lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

2018-01-01から1年間の記事一覧

縫合としての主体:セミネール第9巻『同一化』(その11)

第XIII講(承前) ……前回は「剥奪」で話を終えたのだった。(-1)によって象徴化される主体についてはご理解願えたものと思う。計算に入れられない一周。マイナス1と計算される一周。つまり一周したときに巡っているトーラスの一周。 この(-1)の機能を普…

エロスの未来:セミネール第9巻『同一化』(その10)

第XIII講(14/03/1962) キリスト教(gentils 異教徒)におけるエロス的なものの困難。キリスト教は「ウェヌスとのトラブル」を抱えている。 キリスト教の根本はパウロ的顕現、つまり、父への諸関係におけるある重要な一歩にあり、父への愛の関係はこの重要…

愛への愛としての喪:講演「私の教えていることについて」(了)

承前。 ここでフロイトが「メランコリー」論文で語っている奇妙な喪に出会う。これを métamour と呼ぼう。メタ言語は存在しないが、メタ愛はあるのだ。愛が走り(se courir)また近道をとる(court-circuiter)のもこの同じ道である。その途上で愛の営み(éb…

表面としての人間:講演「私の教えていることについて」

原題は<<De ce que j'enseigne>>。1962年1月23日(セミネール「同一化」第9回の前日)、 l’Evolution Psychiatrique の集会にて行われた講演。ミシェル・ルッサン版「同一化」は、テープから起こされたとおぼしきスクリプト(一部の晦渋なくだりは省略されている)とクロード・コ</de>…

誤りとしての主体(承前):セミネール第9巻『同一化』(その9)

第XII講(07/03/1962) 前号の続き。 本日をもってわたしは「予知(pressentiment)の時代」の幕を開ける。しばらくのあいだ、誤りと正しさ(à tort ou à raison ならぬ à tort et à raison。もちろん tort は tores に掛けてある)の二重の側面からのアプロ…

誤りとしての主体:セミネール第9巻『同一化』(その8)

第XII講(07/03/1962) 冒頭、前夜逝去したルネ・ラフォルグへのオマージュがささげられる。 哲学者にとっても分析家にとっても主体は誤るということが創設的な経験。分析家にとっては、主体が「言われうる」ということが関心の対象。 “知の手段の修正”は、…

宇宙飛行士の純粋理性:セミネール第9巻『同一化』(その7)

第XI講(28/02/1962) 欲望は大哲学者たちではなく精神分析のことがらである。欲望は真理の機能と結びついている。 「われわれの実践の素材である葛藤や隘路はその作用において主体の位置そのもの、経験の構造において主体として拘束されたものとしての主体…

コギトと固有名:セミネール第9巻『同一化』(その6)

第6講においては固有名について考察される。ラッセルによれば、固有名とは個別的なもの(particular)を描写なしでそのもの自体として指示する。ミルは、固有名は意味をもたないことにおいて一般名詞と区別されるいっこの印であるとし、ガーディナーは意味…

現実界の方へ:セミネール第9巻『同一化』(その5)

第5講(13/12/1961) 「単一性とは、存在するものの各々が、それによって一と呼ばれるものである。数とは、単一性からなる多である」(ユークリッド『原論』)。これこそ差異の支え(支持体)そのものとしての唯一の線の定義というべきである。 これはフロ…

戦争は戦争である:セミネール第9巻『同一化』(その4)

第4講(06/12/1961) 「a=a」という“信仰”。「a=a」はシニフィエをなすようにみえるが、「a=a」は「何も」いみしない(ça ne signifie rien)。つまり、“無(rien)”をいみしている。 fort : da が参照される。現れたり消えたりするピンポン球はシニフィア…

言葉を話す犬:セミネール第9巻『同一化』(その3)

第3講(29/11/1961) 同一化において問題となる「一」は、パルメニデス的な一なるものでもプロティノス的な一者でもなく、いっこの全体性でもなく、教師が黒板に書くような一本の線である。 同一化は「考えるもの」(res cogitans)なるなんらかの実体への…

行為としてのコギト:セミネール第9巻『同一化』(その2)

第2講(22/11/1961) 精神分析家にとって同一化とはシニフィアンの同一化である。 ラカンはヤコブソンの亜流であると言われているが、主体の実現におけるシニフィアンの機能の優位を指摘したのはラカンである[らしい]。 ソシュールによれば、たとえ日によ…

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962) ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。複数の受講者のノートを照合して作成された Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。 第1講(15/11/1961) これまでの…

ラカン対エリアーデ:「象徴およびその宗教的機能について」(1954年)

*「象徴およびその宗教的機能について」(Du symbole, et de sa fonction religieuse, in Le mythe individuel du névrosé, Seuil, 2007) 1954年、宗教心理学会議におけるミルチャ・エリアーデとの討論。ラカンは十字架のヨハネ(saint Jean de la Croix)…