lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

奇術としての幻想:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その8)

 

 第X講(28/01/1959)

 

 エラ・シャープ症例研究の続き。

 

 「グラフ」が再度参照される。シニフィアン連鎖は解釈可能な要素によって裁断されている。それによって主体は要求(demande)が欲求(besoin)から固定(疎外)するものの彼方(残余)、つまり「存在」に至ろうとする(欲望)。主体の言語的要求と存在との乖離に欲望が宿る(グラフ上段)。

 想像的他者にたいする自我の関係は、幻想にたいする欲望の関係とパラレル。幻想においては選択的対象への関係において主体が消失する。幻想はこのような構造であり、たんなる対象関係ではない。幻想は「切断する」。対象をまえにした「主体のシニフィアン的失神(syncope)」である。

 

 咳への言及は、メッセージについてのメッセージ。主体は室外の人にも室内の人にも同一化している。二人組の一方は現前していてはならない。もしくは二人組は離れていなければならない。分析家は室内に一人である。

 

 夢と幻想の対照。幻想においては強調は主体に置かれている。主体は犬として吠える。吠え声はメッセージであると同時に、メッセージを偽るものである。吠えることで主体はみずからを他人として位置づける。

患者は扉の向こうに何があると想像しているかは謎。咳はその証拠。覆い隠されているものは、幻想の公式の右側の項である対象=x。対して夢において、対象は前景化している。この対象は想像的な要素であるが、シニフィアンの機能を帯びる。とはいえ、依然として覆い隠されており、謎めいていて、そのものとしては言語化できない。反対の項に主体がいる。幻想において主体は他人として、つまりシニフィアンを刻印された主体として名乗る。いっぽう夢においてわれわれはイマージュ[対象]を手にしており、われわれが知らないのは逆の項にいる人(主体)が誰かである。シャープはそれをつきとめようとする。

 夢は動詞masturbate の用法についての患者の指摘で閉じられている。女性の性器からは頭巾の襞のような大きなものが前方に垂れ下がっていた。洞窟訪問の記憶。洞窟は唇のように覆い被さっていた。縦の唇と横の唇、横書き(欧文)と縦書き(漢文)のジョーク。「中国女が口とヴァギナを間違えた」云々なるリメリックが試訳され(「翻訳するとおもしろみが消える」)、分析におけるこのような想像的な要素の誘惑に釘が刺される。ハンス症例においても、重要なのは二頭のキリンが母と子であることではなく、ハンスがそれを丸めて尻に敷いたことである。幻想において事物を紙に変容させたことである。シャープの患者の「指」も単に[母親による]包み込み、むさぼりに還元し得ない。覆い被さる洞窟は子宮の内側とは関係ない。シャープは垂れ下がるものをペニスの等価物であるとしている。医師ではないシャープにはこれが「子宮脱」であることがわからない。「ファリック・マザー」クリスティナ女王の子宮脱への脱線。問題は母胎回帰や膣ではない。漢字(縦書き)への患者の言及は、サンボリックな次元に関わる。

 「グラフ」における幻想は、斜線を引かれた<他者>のシニフィアンと<他者>のシニフィエのあいだに位置づけられる。主体が前にしている対象は、s(A)という意味作用とs(A barré)という謎めいたシニフィアンとの媒介である。

 

 ここでラカンはシャープの解釈に踏み込むべきかを受講者らに尋ねる。一同諾う。先だっての唇/ラビアのジョークに続く、「車の幌」のような布地でできたゴルフバッグのエピソードが読みあげられる(仏訳97頁)。それをくれた男の声音を患者は真似る。ここから連想は、女友達がラジオで物まねを披露した逸話、高性能のラジオへと繋げられる。女友達は記憶力がよいが、じぶんは十一歳以前の記憶がない。ただ最初に聴いた歌は覚えている。女友達はその物まねをする。その歌詞にある「帽子」は「頭巾」(≒洞窟)を連想させ、最初に乗った車の記憶を呼び戻す。車は使われないときは紐で繋いであった。内側には緋色の布が張られていた。最高速度[pointe de vitesse]は時速60マイル、車の生としては標準的。車を人間にたとえるのは変だけれど。この車の中では気分が悪くなった。この思い出は汽車の中でビニール袋に放尿した記憶を呼び覚ます。ふたたび頭巾を思い出す……。

