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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

欲望への防衛、あるいは神経症者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その19)

 第XXIV講(10/06/1959)

  神経症者における欲望の構造の規定に先立ち、倒錯者におけるそれが回顧される。
 主体はまず他者のイマージュを、ついで幻想を欲望の支えとする。露出症者と窃視者は相補的ではなく並行的である。いずれにおいても幻想において主体は裂け目として現れるが、それは現実界における穴にして煌めき(éclat)である。窃視者はブラインドの陰(穴)から覗き、露出症者はみずからのスクリーン(明るみ)を開陳する。行為において主体は対象の煌めきとなるが、それは主体によって裂け目の開けとして知覚され、この裂け目が主体を開かれたものとして位置づける。すなわち他の欲望へ開かれたものとして。主体じしんの欲望は煌めきのなかにかいまみられたもの(aperçu)によってすっかり打ちのめされている。露出症者においては羞恥を超越した<他者>の情感(émotion)があり、窃視者においては<他者>の開けであり、潜在的な期待である。この<他者>が、見られていると感じていないが、みずから見られるべく身を捧げているかのように知覚されるかぎりにおいて。この根源的な構造は神経症の原因やそれを誘発するスティグマータにおいてもみてとられる。神経症の出発点にもひとつのかいまみられた場面(scène aperçue)、すなわち原光景がある。原光景がこの構造にあずかっているのはこの構造を逆転させることによってである。この逆転によって、主体はなにものかが開かれるのを目にし、突然ひとつの裂け目をかいまみる。その外傷的な価値は<他者>の欲望に関係している。<他者>の欲望はここでは謎めいた核のままであり、その後、主体は生きられた瞬間を事後的にひとつの連鎖において再統合する。この連鎖が神経症の核を生み出す。
 幻想の構造について。方向づけの価値をもつものは宙吊りにされた時間であり、そこでは主体がみずからの位置の方向(意味)を見失うという条件のもとに設立される。幻想は主体にとって不透明である。幻想における主体の場所を分析家は示すことができるが、主体はなぜそこに位置しているのかをみずから言うことができない。
 幻想においてアファニシス(fading)という語を使えるのは、欲望の喪失としてではなく、欲望の先端において主体のアファニシスが起こるかぎりにおいてである。無意識の連鎖において、それ(Ça)が語る地点において、主体はみずからの場所にいることができず、「私」と言えない。主体は主体の位置から消失するかぎりにおいてしかみずからを指し示すことができる。主体の存在は無意識のなかに名指されるべきであるが、名指されることができない。主体の存在は幻想のレベルで裂け目として、切断の構造として指し示される。フロイトが夢の臍を口にするとき、主体の消失について述べている。欲望は他の欲望へと無限に送り返される。露出症者も窃視者も<他者>の欲望に依存している。

