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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

子供への欲望:セミネール『同一化』第15講 (了)

 

 承前。煙突掃除夫としてのジョーンズ。ラカンのジョーンズ論へのいまひとりのウェールズ人(ウィニコット)の無理解。ジョーンズのフロイト伝の貢献は、フロイトダーウィンの区別だけ。男根期および女性同性愛についてのジョーンズの無理解(méconnaissance)そのものが注目に値する。ジョーンズは去勢複合のパラドクスにつきあたった。去勢を説明するためにアファニシスという述語を導入した。

 

 エディプスの効果を定義するために、ジョーンズは<他者>の一部を自認し、対象あるいは欲望のいずれか(排他的 ou)を禁じる。おまえが私の欲望するものを欲望するところで、私、死せる神は、お前にその欲望の対象を禁じる命令によってしか存在する証拠をもたない(それで十分)。あるいはより正確には、お前に欲望の対象を失われたもののレベルにおいて構成せよという命令だ。それとは別の対象を見つけることはもはやできない。ジョーンズを解釈すると以上のようになる。対象か欲望か。これにつけ加うるに「あるいは欲望を放棄せよ」。欲望放棄とはどういうことか。フロイトは女性同性愛にエディプス的葛藤を導入した。欲望が消失するとは、欲望が隠れていることなのか。クロスキャップにおいて要求へと反転することなのか。それは同性愛者がしていることでもある。[欲望が]要求のサイクルに反転するのだ。ここでは要求はそれじしんのメッセージを逆転したかたちで受け取る。

 

 つまるところ、隠された欲望とは何か。抑圧された欲望である。抑圧への恐れ。欲望が消失するその地点(抑圧)で、主体はこの消失から切り離されず、そこに含まれている。不安は欲望の消失から生じるのではなく、欲望が隠す対象から生じる。欲望の真理、あるいは<他者>の欲望についてわれわれが知らないものから。

 

 消失し得る欲望についての意識は共犯性だ(conscius = complice)。それゆえ先にサド的倫理と対象との関係に言及したのだ。いくつかの欲動の組み合わせのいわゆるアンビヴァレンツ、両義性、反転可能性。主体が対象となり、対象が主体となるのだ。これは<他者>に照らしてのみ意味をもつ。

 

 それゆえ、去勢複合における不安の源泉としてのアファニシスは問題を外れている。唯一の問題とは、なぜ欲望の道具としてのファルスが重要かだ。なぜ欲望ではなくファルスこそが不安に関与しているのかだ。あらゆる不安は無への不安だ。<<rien peut-être>>に主体は……[直面]するのだ。主体にとって最良の仮説は「恐るべきものはひょっとして何もない」。

 

 そこにファルスの機能が生じるのはなぜか。なぜファルスが、要求が含む空虚の秤として、つまり、快原則の彼岸から、要求を永久の反復にするものから、欲動を構成するものから、やってくるのか。

 

 欲望は欲望を脅かす問いの途上で構成される。それは n’être [ ≒ naître]の領域にある。教会と産児制限。いかなる立法者も報告していないが、子供の誕生の第一の存在理由は、子供が望まれる(on le désire)ということにある。人口政策の功利主義的必要と優生学的選択への不安にみちた恐れとのあいだで揺れる議論において忘れられているのはこのことだ。小さな一歩だが、この一歩は決定的である。