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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

精神分析的宴:セミネール『転移』

*『その主体の不均衡、そのいわゆる状況、およびその技法の展望からみた転移』(1960-1961)(Le Seminaire livre VIII :  Le transfert, Seuil, 1991)

 

 ほんらいのタイトルは、Le transfert, dans sa disparité subjective, sa prétendue situation, ses excursions techniques だが、Seuil 版には『転移』という恣意的に簡略なタイトルが付されている。

 

 これはミレール版の刊行から間を措かずに出版された膨大な正誤表 Le transfert dans tous ses erratas (E.P.E.L.)でも批判の対象とされていた。

 

 ミレールが『転移』のヴァージョンアップ版を公にしたのはそれに十年おくれてのことである。

 

 タイトルにいう「不均衡」とは、転移における分析家と患者の関係が非対称的であることをいみしており、それまでの転移をめぐる言説の前提への疑義がこめられている。

 

 前半のかなりのぶぶんがプラトンの『饗宴』への衒学的な注釈についやされる。

 

 「分析の先駆」(「フロイト的無意識における主体のくつがえしと欲望の弁証法」)たるソクラテスが導入した「エピステーメ」とは、いっさいをシニフィアンの秩序にゆだねることである。それによってソクラテスは知を無意識へと追放した。

 

 言説が真理の次元をうみだすのであり、そのぎゃくではない。ことばへの全権委任においてソクラテスキリスト教はつうじあう。

 

 『第七書簡』においてくしくもソクラテス的問答法が「もの(τὸ  πρᾶγμα)」をめぐっているとのべたプラトンフロイトの認識をさきどりしている。

 

 ソクラテスにおける死の欲望(コタール症候群の患者になぞらえられるのがゆかいだ)はシニフィアンの不滅性にこそ帰される。

 

 つまり、ソクラテス的主体の非在(a-topia)は欲望の純粋化(いっしゅのケノーシス)をいみする。

 

 それはたんなる職業倫理としての中立性とかストア派的な禁欲ではない。

 

 ソクラテスは発言にさいしてディオティマという“内なる女性”を召喚して主体の「分裂」を受け入れる。

 

 アリストファネスがかたる神話的なアンドロギュノスは完全な球体であり、これは想像界の充足性をあらわしている。

 

 アリストファネスはアンドロギュノスの腹部に男根をとりつけている。くしくもハンス少年がかれの「神話」においてしたのとおなじように。

 

 クローデルの<三部作>をもラカンはもじどおりの「神話」として分析している。

 

 ときあたかも『今日のトーテミズム』『野生の思考』が刊行されようとしていた時期である。

 

 ボロロ族のトーテムへの言及があり、サドの「野生の思索(réflexion)」が口にされる。

 

 フロイトが父のあらたな定義を提示しつつあったその同時代の作品であるという指摘をさしひくとしても、<三部作>がエディプスコンプレクスの戯画であるという観点じたいは凡庸である。

 

 これはいつぞやラカンじしんが揶揄していたデカダンス的なモダニティの定義に依拠している。

 

 「悲劇の死」なるおなじみの図式である。

 

 <三部作>注解の眼目はその「神話分析」的手法である。

 

 ラカンは<三部作>に『親族の基本構造』とおなじく“女性の交換”にもとづくひとつの構造をよみとっている。

 

 三つの世代のそれぞれにおいて、だれかがべつのだれかからその欲望をとりあげ、第三者へと贈与する。

 

 これは「去勢」そのものの定義でもある。

 

 もじどおり女性は市場でうりにだされ、せりにかけられる(金銭の流れと情動の流れのバルザック的なオーヴァーラップ)。

 

 第一世代においてはバディオンがシーニュをチュルリュールへと贈与する。

 

 第二世代においてはルミールがルイ(男性)をシシェルへと贈与する。

 

 第三世代においてはオリアンがパンセをオルソへと贈与する。

 

 これによって、[「否」という]シニフィアンの刻印によってじぶんじしんよりもたいせつなものを剥奪されたシーニュの犠牲(という価値もないそれ)が、弁証法的に第三世代において報われるといったキリスト教悲劇(ヘーゲル)のシナリオが完成する。

 

 法の樹立は法の創設者の記憶を消し去ることを条件とする。

 

 第二世代の「望まれない(non désiré)子」ルイの娘パンセにおいて「欲望」が復活する。

 

 そこにはルミールと、とりわけシシェルの女性の欲望が貢献している。

 

 「聖人」オリアンは享楽(jouissance もしくは joie)の所有にしがみついているだけである。

 

 しかり、聖人は享楽する。

 

 げんみつにいえば、享楽の使用ではなくその所有であろう。享楽は他者の享楽としてしかありえないから。

 

 享楽を「最大多数」なる他者(それはベンサム流の「フィクション」である)に帰した功利主義はまちがっていなかった。

 

 あるいは「カマキリの享楽」を想定することは許容される。倒錯が自然的であるという前提は措くとしても。カマキリはまた部分対象の普遍性にも示唆をあたえてくれる(ただしオスの頭部はメスカマキリにとってひとつの「全体」であることが示唆される)。

 

 聖人は「持てる者」であるからこそ、なにもあたえようとしない。

 

 しかるに愛とは、じぶんのもっていないものをあたえることである(ポトラッチとはちがう)。

 

 「アガトンよ、知というものが、満たされた盃から糸を伝って空の盃へと注がれる水のようなものであればどんなにかよかったろうね!」

 

 ソクラテスの真理はその無知にゆらいする。

 

 かれは恋についてなにもしらないからこそ恋のエキスパートたりうる。

 

 分析家の知しかり。分析家はくだんの盃の水のように患者に真実を授けるのではない。

 

 分析家は知を「想定」されたかぎりでの主体である(SsSという術語はまだつかわれていないが)。

 

 それはアガルマを内蔵すると想定されるシレノスの像にひとしい。

 

 しかり。クラインの考えとはことなり、分析家は対象(客体)ではなく、主体として転移に関与する。

 

 分析家とはなにか?

