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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』ヴァージョン)

*「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(1957年) 講義ヴァージョンがシニフィアン概念に引きつけてまとめなおされる。 「lettre は殺し、esprit は生かす」のであるとすれば、それは「シニフィアンは死の審級を物質化する」かぎりにおいてだ。シニフ…

ラカンによるフェレンツィおよびライヒ讃:「治療-類型の諸変種」

*「治療-類型の諸変種」(Variantes de la cure-type, 1955) セミネール『フロイト理論と精神分析の技法における自我』開講中に『外科医学百科 精神医学篇』のために執筆された論文で、のちに『エクリ』に収録された。セミネール第一巻、第二巻における技…

死の本能と生の奇跡:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(了)

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第二十四講(29/06/1955) 講演の成功で自信をとりもどしたラカンが質問者たちに逆襲を試みる。 X:聖書には宇宙(「すべてを論理的に繋げるような固定され決定された法」)もしくはプラトン的な「ロゴス」…

サイバネティクスと精神分析の同時代性は「偶然」か?:『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十三講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第二十三講(22/06/1955) セミネール番外編の講演「精神分析とサイバネティクス」 サイバネティクスと精神分析という二つの「技術」(あるいは「思考」もしくは「科学」)の同時代性を説明する鍵の一つが「…

ランガージュへの集中砲火:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十二講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第二十二講(15/06/1955) サイバネティクスにおけるメッセージ概念。「ランガージュはメッセージのためにあるが、コードではない。ランガージュは本質的に曖昧であり、意義素はつねに多義的で、シニフィア…

ドッペルゲンガーそしてファルス:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十一講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第二十一講(04/06/1955) 「貞節を動機づけるのは誓いの言葉(パロール)にほかならない」(プルードン)。妻の誓いは夫個人をこえて「すべての男」に向けられ、夫のそれは「すべての女」に向けられる。「…

対象関係論と不合理なもの:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第二十講 シェマLにおいてはパロールが光のように一直線に伝わることを前提しているので、「隠喩」か「アナロジー」にすぎない。ミスリーディングなシェマの例として『自我とエス』の卵形の図が挙げられる…

惑星はなぜ話さないのか?:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析における自我』第十九講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第十九講(25/05/1955) なぜ惑星は話さないのか? 『我が闘争』においては「人間同士の関係が月同士の関係のように語られている」が「われわれもとかく月同士の心理学や精神分析をする傾向がある」。 惑星…

コロノスのハムレット:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十八講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』 第十八講(19/05/1955) 「リビドーの概念は精神分析的効果の領野を統一する概念」であり、「リビドー概念を使うことは一つの世界(統一場)へ到達しようとするあらゆる理論の伝統のなかにある」。「フロイ…

知を想定された主体:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十七講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店) 第十七講(12/05/1955) 出席者の質問へのコメントというかたちで進められる。以下、箇条書きで。 反復強迫を規定する「執拗さ(insistance)」はランガージュの根底にある機能。 「人は…

『盗まれた手紙』講義ヴァージョン:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十六講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店) 第十六講(26/04/1955) 「原因という概念そのものが、その内に象徴の連鎖と現実的なものを媒介する何かをもっているという点で、[あるかないかという]賭けを出発点として成立する」。…

2は奇数である:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十五講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店) 第十五講(30/03/1955) イルマの夢においても狼男の夢においても、「主体は解体し、消え失せ、主体のさまざまな自我へと分解している」。いずれにおいても「究極の現実的なものにたいす…

フロイトの罪:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十四講

第十四講(16/03/1955) イントロとしてマルセル・グリオールの講演の話題が振られ、レヴィ=ストロース的相対主義に引きつけてコメントされる。 イルマの夢において夢の意味という主題の「情熱的探究」に邁進していたフロイトが「メドゥーサの頭」のような…

イルマのお告げ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第12〜13講

第十二講(02/03/1955) 「夢見る人は、じぶんの夢の欲望にたいする態度においては、内なる共同(une intime communauté)によって結び合わされた二人の人物でできているかのようにみえる」(『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」)。ここに読まれる「主体の脱…

