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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

なぜヒトラーを殺せなかったか?:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その14)

 

 第XIX講(29/04/1959)

 

 『ハムレット』読解の最終回。

 

 『ハムレット』がその全篇にわたり語っているのは喪という主題である。「経済、経済!」と現代社会。使用価値と交換価値の分離による物質世界(le monde de l’objet)の搾取を説くマルクス主義的分析は、「儀式的価値」を無視している。喪とは「巨大な象徴的裂開(béance symbolique majeure)」「象徴的欠如」(「夢の臍」はその心理学的対応物)に呼応する。『ハムレット』においてはあらゆる喪の儀式が省略され、非合法化されている(父のそれのみならず、ポローニアス、オフィーリアのそれ)。

 欲望と対象との「出会い」(rendez-vous)はたんなる appointment ではない。ハムレットにおいてもエディプスにおいても喪の根底は犯罪。後続する幾多の喪はあるいみで原初的な喪の帰結でありその継続である。分析家にとって『ハムレット』は起源についての省察であり、エディプスの犯罪は主体と<他者>(=法が記載される場)との関係の本質に関わる。フロイトは『トーテムとタブー』でそれを神話として表象した。

 エディプスとハムレットの非対称性。エディプスにおいて、犯罪は主人公の世代において起こる。たいしてハムレットにおいては先行世代において起きている。エディプスにおいて主人公は罪を知らず、運命に導かれる。たいしてハムレットにおいて罪は意志的に行われる。ハムレットにおいて罪は犠牲者を不意打ちする。エディプスはわれわれが夢において反復するように劇を生きるが、ハムレットにおいて父はみずからの思惑とは相容れない仕方で不意打ちされる(「罪の花咲くなかで」)。そこには謎がある。主体にとっておよそ異質な犯罪の侵入は、主体が知っているという事実によって補われている。ハムレットは父から知らされる。『ハムレット』は『エディプス王』とはぎゃくに、「何が起こっているのか?」「罪はどこか?」「犯人はどこか?」から出発しない。主体の耳に入れられた罪の告発(暴露)から出発する。この暴露は、無意識のメッセージS(A barré)のシニフィアンという形式の下になされる。エディプスの正常な形式においては、このシニフィアンは父の人物像において受肉される。法の作者(真理の真理)であるかぎりでの父による<他者>の場の認定(sanction)が期待されている。しかし、父は罪を被る者であり、誰にもましてそれを保障できない。かれじしんも現実的な父であるかぎりで斜線を引かれており、それゆえ去勢された父であるから。

 『ハムレット』のオープニングでは事情が異なる。父のメッセージにおいて、<他者>は斜線を引かれたものとしてすがたをあらわす。父は贖えない負債を背負っている。エディプスはみずから罪を贖うことによって悲劇の主人公となる。フロイトは現代人が歪められたかたちでしかエディプス的状況を生きられないという「世紀末的」な見解を提示している。「この世の関節がはずれてしまった。ああ、いやなことだ(The time is out of joint. O cursed spite.)」。spite は悔しさ(dépit)と訳されるべきである。エリザベス朝において悔しさは客観と主観のはざまにある。ハムレットにおけるエディプスの頽落的(décadent)形態(不完全な Untergang)。これはフロイトが論文「エディプス複合の没落(Untergang)」において個人の生にみたものと区別しにくい。

 フロイトによれば、エディプスの謎はかれが父を殺し、母と交わったことそのものではなく、それらが無意識になされたことだ。「エディプス複合の没落」によれば、エディプス的な三角関係において、子は父に同一化しても母に同一化しても去勢を被る(女性はもともと去勢されているから)。ファルスという「もの」にたいする子の選択肢は閉じられており、子は要求の主体から欲望の主体へとシフトすることを強いられる。ファルスが「もの」であるのは、それが現実的ななにかであり、いまだ象徴化されず、潜在的に象徴化されているなにか(シニフィアン)であるかぎりにおいて。かくしてファルスはエディプスの「没落」の鍵である。主体は「ファルスの喪」に付さねばなければならない。エディプスの「没落」は喪をめぐって起こる。

 セミネール『対象関係』における去勢、欲求不満、剥奪の図式が召喚される。

 ヘーゲルにおける否定性および実存主義における無が去勢(ーφ)に帰される。フロイトによればこれはロゴスへの関係が人間に穿つ刻印である。

 「欲望の対象aはみずからがそれでないものにたいする主体の関係を支える対象である」。

 父の理想化はハムレットから「声を奪い」、単にどこにでもいる「男」としか形容できなくする。たいしてクローディアスへの侮蔑はどうみても「否定」(dénégation)である。ハムレットの悲劇においては、エディプスのそれとは異なり、父の殺害後もファルスが依然として現前している。クローディアスがそれを具現している(「現実的ファルス」)。ファルスがエディプス的なポジションからの転位を被っている(ectopique)。現実的ファルスはクローディアスが奪い取った父の機能そのものではない。目の前にあるものは討つべきものの「影」にすぎない。ハムレットが行為に至れないのはそのためである。ヒトラーもまたこのような「潜在性のシニフィアンそのものの[現実界における]謎めいた顕現」であり、その暗殺が不可能であったのも同じ理由からであるとラカンは『群集心理学と自我の分析』を引き合いに出しつつほのめかす。

 「屍体は王とともにあるが、王は屍体とともにはない」。「屍体」の原語が body であり、corpse でないことにラカンは注意を促し、さらに「王」を「ファルス」と置き換えてみよと述べて自説の根拠とする。それにつづく台詞には「王という代物(thing)は……取るに足らぬ物(of nothing)」とある。ファルスの顕現(phallophanie)が起こるのはその喪の瞬間においてだけである。