 ハンス少年はそのかぎりではない。ハンスは母の欲望から逃れられない。フロイトが「無意識」論文で述べている Hilflösigkeit の状態にあるが、これは不安よりも原初的な状態である。<他者>の欲望と主体の欲望は「劇的に」対峙している。 <他者>の欲望は主体を吸い込む(aspirer →熱望する)。この「ドラマ」は倒錯者にもみられる。倒錯において幻想は行為への移行においてのみ明かされる。ハンスにおける恐怖症的対象は、あらゆる目的に供されるシニフィアンである。それは主体の欲望と<他者>の欲望の中間にあり、みずからの欲望からの防衛の機能を果たす。母親は要求に応えてくれる存在ではなく、それじたい[ファルスの]欠如に開かれている。母親の存在欠如というハンスのドラマは恐怖症のシニフィアンを出現させることによってしか解消できない。これはマスターキーのようなものであり、不安の出現から主体をまもってくれる。
 幻想の対象は、<他者>の欲望に近づかないためにある。恐怖症の対象は、危険な享楽からまもってくれるかぎりで「禁止の対象」でもある。それが危険なのは欲望の深淵を開くからだ。
 ヒステリー者は禁止の対象をもって<他者>の欲望への防壁となすのではなく、「満足されない欲望」によってみずからの欲望を支え、強迫症者は「不可能な欲望」によってそうする。「美しき肉屋の女房」の事例が示すごとく、ヒステリー者は幻想において、主体と対象のあいだの第三者の位置を占め、ヒステリー者じしんが欲望への障害となる(恐怖症においては対象が障害となる)。かのじょの享楽は欲望を妨げることである。ヒステリー者の位置はパペットのそれである。別の女性というかたちのもとにみずからの分身である影を召喚し、その仲立ちによってかのじょの欲望が隠れたかたちでではあれ組み込まれる。
 いずれにしてもヒステリー者は賭(ゲーム)に身を投じるが、たいして強迫症者はみずからの欲望が賭けられている場所にいない。強迫症者は抹消された主体(S barré)を武器とし、隠れ家とする。欲望への関係を「時間化」し、翌日延ばしにすることによってである。たいしてヒステリー者において欲望への関係は瞬間的(instantanné)である。強迫症者はひたすら待機するだけではなく、みずからの欲望のばしょに<他者>への畏敬を置くことで、みずからを欲望する者たらしめる。神経症者においては欲望そのものが防衛となる。欲望を支えるために、<他者>の欲望への関係において第三者的ポジションにある何かの助けを借りる。この何かのおかげで主体は現実的<他者>への関係におけるみずからの位置を象徴化できる。ここで問題になっているのはファルスである。
 ファルスは法に結びついている。器官としてのファルスは享楽の道具であり、欲望のメカニズムに組み込まれていない。文化の諸関係が制定されると、欲望は法にしたがう要求として、他のいっさいの要求から区別される。フロイトは、種もしくは個人の保存の欲求に応える要求を別のレベルの要求から区別している。人間において性的欲望が動物よりも行為への移行にたいして引き延ばされるのは、姻戚関係と親族の法則を基礎づける交換の秩序が性的欲望に基づいているせいである。ファルスは根本的に性的欲望の対象としての主体であり、この対象は生殖能力の法にしたがう。これがファルスの根本的な意味作用である。父は欲望を法にしたがわせるかぎりで生殖能力の法のシニフィアンである。ここに欲望の弁証法がみられる。文化における欲望の相互反応を規制する諸関係によって定義される交換の法において主体はファルスとしてあらわれる。ただし、ファルスとしての主体の機能化(函数化)の途上で欲望が介入する。欲望において消滅にまで至る主体の「存在」が表出される。ただし、ある時点から主体は欲望においてみずからを把握できなくなり、存在を欠如させる。この欠如がファルスの機能(函数)と出会う。
 ハムレットは貪り尽くす女性の欲望に吸収されるか、誰でもなくなるかの選択を迫られる。To be, or not to be… における二つめの to be は最初の to be とは別のいみをもつ。欲望の原初的な構造としての「存在しないこと」が現れるのだ。第一の to be においてはハムレットがファルス「である」ことが問題になっている。しかし、<他者>の刻印を受けたファルスになることは、「ファルスをもたない」脅威へとかれをおいやる。ハムレットは選言の論理記号(〜)で表しうる「あれかこれか」という選択を迫られている。「ファルスでない」、消滅し、存在を欠如させることが選択肢の一つめ。「ファルスである」を選べば、「ファルスをもたない」ことになる。このような賭において、神経症者はみずからの欲望の接近(統合)を喪失の脅威として感じる。「1ではない(pas un)」は、欲望の基本構造における抹消された主体を示しているが、男性にとっては去勢脅威として、女性にとっては不在のファルスとして、「余計な1」あるいは「不足している1」に変換される。
 これは他人のイマージュへの自己愛的な関係において自我が感じるものである。クラインの症例リチャードにおける車両の連結(シニフィアン連鎖)や扉の開閉(サイバネティクス)。リチャードは二つの扉の間の暗闇に身を持する。リチャードの欲望が宿るのはこの中間地点(no man’s land)においてであるが、クラインはそこに自我を介入させる。 
 ここで「子供が叩かれる」に立ち戻る。ここにおいて自慰的享楽は欲望の解決(解消)ではなく、その破壊である。人間の欲望は快楽主義によって説明できない。強迫症者の幻想は享楽に関係しており、この享楽がその幻想の条件のひとつでさえある。幻想は同時に方向づけの機能をも果たす。幻想は主体の歴史の一つの特徴を指し示す。
 神経症者のもっとも根本的な構造はなにか?神経症者は症状において享楽を見出す。主体は純粋な存在(pur être)ではなく[換喩的に]「〜へ向かう存在」(être pour)である。