イギリス人は斬首される夢を見る:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第10講、第11講

第10講(09/02/1955) フロイト理論の進展の四段階(「草稿」、『夢解釈』、ナルシシズム論、「彼岸」)において、つねに同じ矛盾が持続するのは、この進展が否定弁証法の一形態であるから。「人間存在や人間経験に一貫性と自律的経済を付す象徴の次元」、「…

フロイト思想の誕生:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第8〜9講

第8講(26/01/1955) 「基本概念」としての「欲動」。心身症と対象関係との関係を扱ったペリエの発表へのコメント。対象関係という観念はその前提となる自我と他者のナルシシズム的関係を覆い隠す。「神経症はつねにナルシシズム的な構造によって枠どられて…

メルロ=ポンティからキェルケゴールへ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第7講

第7講(19/01/1955) 前夜のメルロ=ポンティ講演「哲学と精神分析」は、ポンティと精神分析の隔たりを明らかにした。ポンティのゲシュタルト主義は、「了解」「理解」を前提している。これは人間の相互理解の必要性というポンティの政治的関心と関係してい…

ヘーゲルの時代とフロイトの時代の間に起きたこと:『ル・セミネール』第2巻(第5〜6講)

第5講(15/12/1954) イメージしたいという欲求に負けて、主体を実体化するべからず。 「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」のようにじぶんじしんを数え入れるかどうかが人間の精神年齢の測定の基準とされている。ところで「主体とし…

機械にできないたった一つのこと:『フロイト理論と精神分析技法における自我』第4講

第Ⅳ講(06/12/1954) 「すべてを創ることによって至上の者は何を創るのか――自らを。しかし、すべてを創る前に彼は何を創るのか――私を」(シェプコ)。 フロイトの「組織立った矛盾」。フロイトの思考の「動き」は完成されることがなく、けっして教義的決定版…

機械論の復権:『フロイト理論と精神分析技法における自我』(第Ⅱ〜Ⅲ講)

第Ⅱ講(24/11/1954) コイレとの会見を踏まえ、メノンが一般に考えられているのとはちがって被分析者というより分析家であるとされる。形式性、一貫性を事とする知であるエピステーメは人間の経験の全領域をカバーするものではない。完全な、人間の経験のア…

自我の発生:『フロイト理論および精神分析の技法における自我』(その1)

* Le Séminaire livre II : Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse, Seuil, 1978. Ⅰ(17/11/1954) 自我についてのフロイト的概念は、コペルニクス的転回を画した。フロイト理論の一般心理学への吸収が告発される。「分…

「存在」のピラミッド:『フロイトの技法論』(了)

XXI(30/07/1954) 「真理は記号の外側に、記号とは別のところにある」。「真理として現れない誤りはない」。「誤りこそが真理の具現化した通常の姿」。「真理はすべて暴かれることはない」がゆえに「誤りというかたちで伝えられるというのが真理の本性であ…

概念と時間:『フロイトの技法論』第19〜20講

XIX(16/06/1954) 「意味作用は意味作用そのものへしか、つまり他の意味作用にしかけっして回付されない」。 キルケーによって豚に変身させられたオデュッセウスの部下のエピソードが召喚され、「豚の鳴き声がパロールになるのは、その鳴き声が何を信じさせ…

言語の存在論:『フロイトの技法論』第18講

XVIII(09/06/1954) 倒錯とは何か? 倒錯とは、スピノザのいう人間的受苦(passion humaine)を純粋化する経験、つまり、「想像的な鏡像関係を構造化する自分自身との分割」へと開かれるという経験である。この「分割」「裂け目」ゆえに、人間の欲望は他者…

サルトルを読め!:『フロイトの技法論』XVII章

XVII(02/06/1954) 母子関係には「裂け目」がない(バリント)。この定義はフロイト的な自体愛の段階を否定している。ウィーン学派は幼児には「対象」が存在しないとするが、経験的にそうでないことは明らかである。対象の概念を、生物と環界との関係という…

個人的な法としての超自我:『フロイトの技法論』XV〜XVI章

XV(19/05/1954) 狼男に即して、外傷の想像的「刻印」(Prägung)の事後的な抑圧によって過去が「象徴」「歴史」へと再統合されるプロセスが確認される。抑圧と抑圧されたものの回帰は同じだから、この過程は分析において生じていることと並行的である。 ハ…