 

 つづけてシャープの解釈が引かれる(前掲書101頁)。患者は犬の「物まね」をし、咳をし、夢を語る。夢は自慰空想であり、全能性の主題が関わっている。夢で患者は「世界一周」する。これは女友達の物まねの放送(broadcasting)およびすべての局を受信できるラジオに関係している。物まねはじぶんより有力な人のそれである。自慰空想において患者は莫大な力をもつ人物になっている……。

 

 ラカンは全能性の主題に疑問を呈する。患者がしていることはみずからの巨大化ではなく矮小化である。これは洞窟のモチーフからも明らかである。シャープはこれらの見聞が「小さい」頃の記憶であることを強調している。主体の全能性とパロールの全能性の混同がある。患者は法廷で「話す」際に恐怖症を来す。父の最後の「ことば」は「ロベールが私の跡を継がねばならない」であった。生者として、それとも死者として?患者を困惑させるのは話すことのみならず、父に話させることである。ここには話す者としての<他者>と想像的なものとしての小他者との分割が関わっている。シャープは「壮大な夢」(世界一周、etc.)に全能性を読みとる。「壮大」と形容しているのは患者であり、実際には些細な内容である。全能性は<他者>の側、パロールの側にある。シャープが全能の幻想に伴うとする「攻撃性」も疑わしい。シャープはレベルの違いを考慮していない。シャープによれば洞窟は女陰であり、自慰空想は[性的]全能性に関わる。しかるにフロイトは母親の征服に際してのエディプス的英雄の不適合の感情を指摘している(ペニスのサイズへのコンプレックス)。

 ふたたびシャープの引用。洞窟の記憶は遮蔽記憶であり、年長の女性の性器を見た記憶を隠している。先端[pointe]、頭巾は陰核である。このあたりのシャープは歯切れが悪い。幼時の現実的な記憶に帰すことができるものであろうか。ここでシャープは八歳年長の姉をもちだし、女友達による男性の声音を姉の陰核と放尿の音に結びつける。さらに毛布に寝かされていた際に母親の性器を見た事実を想定する。ラカンはシャープが分析素材を扱う際の介入主義的で(actif)粗雑なやり方を批判する。転移における根本的幻想(fantasme fondamental)はどこに位置づけられるだろうか。患者は分析家に想像的なレベルでの転移を起こしている。シャープは分析家の自慰が患者自身の自慰であると認めている。しかし患者はシャープを自慰させることへの意志を認め、動詞の誤用を指摘している。ここで幻想=シニフィアンは、包み込む関係にある男女の親密な関係である。患者は包み込まれているだけではなく、「女性を」自慰させることによって、「みずからを」慰めている。しかし自慰はしていない。裏返された手袋(鞘 gaine = vagin)のイメージである。主体は想像的でありシニフィアンでもある人物が包み込まれるイメージを見ている。このイメージにたいして患者はみずからの欲望を位置づける。患者は仕事で国王夫妻が立ち往生する現場に向かう途中、車が故障するという観念に捉えられる。シャープはここにも攻撃的な全能性への復讐への恐れを読みとる。患者は幼時にも両親を立ち止まらせる経験をしていたのだと。「車」というモチーフに注意すべし。症例はクラインの両性的な怪物的親の観念と同時代。患者がしているのはファリック・マザーを男女に「引き離す」こと(「心理的割礼」という「手品」)。「卵袋」を何度も裏返して入れてあったものを出したり消したりしてみせる操作。主体のたえざる現前と不在は、女性的要素を含んでいる患者の自慰においてもみられる。夢の中の突き出た要素とは「包皮」でもある。幼時にベッドに縛り付けられていたことは、[両親の]性交の場面にたいして「付けたり」(代補 supplément)としてしか関われないことに関係している(放尿という衝動的反応はみずからがあずかれない享楽の「代わり」としての「偽りの享楽」)。このとき患者はかれを必要としているパートナーになり、女性化する。不能であるかぎりで患者は男性であり、解放されているかぎりで女性化している。みずからのうちでの女性性と男性性のこうした不分離、こうした本質的に自慰的な隠れんぼ遊びが患者の幻想の内実である。