lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

2014-01-01から1年間の記事一覧

続「論理的時間」:「13という数と疑念の論理的形式」

*「13という数と疑念の論理的形式」(Le nombre treize et la forme logique de la suspicion, 1946) 初出はLes Cahiers d’Art (1945-1946)。後、Autres Ecrits に収録。さいわいにも向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイトにアップされてい…

コギトと狂気:「心的因果性について」

*「心的因果性について」(Propos sur la causalité psychique, 1946) 後に『エクリ』に収録されたこの論文において、ラカンはアンリ・エーがジャクソンの並行説に依拠しつつ、狂気を器質因に帰していることを批判している。「アンリ・エーは狂気の[心的…

「わたし」の政治学:「論理的時間と先取りされた確実性の断言」

*「論理的時間と先取りされた確実性の断言――新しいソフィスム」(Le temps logique et l'assertion de certitude anticipée, Un nouveau sophisme, 1945) 「わたし」というアイデンティティを獲得するに際し、囚人たちは鏡(「おのれの姿を映し出す術」)…

相対性の科学へ:「《現実原則》を越えて」

* 「《現実原則》を越えて」Au-delà du << principe de réalité>> (1936) 『エクリ』に収められたもっとも初期の論考。同じ年、同じマリエンバードで、鏡像段階論が口頭発表というかたちで公にされている。その概要をまとめた「<私>の機能を形成するもの…

ラカンのアンチ・オイディプス:『家族複合』

*「家族複合」(Les complexes familiaux dans la formation de l'individu : Essai d'analyse d'une fonction en psychologie, 1938) 若きラカンによるエディプス複合批判の書。『フランス百科事典』(L'Encyclopédie française)の項目として執筆された…

「文体の問題」(1933年)

*「文体の問題」(Le problème du style) シュルレアリストの雑誌『ミノトール』に掲載された。 「講壇派の心理学」が誓う「機会論的思考」への「素朴な信頼」。「人間という現実のかくも組織立った無視」。これは精神科医の使命に背くものだ。 ほんらい精…

「パラノイア性犯罪の動機:パパン姉妹の犯罪」(1933年)

*「パラノイア性犯罪の動機:パパン姉妹の犯罪」(Motifs du crime paranoïaque : le crime des sœurs Papin, 1933. ) 当時のフランス社会を騒がせたパパン姉妹のケースに対するラカンのコメント。 学位論文におけると同様、妄想に対する「社会関係の影響…

「《吹き込まれた》手記」(1931年)

*「《吹き込まれた》手記 スキゾグラフィー」(Ecrits <<inspirés>> : Schizographie, 1931) 分裂言語症(schizophasie)という名称のもとで、何人かの著者たちは、ただ思考の深い障害をもつ症状としてだけでなく、それらの発達段階や内部機構をあらわすものとして、</inspirés>…

スピノザ的概念としてのリビドー:『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(8)

(承前) かくして、少年時代からスピノザに親しんでいたラカンは、フロイトにおけるスピノザ的な思考を鋭く感知し、スピノザをとおしてフロイトを発見する。 フロイトの革新は、非常に雑多な現象に共通の尺度として役立つエネルギー論的観念を心理学のなか…

スピノザ=フロイト派精神医学宣言:『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その7)

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』はつぎのスピノザの一節をエピグラフに掲げている。 いかなる個人の情動でも、他の個人の情動とはけっして一致しない。その不一致の度合いはちょうど、一方の人間の本質が他の人間の本質と異なるに従って、それだ…

パラノイアと創造性:『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その6)

患者エメの文学的才能(「創造的想像」)に関して、ラカンはそれを「精神病のプラスの恩恵」であり、「精神病の人間的価値」として本質的な要素と位置づけている。 このような恩恵が患者の社会的および生物学的適応すらも犠牲にして実現されるとしても、それ…

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その5)

さて、前回引用したくだりの末尾の一節をいま一度引いておくならば、 治癒の性状は疾病の性状を示しているようにわれわれには思われる。 つまり、法的な裁きを受けることによって患者の妄想が消滅したことは、患者を導いていたのが自罰の欲求であることを照…

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その4)

症例「エメ」は、ラカンによって「自罰パラノイア」と診断されている。患者エメは、息子に対する迫害妄想にくるしみ、さる女優に切りつけ、逮捕される。患者はもともと作家志望であり、セレブに対する憧れがあった。患者が女優の名を聞いたのは患者の親友か…

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その3)

われわれ一人ひとりに人格はわれわれの内的経験の総合因子として現れる。 というわけで、人格とは観念的な実体ではなく、一個人の具体的な「内的経験」の総計である(「総合」)。とりあえずこれは人格の客観的な定義。さらに人格には主観的な定義、言い換え…

『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(その2)

前回のつづき。 われわれはそれゆえ精神病と人格との諸関係について問題を提起する。 と、論文のねらいが提示される。ここでも、「諸関係」という複数性に注意しておこう。その数行あとにつぎのような一節がくる。 われわれの問題以上に実証的なものはない。…

ラカンの処女作『人格との関係からみたパラノイア性精神病』を読む

*『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(De la psychose paranoïaque dans ses rapport avec la personnalité, 1932) この博士論文において、ラカンは精神病を「体質」に帰す本質主義を退け、心因発生(psychogénétique)という立場に与する。それ…