 

 分析家はこれまでつねに分析家ほんにんの実在に帰されてきたが、分析家とはひとつの「座」にすぎない。

 

 祈る者の立場がプリアモスを祈る者の典型たらしめるように、分析家はひとつのポジションにすぎない。

 

 たんなる「座」であるかぎりでそのじったいは空虚である。

 

 それはソクラテス的な非在(atopie)であり、いっしゅの“ケノーシス”である。

 

 転移の原動力はそのような純粋な空虚、すなわち分析家が体現する欲望である。

 

 そのかぎりで「分析家の欲望」が問題になる。

 

 転移の定義は、“分析家の欲望の対象たろうする者”を“みずから欲望する者”に「置き換える」ことである(それゆえひとつの「隠喩」である)。

 

 ディオティマによれば、神々はすでに知をもっているので知をもとめることはない。いっぽう無知な者はじぶんが知をもたないことを知らないので知をもとめない。

 

 エロスはその中間的存在(ダイモン)であるがゆえに知をもとめる。

 

 エロスが知をもとめるのは、知がもっともうつくしいものであるからだ。

 

 エロスの愛の神たるゆえんは、美をそなえているからではなく、美をもとめるがゆえである。

 

 かくして欲望は対象としてではなく、主体としてとらえかえされる、ということらしい。 

 

 

 分析家の欲望は、分析家の不安にかんけいしている(不安は待機 Erwartung を内包する)。

 

 分析において、分析家はじぶんの不安ではなく(それは Versagung の対象となる。この語は frustration と訳されるべきではない)、不安の「信号」をもたらす他者をあらわれさせなければならない。

 

 不安とはそもそも主体の内部にとどまる情動ではない。不安は「信号」であり、そのかぎりで他者にゆらいする。

 

 周知のとおり、不安は翌々年のセミネールのテーマとなるであろう。

 

 

 「8つの交点からなる最小限の構造」としての「欲望のグラフ」上に理想自我と自我理想の区別が確認される。

 

 さらに、おなじ区別を装置化した「倒立した花束」の図式(「ダニエル・ラガーシュ論」の刊行によってふたたび関心を喚起しつつあったようだ)が、エロスとプシュケーを描いたツッキのタブローにおいて“先取り”されていた(!)ことが指摘される。

 

 エロスの局部がマニエリスティックに描き込まれた花束によってこれみよがしに隠されているが、花束の背後にプシュケーがみようとするファルスはない(ファリックなのはむしろ刃物をふりかざしたプシュケーのほうである)。

 

 このタブローは精神(プシュケー)と欲望(エロス)のすれちがいを描いている。

 

 性的器官はシニフィアンに変換されて精神へともたらされる。シニフィアンに変換されるためには、現実的な器官は切り取られねばならない。

 

 かくしてひとがファルスを象徴的に見るところにファルスは現実的にはない。

 

  フェニシェルのいう Girl = phallus、あるいはハンスにおけるファルスの「取り外し可能性」はいずれもこのことをあらわしている。

 

 部分対象が全体性に還元されないことが再度確認され(哲学は部分対象を無視してきたと指弾される)、自我理想が「einziger Zug(唯一の線、特徴)」であるとの『群集心理学と自我の分析』の指摘に注意が促される。

 

 einzeiger Zug への「同一化」は翌年度のセミネールのテーマになるだろう。

 

 その「リビドー発達史試論」において喪が部分的な対象のとりこみであると指摘したとき、カール・アブラハムはすでにこのテーマを先取りしていた。

 

 エラ・シャープの症例においては「あれは犬だ」が einzeiger Zug にあたるらしい。

 

 パンセが盲目であるのはぐうぜんではない。かのじょは「みずからを見る(se voir)」という鏡像の無媒介性をのがれている。そのぶん、<他者>を媒介した「みずからのことばをきく(s’entendre)」。

 

 「人間はじぶんがみられていることをみてとるが、じぶんのことばがきかれていることをききとることはない」。じぶんのことばがきかれているのをききとるのは幻覚者だけである。

 

 パンセの「精神的盲目」が、プシュケー(精神)の“盲目”におくりかえされる。精神が視野をさえぎられているがゆえにパンセは欲望の具現となる。

 

 エロスのエロスたるゆえんは持てる者たる父ポロスではなく(ポロスはボアズとどうよう[父たることを]「知らなかった」男である)、持たざる母ペニアにゆらいする。

 

 自我をそれいじょう分析不可能な実体に帰して自我の同盟関係を治療の手段としたアンナ・フロイトとハルトマン一派が指弾され、ジョーンズ(「暗示の機能」)、ブーヴェ(「女性強迫神経症におけるペニス羨望の意識化の治療的波及効果」)、マニー=カイル(「正常な逆転移といくつかの逸脱」)、パウラ・ハイマン(「逆転移について」)、ナンバーグ(「転移の現実」)といった先行する仕事が俎上に載せられる。

 

 <三部作>注解のある回の冒頭で、死去したメルロ=ポンティへのオマージュが捧げられる。

 

 前年のセミネールにおいて「甘い生活」への言及が予想外に受けたせいか、ところどころで映画への小さな言及がある。フイヤード、フランジュ、ヒッチコックへの潜在的な参照に及ぶそれは、プラトンの洞窟への言及においてきわまる。

 

 岩波書店から刊行されている邦訳書はみたところいつもの誤植こそないが、訳語の不統一が気になる。