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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「精神分析はわれわれの時代の倫理たり得るか?」:ブリュッセル講演

 

*「精神分析の倫理ー精神分析はわれわれの時代が必要とする倫理たり得るか?」(Ethique de la psychanalyse ― La psychanalyse est-elle constituante pour une éthique qui serait celle que notre temps nécessite?)

 

 1960年3月9日、ブリュッセルのサン・ルイ大学哲学・宗教学部で行われた二部構成の講演の第一部。ウィニコット宛書簡において言及されていたブリュッセル講演がこれ。時期的には『倫理』のセミネールのちょうど折り返し地点あたりで、同セミネール前半のダイジェスト的な内容。タイトルはジョエル・ドール作成の書誌(E.P.E.L., 1994)に拠る。

 

 分析の経験は、哲学が現実を捉え損ねていることを教える。これが倫理へのアプローチへの出発点になる。ヘーゲルによれば現実的なものはすべて理性的である。しかるにその逆は真ではない。理性を用いる者たちは、現実的なものと理性的なものの一致を知らない。教師が教えるものは現実的であり、それゆえに効果をもつ。自我心理学には妥協とか社会的適応といった効果はある。しかしいわゆる効果に反比例して[性的]不能は深刻化する。人間は欲望をますます満たせなくなる。フロイトはここにひとつの真理をみてとった。欲望は単純なものではないということである。現代の分析家たちは欲望の重要性を捉え損ねている。フロイトは欲望を倫理[学]の新たな対象と位置づける。そのこころは以下のとおり。フロイト的無意識に固有な性質は翻訳可能であることだ。翻訳不可能な地点、すなわち症状の根源的なある一点においてさえ翻訳可能だ。解読されないものは解読可能である。すなわち無意識において翻訳されるものの機能をおびることによって表象される。翻訳されるものとはシニフィアンである。シニフィアンの二つの特性は置き換え可能であること(共時性)と連鎖をなすこと(通時性)である。シニフィアンのもっとも純粋な例は文字である。文字は一つだけではなにもいみしない。文字(または単語)の定義は一連の使用(emploi)によってしか効果をもたない。文字は既成の使用を変更することによってしか意味をなさない。あらゆる意味作用は既成の意味作用を分有する(換喩)。一方、新たな意味作用はシニフィアンの置き換えによって生まれる(隠喩)。かくして無意識はディスクールである。ディスクールとは、ランガージュの諸構造のある一定の使用(usage)のことである。とはいえそこに欲望がダイレクトに読みとれるというわけではない。無意識的欲望とは無意識のディスクールを担う者(=主体)が望むものである。その者は真理をいうことを強いられない。話すという事実そのものが嘘をつかせる。無意識的欲望はものじたい(chose en soi)とおなじく知り得ないが、ディスクールの連鎖というすぐれて「対自」(pour soi)であるものの構造をなす。親密なものの最極端(extrême de l’intime)にして排除された内部性(internité exclue)は哲学よりも精神分析になじみの領域である。神秘主義と異端の伝統に揺さぶられてきたベルギーにおけるような分裂がそこにあるのだ。パウロの書簡は真理の領域におけるこのような分裂を照らし出す。信仰は知を排除しない。信仰で問題になっているのはひとつの知である。「法は罪であるか?否。しかし法によらずして私は罪を知ることはない……」(ローマ書簡)。

 フロイトはマテリアリスト(実利主義者)であったが功利主義に訴えなった。功利性は貪欲な法が課す享楽の不満足という道徳とは無関係である。こうした法の起源をフロイトゲーテに倣って過去の重大な出来事の痕跡に見出そうとした。しかし個体発生は系統発生をくりかえすというときの「個体(onto-)」が曲者である。問題は個人としての存在者ではなく、存在への主体の関係である。この関係はディスクールによって形成されている。人類史のある時点でこの関係が変容を遂げたのだ。フロイト自身に獲得形質の遺伝をほのめかすくだりがあるとはいえ、フロイトが参照しているのは発生学ではなく、ディスクールにおいて主体を基礎づける伝統、つまりユダヤキリスト教的な一神教の伝統である(父の名)。『モーセ一神教』においてフロイトはみずからをモーセになぞらえたと言われている。しかしフロイトは家庭生活においては父親的ではなく、もっぱら分析家の集団(horde)においてエディプス的ドラマを生きたにすぎない。フロイトはむしろ<知性=母>、言い換えれば、<フロイト的もの>(la Chose freudienne)であった。<フロイト的もの>とはまずもってフロイトの<もの>、すなわち無意識的欲望の中心にあるものだ。『トーテムとタブー』における恐怖症的対象の考察がフロイトに父の機能を発見させた。この父の機能が欲望の全能(「思考の全能」というべきではない)を断念させる。父が禁止の機能を担えるのは、この父が死んだ父であり、かつじぶんが死んでいることを知らない父であるかぎりにおいてである。神が死んだ(それゆえすべてが許されている)と信じている現代人にたいしてフロイトは「神は死んだ。もはやなにひとつ許されていない」という事実をつきつける。エディプス複合の終焉は父の喪であり、これに際して愛されざる父への同一化(超自我)が起こる。神経症の構造は、法の場(lieu)であり座(siège)である父という象徴的な審級の逸脱、欠陥の名残(déchet)に由来している。これに現実的父(≠象徴的父)の影響が与っていることにフロイトは気づいていたが、現代の精神分析においては無視されている。フロイトは宗教性を倫理の核心に置いた。フロイトの弟子らは神々に欲望の隠喩を見出したが、フロイト一神教における不可視なものの優位(ロゴス)、信と法とにしか基づかない(それゆえ霊的なものである)父性に欲望の起源をみた。人間を重層決定するロゴスは上部構造ではなく下部構造である。フロイトヒューマニストでも進歩主義者でもなかった。それゆえにブルジョワ的な倫理を乗り越えた。道徳的秩序と国家への忠誠にほかならない共産圏の倫理をも含めて。古代的倫理の構成要素である至高善と誠実さと効用のいずれをもフロイトは退けた。快は善でも悪でもない。精神分析は現代における誠実さの希望(ユング)ではありえない。フロイトの教えは、罪悪感が無意識的なもので、それは根源的な犯罪に由来し、それをいかなる個人も贖えないということである。理性は人間の内奥に住まう。欲望そのものは分節不可能であるが、分節言語のなかに現れる(le désir est à l’échelle de langage articulé)。理性とは論理学的な整合性と考えられている。フロイトは無意識には否定がないと述べているが、一方で否定は無意識に由来するともしている。すなわち虚辞の ne に欲望が刻印されるのだ。欲望とその法則(règle)が結びつく「真理の結び目」がエスであるが、そこは存在者的な実体性ではなく存在欠如をその性質とする。