lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

2019-01-01から1年間の記事一覧

子供への欲望:セミネール『同一化』第15講 (了)

承前。煙突掃除夫としてのジョーンズ。ラカンのジョーンズ論へのいまひとりのウェールズ人(ウィニコット)の無理解。ジョーンズのフロイト伝の貢献は、フロイトとダーウィンの区別だけ。男根期および女性同性愛についてのジョーンズの無理解(méconnaissanc…

マゾッホとサド:『同一化』第15講(その3)

承前。 執筆中のサドの作品への序文(論文「カントとサド」)に基づくサドについてのコメントがしばしつづく。<他者>への道筋への構造化する親近性。この道筋が欲望の対象のいっさいの設立を規定する。サドにおいてこれは、<至高存在>への罵倒にみられる…

セミネール『同一化』第15講(その2)

承前。 主体とはわれわれに呼びかけるものである。同一化されるのは主体のみである。欲動やイマージュが同一化されることはない。フロイトはこれを主体と特定していないとしても。 第一のタイプの同一化は体内化するそれである。身体のレベルで何かが生み出…

『同一化』第15講(その1)

第XV講(28/03/1962) 主体の同一化の過程はトーラスによって示される。同一化の弁証法。 トーラスは球面ならざる表面で唯一われわれの関心を引く。どんなに変形しても恒常的な関係を保つ「ゴム製の論理学」。 本質的にわれわれの関心を引く表面は閉じられた…

「不能」と「不可能」:『同一化』第14講(了)

承前。 <他者>は何も答えない。何ものも確実でないから。それにはひとつの意味がある。すなわち、それについて<他者>がこの問いについて何も知りたくないということだ。 このレベルでは<他者>の「不能」がひとつの「不可能なもの」に根づいている。「…

「たぶん何も」と「もしかして何も?」:『同一化』第14講(その3)

承前。 欲望のグラフにおける裂け目は、<他者>への答えの求めが rien peut-être と peut-être rien のあいだで揺れることにある。 以下のグラフ下段がメッセージである。 メッセージは現実界への主体の参入によって構成される開けとしてわれわれに現れるも…

トーラスの動物:『同一化』第14講(その2)

承前。 objet a は、鏡像段階のレベルでの他人(l’autre)のイマージュ、i(a)自我理想を内包している。 とはいえ、この関心はひとつの形態でしかない。それはこのニュートラルな関心の対象であり、ピアジェはかれが相互性とよぶこの関係を前景化しているが、…

エディプスという結び目:セミネール『同一化』第14講(1)

第XIV講(21/03/1962) 前回は二つのトーラスのサンボリックな抱擁で終えた。そこにおいて想像的に転倒(interversion)の関係が具現している。この関係を神経症者は生きている。神経症者がみずからの欲望を基礎づけよう(fonder)、立ち上げようとするのは…