ドラのシーソー:『フロイトの技法論』XIII〜XIV章

XIII(05/05/1954) 人はみずからの欲望について知らない。「無知」は「真理」との相関において理解すべき「弁証法的」概念である。動物の知が生得的(「環界」への「想像的接合」)であるのに対し、人間の基本的欲望は無政府状態にある。……人間は自身を身体…

正常性の脱構築へ:『フロイトの技法論』XI〜XII章

XI(31/03/1954) ルクレールによる『ナルシシズムの導入のために』第二部についての発表。これは自我理想と理想自我との区別がはじめてなされ、昇華と理想化の区別が唯一明示されたテクストである。ルクレールは自我理想が「フォルム」と見なされている点を…

リビドー理論のパラドクス:『フロイトの技法論』IX〜X章

IX(17/03/1954) 「他者に充実した仕方で語るごとに転移がある」。従来、想像的なレベルでの現象であり、分析の障害であると見なされてきた転移がパロールとの関係においてこそ定義されるべきことを確認すべく、ラカンは『ナルシシズムの導入のために』につ…

狼少年たちに花束を:『フロイトの技法論』V~VIII章

V(10/02/1954) この日の講義はジャン・イッポリットの発表に時間が割かれる。『エクリ』所収論文「フロイトの《否定》にかんするジャン・イッポリットの見解への序と回答」はこれを受けたもの。 否定(Verneinung)とは、判断における否定というより、前言…

「自我と他人」:『フロイトの技法論』Ⅳ章

*セミネール第1巻『フロイトの技法論』Ⅳ(1954年2月3日の講義) ラカンはフロイトの論文「転移の力動性について」において抵抗に関し本質的なことが言われているとかんがえる。仏訳には致命的な誤訳が含まれている。そのひとつは、コンプレクスそのものの…

フロイトの人間的(人道的?)介入主義:『フロイトの技法論』(2)

*Le séminaire Livre I : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975) ■1954年1月27日の講義 主体による無意識の真の現実の再征服のためには、方法や概念的範疇の形式的なカタログは役に立たない。 自我は技法的必要性に結びついた機能的役割をもつ。 フ…

死をよぶカルテット:「神経症者の個人的神話」(3)

*「神経症者の個人的神話」(承前) このシナリオは、父親と母親と[父親の]友人という原-関係(かならずしも事実として証明できない)を反映している。 このシナリオに神話としての性格を付与するものはなにか。このシナリオが、隠されたものとしての原初…

フロイトを信頼せよ:「神経症者の個人的神話」(2)

*「神経症者の個人的神話」(承前) 神経症者においてはこのエディプス複合の構造があるしゅの変更を被っている。特殊な社会状況に由来する父という形象の退化(dégradation)ゆえに。 父の機能の衰退の結果、精神分析家は、無知(ignorance)の状態にある…

精神分析にとって神話とはなにか?:「神経症者の個人的神話」(1)

*「神経症者の個人的神話」(Le mythe individuel du névrosé, 1953) セミネール0巻の「鼠男」論。現在では Seuil 社からジャック=アラン・ミレールの編になる叢書 Paradoxes de Lacan 中の一冊として刊行されている(2007年)。以下は冒頭部分のラフな…

料理人としての精神分析家:セミネール『フロイトの技法論』(1)

Le Séminaire livre1 : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975) *セミネールの開講(1953年11月18日の講義) 子弟みずからが答えをみつけること。精神分析と禅との並行性がほのめかされる。 フロイトの教えはあらゆる体系を拒否し、運動途上の思考を…

セミネール“マイナス・ワン”:「狼男」(1952~1953年)

*「狼男」についてのセミネール(L'Homme aux loups, 1952~1953年) 番号つきのセミネールに先立ち、1951~1952年および1952~1953年にラカンはフロイトの症例(ドラ、狼男、鼠男)についてのセミネールをおこなっている。これらは出版されていないが、鼠男…

精神分析という名の希望:「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」

*「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」(Prémisses à tout développement possible de la criminologie, 1950) フランス語圏精神分析家会議における報告「犯罪学における精神分析の機能にむけての理論的序説」(『エクリ』所収)の質疑応答の要約…

