一部を切り離すことで切断に関わる。民族学上の通過犠牲におけるもぎとりやしるしづけ(stigmatisation)が想起される。そうしたしるし(marque)は異次元に移行したことのシニフィアンである。去勢複合においてはしるしをつけられ、シニフィアンとなるのはファルスである。とはいえ、割礼におけるしるしづけを去勢複合におけるファルスの否定化(négativation)としての摘出(extripation)と混同するべきではない。主体における性質(nature)の変化(主体の自然的欲望の意味の変化)という点で通過儀礼は対象と関わる。もぎとりはサンボリックの彼方(=「存在」)で実現されるものの指標(index)となるかぎりで欲望の方向付けに寄与する。「もぎとりは主体における存在の実現の指標である」。

 ここでファルス的突起をめぐりメーヌ・ドゥ・ビランの「努力」概念と神経症者の「疲労」症状が引き合いに出される。それらは切断のしるしをもたず、シニフィアン化する(signifiantiser)努力の痕跡である……(?)。

 

 (3)妄想における声。声の機能は言説に主体の威厳(poids)、レエルな重みを介入させる。たとえば太い声は<他者>そのもののレエルな具現となることで超自我の形成に寄与する。妄想者の声は電話におけるような切り離された声である(コクトーは『人間の声』でそれを示そうとした)。とはいえ、電話における声に典型的な事務的にして歓迎的ならざる「反主人(contremaître)」の虚ろな声ではなく、妄想において純粋に分節化された声である。伝達される内容は聞き逃され、声の一貫性と実在そのものが確実なものとして立ち現れる。それは声の純粋な現れであり、妄想者に有無を言わせず差し向けられる(s’imposer)。シュレーバーにおける「切断」の性格をもつ声(中断されたフレーズ)が想起させられる。主体は声に関心を呼び起こされ(intéresser)、それが強いる意味作用のうちに呑み込まれて消失する。声の「切断」が対象として主体を魅了し、そこに固定され、みずからの無意識の存在を支える。

 

 現在のわれわれが読むといつも以上に明晰な語り口であるとおもわれるが、列席者がよほど首をひねっていたと見え、ラカンは「いままででもっとも難解な講義のひとつになってしまった」と弁解に努めている(未曾有の概念が定義される瞬間というのは得てしてこうしたものであろう)。初出席者らに配慮し、問題になっている対象が現実世界ではなく幻想の領域で(「存在」のレベルで)作用することが最後に確認される。