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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

セミネール『同一化』第15講(その2)

 

 承前。

 主体とはわれわれに呼びかけるものである。同一化されるのは主体のみである。欲動やイマージュが同一化されることはない。フロイトはこれを主体と特定していないとしても。

 

 第一のタイプの同一化は体内化するそれである。身体のレベルで何かが生み出される。それは「神秘体」にかかわる。父とそこから生まれた者との身体の同一性。他方で教会という「神秘体」。フロイトは『群集心理学……』において自我の同一化を定義する際、<教会>の身体性を参照している。これをとっかかりにすることは混乱を招く。

 

 第二のタイプの同一化は、純粋なシニフィアンによるアプローチというかたちをとる。唯一の特徴がひとたび取り出されると(détaché)、主体を「数える=重要である(compter)者」として出現させる。

 

 シャクルトンと南極探検隊の逸話。数える行為は一人余計に数えてしまう。それゆえ[実際には]一人少ない。ここに主体が剥き出しの状態で現れている。一つ余計なシニフィアンの可能性のおかげで、欠けている者が一人いることが確認される。

 <他者>および<もの>とのかかわり。

 

 主体そのひとは最終的に<もの>へと差し向けられているが、その法、より正確にはその運命(fatum)は、<もの>への道筋が<他者>を経由するということである。<他者>がシニフィアンに刻印されているかぎりにおいて。シニフィアンを経由する必要に際して欲望と欲望の対象が構成される。

 

 <他者>の次元の出現と主体の出現における逆説は、欲望がこのような<他者>への関係によってうみだされる緊張関係によってしか構成され得ないことだ。この緊張関係が生まれるのは、唯一の特徴の出現がもののすべてを消し去ることによってだ。これはかつての「1」とはまったく別のものであり、けっして置き換えることができない。

 

 <もの>があったところに私が到来せねばならない。Wo Es war, da durch den Eins. 1としての1である唯一の特徴によって私が到来せねばならない。

 

 <<rien de sûr>> と <<sûrement rien?>>の両義性は、<<rien peut-être>>と<<peut-être rien>>の差異と同じ。 <<rien de sûr>>には<<rien peut-être>>と 同じく、もともとの問いの覆しという利点がある。<<sûrement rien?>>においてさえも、あり得る答え、とはいえ問いに先立つ答えという利点がある。子供にとって<<sûrement rien?>>は「すでに期待されているものとは別の答えは何もないにちがいない」ということ。期待(Erwartung)がもつ不安を取り除く利点は、フロイトが「われわれがすでに知っているもの以外のなにものでもない」と言い表している。

 

 そんなわけで、主体は<もの>を見出すために、最初は反対の方向に歩を踏み出す。主体のこの最初の一歩は無(rien)と表すほかないが、これを最初のシニフィアンの作用(jeu)の隠喩的および換喩的次元において捉えることが重要だ。というのも、無への主体のこのような関係を前にして分析家は二つの傾向にとらわれる。

 

 1)破壊の無への傾向。攻撃性を純粋に生物学的なそれと解釈すること。

 2)ヘーゲル的否定性に帰される無化。主体の創設における無は別のものである。主体は無そのものを導入し、この無は伝統的な否定性という理性存在とは区別される。ケンタウロスのような想像的存在とは区別される。ens privativum とも違う。カントが四つの無の定義において「概念なき空の対象」ということばで呼んでいる nihil negativum ではない。

 

 要求の彼方に対象が欲望の対象として構成されるのは、<他者>が<<rien peut-être>>(「最悪の事態はかならずしも確実ではない」)としか答えないからだ。それゆえ主体は対象のうちにみずからの最初の要求の価値を見つける。

 

 たとえば愛において現れる対象と<他者>の親近性。『人間嫌い』のエリアントがルクレティウスを引くくだり(「青白い顔の女はクチナシのようだと言われ……」)。欲望の対象は<他者>への関係において構成されるが、<他者>はそれじたい唯一の特徴に発している。対象における特権は、ひとつひとつの特徴が特権となるという不条理な価値に宿る。欲望の対象の構成が、<他者>が答えないことによるシニフィアンの最初の弁証法に構造的に依存していることはサドにおいて明らかである。(つづく)