ラカンによるビオン讃:「イギリスの精神医学と戦争」

*「イギリスの精神医学と戦争」(La psychiatrie anglaise et la guerre, 1947) 1945年の視察旅行の報告。Autre écrits に収録されている。 フランスにおいて戦争は現実の否認と「幻惑」への逃避を引き起こしたが、イギリスにおいてはそのかぎりではなかっ…

ライブ・イン・ローマ:「ローマ講演」(発表原稿)

*「ローマ講演」(Discours de Rome, in Autres Ecrits, Seuil, 2001) 「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」(じゅうらい「ローマ講演」と呼びならわされてきたテクスト)への導入として1953年9月26日におこなわれた口頭発表、およびその翌…

Fort, Da, da, da:「ローマ講演」第3部を読む(完結)

半年にわたるシリーズ最終回。ついでに言っておけば、途中からちょいちょい参照させていただいていた新訳(新宮訳)はすばらしい仕事だとおもう。 Ecrits, p.320~ 人間の自由はある三項図式のうちにまるごと書き込まれている。その一つ。相手を従属させると…

ガンジス河からエトナ山へ:「ローマ講演」第3部を読む(その10)

Ecrits, p.317~ とはいえ生物学の黎明期においてビシャが生命にあたえた定義は、死に抵抗する諸力の集合というものであり、自己の均衡を維持するシステムの機能としてのホメオスタシスというキャノンのもっとも現代的な観念と同様、生と死とが、生に帰されて…

狼と主人と死:「ローマ講演」第3部を読む(その9)

Ecrits, p.314~ timing の切断が主体における急ぎの瞬間を中断する際の無関心は、そこへと主体の言説が急ぐ[se précipiter]結論にとって致命的となるおそれがある。ひいては誤解を植えつけるおそれがある。あるいは策略の口実になるおそれがある。 初心者…

狼の時間:「ローマ講演」第3部を読む(その8)

Ecrits, p.311~ 狼男症例において起こっているのはまさにこのこと。フロイトはそれを理解したので、期限の画定した[fini]分析と画定していない[indéfini]分析についての論文(脚注:『終わりある分析[terminé]と終わりなき[interminable]分析』は誤…

転移の現実性:「ローマ講演」第3部(その7)

Ecrits, p.307 最終段落~ このような極端さへ至る道の途中で、問いが立てられる:精神分析は、弁証法的な関係であり、そこでは分析家の非介入主義が主体[患者]の言説を主体の真実の実現へと導くのであろうか。あるいは、精神分析は空想的な関係にすぎず、…

In a Hole : 「ローマ講演」第3部(その6)

Ecrits, p.304 最終段落~ Two-body psychology とはよく言ったもの。分析はふたつの身体の関係となり、そのふたつの身体のあいだに、空想的なコミュニケーションがなりたつ。そのコミュニケーションにおいて分析家は患者にたいし、みずからを客体としてとら…

フロイトに帰れ:「ローマ講演」第3部(その5)

Ecrits, p.301~ のみならず語は、それじたい象徴的な外傷[lésion]を被り、患者がその主体である想像的な行為を為し遂げることができる。W(Wespe 蜜蜂)が「去勢」されて、狼男のイニシャル S.P. になったように。その瞬間、かれはグルーシャ(蜜蜂)から…

メディウムとしての声:「ローマ講演」第3部(その4)

Ecrits, p.299~ 秘密の言葉の原始的な伝統における使用においては、主体がみずからの人格あるいはみずからの神々をつぎのように同定する。それらを明かすことが、みずからを喪失したり、神々を裏切ったりすることになるのである。じぶんについての打ち明け話…

私は探さない。みつける。:「ローマ講演」第3部(その3)

Ecrits, p.296~ とはいえ語形論のカバーする領域には期待がもてない。ある著者(エルンスト・クリス)は、同じひとつの抵抗から、demande for love のかわりに need for love という解釈を「意識的熟考なしに」引き出したとよろこんでいる。論文のタイトルは…

主人と主体:「ローマ講演」第3部(その2)

Ecrits, p.293~ 他方、ヘーゲルが精神分析家のいわゆる中立性にひとつのいみを絶妙なタイミングでもたらしてくれているので、われわれはソクラテスの産婆術の柔軟性[可塑性]、さらにはプラトンの技法を借りてくるひつようはまったくない。ソクラテスとソク…