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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

マゾッホとサド:『同一化』第15講(その3)

 

 承前。

 

 執筆中のサドの作品への序文(論文「カントとサド」)に基づくサドについてのコメントがしばしつづく。<他者>への道筋への構造化する親近性。この道筋が欲望の対象のいっさいの設立を規定する。サドにおいてこれは、<至高存在>への罵倒にみられる。<至高存在>の否定は罵倒というかたちをとる。対象の破壊は見せかけである。サドの犠牲者はあらゆる試練に抵抗するから。そして<自然>に受肉された母への転移がある。<自然>の(?)あらゆる行為への嫌悪である。<自然>の破壊行為を模倣しつつ、別のものを再創造すること。みずからの位置を創造主に返すこと。サドはそれと知らずに、言表行為によって、こう言っている。すなわち、私は父であるあなたにあなたのおぞましい現実をあたえる。母にたいする暴力的な行動においてわたしはあなたになりかわる。

 

 もちろん、対象を神話的に無へと返すことは、最終的に欲望の対象として崇められる特権的な犠牲者のみに狙いをつけるのではない。存在するすべての有象無象に狙いをつけている。サドの反社会的な陰謀のように、対象を無へと帰すことは、主としてシニフィアン的な権能の無価を装う(simuler)。これこそ、サド的欲望において設立される<他者>への根本的な関係と矛盾するもうひとつの項である。これはサドの遺言に示されている。「第二の死」である。存在そのものの死だ。死後に自分の痕跡が残ってはならないのだ。じぶんが埋葬されるであろう場所に草がふたたび生い茂らねばならない。その「痕跡の不在」にかれは主体として指示されたいのだ。より正確にはシニフィアン的な権能の無化として。

 

 シニフィアンの刻印そのものを含意する<他者>への関係において欲望の対象を内包することの正当性については、サド以上に最近復刊したポーランによる『ジュスティーヌ』序文を参照すべし。サド的想像力の対象との共犯性についての記述がある。ポーランははっきり述べていないが、サドの方法はマゾヒスムの本質に行き着く。犠牲者はサド的犠牲者の理想の、なんらかの不在の実質を担わされた「象徴」にすぎない。サド的主体は対象として廃棄される。ここでサドはマゾッホと通じ合う。マゾヒスム的享楽の行き着くところはしかじかの身体的苦痛を支えるべく身を差し出すことではなく、主体が純粋な対象となって廃棄されることにある。フェティシズムの対象でさえないひとつの無価値な財となること。<もの>への関係において、<他者>そのものの次元によって定義されるかぎりで享楽は根本的に混乱である。この<他者>の次元はシニフィアンの導入によって定義される。(つづく)