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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「不能」と「不可能」:『同一化』第14講(了)

 

 承前。

 

 <他者>は何も答えない。何ものも確実でないから。それにはひとつの意味がある。すなわち、それについて<他者>がこの問いについて何も知りたくないということだ。

 

 このレベルでは<他者>の「不能」がひとつの「不可能なもの」に根づいている。「可能ではない pas possible」は唯一の特徴がその分裂する価値のなかに現れる空虚であった。ここでわれわれはこの「不可能なもの」が受肉し、原初的な禁止において欲望の構築によってフロイトにより定義されたものに結びつくのを目にする。

 

 <他者>の答えることの不能は、ひとつの隘路(impasse)に由来する。この隘路は、<他者>の知の制限(limitation)とよばれる。「彼はじぶんが死んでいることを知らなかった」。かれが<他者>のこのような絶対性に到達するのは、受け入れられた死によってではなく被った死によってでしかない。主体の欲望によって被った死である。

 

 このことをいわば主体は知っている。<他者>はそれを知ってはならないこと、<他者>は知らないことを要求するということを。これこそが、混同されえない二つの要求における特権的な部分(part)である。つまり、<他者>の要求と主体の要求である。つまり、欲望は二つの要求のうちで言ってはならないものの交点として定義される。そこではじめて諸要求が解放され、欲望の領域以外のあらゆるところにおいて表現可能となる。

 

 欲望はかくしてまず、その本質からして、構造的に<他者>には隠されているものとして構築される。主体の欲望となるのは<他者>に属する「不可能」(l’imposoble à l’Autre)である。欲望は<他者>に隠された要求の部分(partie)として構築される。この<他者>はパロールの場であるかぎりで何も保証しない。そこでこそ<他者>は多大な影響力をもつ。すなわち、<他者>は欲望の位置そのもののヴェールとなり、覆いとなり、隠匿の原理となる。そこでは対象が隠されている。最初になんらかのものが実在するとすれば、それは欲望の位置である。ついでそれが主体そのものの実在に置き換わる。というのも主体は、<他者>に左右される(suspendu à l’Autre)ものであるかぎりで、<他者>の側では何も確実ではないということにも左右される。ただし、<他者>は対象を隠しており、この対象は欲望の対象になるかぎりでなお「おそらくは無 peut-être rien」である。

 

 欲望の対象はこの無そのものとして存在する。<他者>は、<他者>のいっさいがこの無であることを知ることができない。この無は<他者>に隠されているかぎりで一貫性をもつ。この無はいっさいの対象の覆い(enveloppe)となる。この覆いをまえにして主体の問いそのものが止む。主体はそのときもはやイマジネールでしかない。要求は<他者>の要求から解放される。そのとき主体は<他者>のこのような非知を排除する。

 

 とはいえ、二種類の排除がある。「あなたが何を知っていて何を知らないかはどうでもよい。私は行動する」。「あなたは知らないわけではない」とは、あなたが知っているか知っているかはどうでもいいという意味である。

 

 とはいえいまひとつの行き方がある。「あなたは絶対に知らなければならない」であり、神経症者の道だ。かくして神経症者は精神分析家の門を叩くのだ。

 

 ねずみ男は夜中に起きてドアを開け、父の幽霊に勃起しているところを見せる。神経症者は<他者>が何もできないことをおそれるので、せめて知っていてほしいと願う。

 

 さきほど engagement について述べた。神経症者は、そう信じられているのとはぎゃくに、主体として行為する人だ。かれは「メッセージ」と「問い」の二重の出口を閉ざす。<<rien peut-être>> と <<peut-être rien>> のどちからにきめようとバランスをとる。かれは<他者>の前にレエルとして身を捧げる。つまり「不可能なもの」として。

 

 ねずみ男には、欲望の対象を主体の実在に変換する媒体、より正確には道具がある。つまりファルスである。ファルスであろうとなかろうと、神経症者は、「不可能なもの」として特殊化されるものとしてレエルの領域に到来する。

 

 これは恐怖症にはあてはまらない。強迫神経症者はみずからを余計であるとすることによってレエルの次元を体現する。これが強迫神経症者に固有の「不可能なもの」の形態だ。隠された対象の罠にかかった位置から逃れようとするやいなや、かれはどこにもない対象でなければならない。ここから強迫神経症者の残酷な貪欲さが生まれる。どこにもいないために偏在しようとすることへの貪欲さだ。

 

 強迫神経症者の偏在への嗜好を無視して強迫神経症者の行動を理解することはできない。

 

 ヒステリーは別のモードをもつ。ヒステリー者もまた「不可能なもの」としてみずからをレエルなもののばしょに置くが、<他者>がヒステリー者を記号として認めてもこの不可能は残存する。ヒステリー者は<他者>が信じることのできる何かの記号になろうとするが、この記号となるには彼女はレエルなのであり、なんとしてもこの記号は<他者>に刻み込まれなければならないのだ。

 

 神経症の構造、根本的な弁証法は、確実なものの保証としての<他者>の最終的な失墜に基づいている。欲望の現実のパラドクス。隠されているものの次元は、「真理」が問題になるとき、もっとも矛盾に満ちたものとなる。哲学は全知の<他者>を「真理」の支えとしている。とはいえ、隠されたもの次元だけが<他者>に一貫性をあたえる。あらゆる信仰、神への信仰の源泉は、<他者>に全知を帰すことにある。

 

 倫理と欲望。カント的実践理性への言及のあと、「幻想」の受容が欲求不満の解決策であることが予告される。