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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

無を“死蔵”する対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その15)

 

 第XX講(13/05/1959)

 

 「フロイト的事象」の特異性。フロイト的「もの」とは欲望である。これまでの分析理論において欲望は軽視されてきた。分析において、欲望は障害(trouble)として現れる。欲望は対象の知覚を乱す(troubler)。欲望は対象を貶め、その秩序を乱し、貧困化し、揺るがし、その主体を溶解させる。欲望は盲目的であり、当初、現実の構築とは逆行する。欲望の誤りや逸脱は「善」の追求におけるアクシデントとみなされてきた。フロイトにいたって人間の理論の原則は快楽主義的原則に矛盾することが明らかになる。欲望と世界の領野は予定調和的ではない。

 欲望の解釈とは際限のない送付であり(=欲望の“対象”は永久に特定不可能)、そのかぎりで共時態のメカニズムに則る。主体とシニフィアンとは共時的な関係にある。分析の実践は、[現実的な]世界の経験に主体を存在論的に適応させることにはない。

 グローヴァーの「クライン期」の論文「倒錯の形成が現実の意味の発達にたいしてもつ関係」が参照される。そこでは現実が客観性の観念に送り返され、対象は本能の充足に帰される。グローヴァーによれば、倒錯的関係とは一貫した現実の破れ目を繕うものである。倒錯的機能の偏在性という見解は独創的として評価される。<精神病→薬物依存症→神経症……>という編年的な序列を想定した欲望の「成熟」図式には疑義が呈される。客観性によって定義されるハートマン的な既存の「現実」が「アメリカの弁護士」なる比喩で形容される。

 哲学において欲望(知ることへの欲望)は認識の犠牲にされてきた。対象は「無私」を旨とする客観性によって規定される認識の対象に帰されてきた。

 「根本的幻想」(S barré ◇ a )は、欲望の支えにとって最小限の構造であり、そこにおいて aによる主体の引き受け(assomption)が起こる。対象aは主体が―「確実性」のうちに―消失する(défaillir)かぎりにおける支えとなる。<他者>には主体が同一化できるシニフィアンが欠けているので、みずからを指し示すために対象aを使用する(employer)。対象a は「現実的主体」の自腹で(à ses dépens)、[つまり血と肉によって]支払われる。対象aにおいては、想像的な関係において把捉されたレエルななにものかがシニフィアンの機能に送付される。

 フロイトによれば、欲望が明確に現れると去勢がある。主体のシニフィアンへの共示的な関係において、主体はそのものとして指し示されず、名指されない。主体はこの欠如をみずからのにんげん(personne)によって支払って埋めなければならない。aは象徴ではなく主体のレエルな一要素であり、欲望の審級において主体がみずからを指し示すために消失する(共示的な)瞬間の支えとなるべく介入する。aは去勢の効果であり、去勢の対象ではない。去勢の対象はファルスである。分析においては人工的なファロス顕現が起きる。

 ここで1920年代のフェリックス・ベーム以来の同性愛者の分析の歴史が振り返られる。同性愛者を本能の固着や逸脱に帰すことはできない。ベームもエラ・シャープも膣の外部化としてのファルス的突起の幻想を観察している。この幻想はファルスの機能を根源的に示す。つまり主体の想像的な内部にあるものを外部に示すことがそれである。それは身体の内部からほとんど切り離された、ただしいまだ切り離されていないものの象徴であり、自己イメージの統一性を脅かすものである。

 主体が欲望であるかぎり主体は去勢的関係に瀕している。対象への関係は去勢に瀕している主体のポジションの身代金である。

 以下のシェマが提示される。

 

A(<他者>)                   D(要求) 

Sr                    D barré

A barré              S

a                      S barré

 

 これは共示的関係を示しており、左右の項は◇、つまりdivision(分割=除法)という関係によって繋がっている。この弁証法(A÷D)の「余り」がaであり、それは欠如を象徴する。

  一行目の Srとは要求が差し向けられる現実的な主体(Sujet réel)即ち母親としての<他者>である。分析の過程でこれがやがて二行目の「斜線を引かれた<他者>」つまり言説の主体にとって代わられ、最終的に三行目の aを手にするという過程が図式化されている。

 ヴェーユが述べた『守銭奴』の宝石箱(金庫)がふたたび引き合いに出される。宝石箱は「無」の容れ物である。守銭奴は宝石箱のなかに「死蔵された」(mortifié)対象を慈しむのだ。つまり、「無」を慈しむことができないので、守銭奴はそれを隠していると想定される宝石箱を慈しむということであろう。これはレアティーズのfoilたろうとしたハムレットから翌々年のセミネール『転移』における「アガルマ」へと繋がるモチーフである。「箱のなかにあるものは生の循環の外にあり、そこから差し引かれ、無の影として保存され、そのかぎりで守銭奴の対象となる」。対象aという「無」の彼方に主体は最初に失われた生の影を探し求める。ファルスの喪とは、[宝石箱のなかに]隠された対象としてのファルスを慈しむことである。