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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

狼少年たちに花束を:『フロイトの技法論』V~VIII章

V(10/02/1954) この日の講義はジャン・イッポリットの発表に時間が割かれる。『エクリ』所収論文「フロイトの《否定》にかんするジャン・イッポリットの見解への序と回答」はこれを受けたもの。 否定(Verneinung)とは、判断における否定というより、前言…

「自我と他人」:『フロイトの技法論』Ⅳ章

*セミネール第1巻『フロイトの技法論』Ⅳ(1954年2月3日の講義) ラカンはフロイトの論文「転移の力動性について」において抵抗に関し本質的なことが言われているとかんがえる。仏訳には致命的な誤訳が含まれている。そのひとつは、コンプレクスそのものの…

フロイトの人間的(人道的?)介入主義:『フロイトの技法論』(2)

*Le séminaire Livre I : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975) ■1954年1月27日の講義 主体による無意識の真の現実の再征服のためには、方法や概念的範疇の形式的なカタログは役に立たない。 自我は技法的必要性に結びついた機能的役割をもつ。 フ…

死をよぶカルテット:「神経症者の個人的神話」(3)

*「神経症者の個人的神話」(承前) このシナリオは、父親と母親と[父親の]友人という原-関係(かならずしも事実として証明できない)を反映している。 このシナリオに神話としての性格を付与するものはなにか。このシナリオが、隠されたものとしての原初…

フロイトを信頼せよ:「神経症者の個人的神話」(2)

*「神経症者の個人的神話」(承前) 神経症者においてはこのエディプス複合の構造があるしゅの変更を被っている。特殊な社会状況に由来する父という形象の退化(dégradation)ゆえに。 父の機能の衰退の結果、精神分析家は、無知(ignorance)の状態にある…

精神分析にとって神話とはなにか?:「神経症者の個人的神話」(1)

*「神経症者の個人的神話」(Le mythe individuel du névrosé, 1953) セミネール0巻の「鼠男」論。現在では Seuil 社からジャック=アラン・ミレールの編になる叢書 Paradoxes de Lacan 中の一冊として刊行されている(2007年)。以下は冒頭部分のラフな…

料理人としての精神分析家:セミネール『フロイトの技法論』(1)

Le Séminaire livre1 : Les écrits techniques de Freud (Seuil, 1975) *セミネールの開講(1953年11月18日の講義) 子弟みずからが答えをみつけること。精神分析と禅との並行性がほのめかされる。 フロイトの教えはあらゆる体系を拒否し、運動途上の思考を…

セミネール“マイナス・ワン”:「狼男」(1952~1953年)

*「狼男」についてのセミネール(L'Homme aux loups, 1952~1953年) 番号つきのセミネールに先立ち、1951~1952年および1952~1953年にラカンはフロイトの症例(ドラ、狼男、鼠男)についてのセミネールをおこなっている。これらは出版されていないが、鼠男…

精神分析という名の希望:「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」

*「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」(Prémisses à tout développement possible de la criminologie, 1950) フランス語圏精神分析家会議における報告「犯罪学における精神分析の機能にむけての理論的序説」(『エクリ』所収)の質疑応答の要約…

ラカンによるビオン讃:「イギリスの精神医学と戦争」

*「イギリスの精神医学と戦争」(La psychiatrie anglaise et la guerre, 1947) 1945年の視察旅行の報告。Autre écrits に収録されている。 フランスにおいて戦争は現実の否認と「幻惑」への逃避を引き起こしたが、イギリスにおいてはそのかぎりではなかっ…

ライブ・イン・ローマ:「ローマ講演」(発表原稿)

*「ローマ講演」(Discours de Rome, in Autres Ecrits, Seuil, 2001) 「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」(じゅうらい「ローマ講演」と呼びならわされてきたテクスト)への導入として1953年9月26日におこなわれた口頭発表、およびその翌…

Fort, Da, da, da:「ローマ講演」第3部を読む(完結)

半年にわたるシリーズ最終回。ついでに言っておけば、途中からちょいちょい参照させていただいていた新訳(新宮訳)はすばらしい仕事だとおもう。 Ecrits, p.320~ 人間の自由はある三項図式のうちにまるごと書き込まれている。その一つ。相手を従属させると…

ガンジス河からエトナ山へ:「ローマ講演」第3部を読む(その10)

Ecrits, p.317~ とはいえ生物学の黎明期においてビシャが生命にあたえた定義は、死に抵抗する諸力の集合というものであり、自己の均衡を維持するシステムの機能としてのホメオスタシスというキャノンのもっとも現代的な観念と同様、生と死とが、生に帰されて…

狼と主人と死:「ローマ講演」第3部を読む(その9)

Ecrits, p.314~ timing の切断が主体における急ぎの瞬間を中断する際の無関心は、そこへと主体の言説が急ぐ[se précipiter]結論にとって致命的となるおそれがある。ひいては誤解を植えつけるおそれがある。あるいは策略の口実になるおそれがある。 初心者…

狼の時間:「ローマ講演」第3部を読む(その8)

Ecrits, p.311~ 狼男症例において起こっているのはまさにこのこと。フロイトはそれを理解したので、期限の画定した[fini]分析と画定していない[indéfini]分析についての論文(脚注:『終わりある分析[terminé]と終わりなき[interminable]分析』は誤…

転移の現実性:「ローマ講演」第3部(その7)

Ecrits, p.307 最終段落~ このような極端さへ至る道の途中で、問いが立てられる:精神分析は、弁証法的な関係であり、そこでは分析家の非介入主義が主体[患者]の言説を主体の真実の実現へと導くのであろうか。あるいは、精神分析は空想的な関係にすぎず、…

In a Hole : 「ローマ講演」第3部(その6)

Ecrits, p.304 最終段落~ Two-body psychology とはよく言ったもの。分析はふたつの身体の関係となり、そのふたつの身体のあいだに、空想的なコミュニケーションがなりたつ。そのコミュニケーションにおいて分析家は患者にたいし、みずからを客体としてとら…

フロイトに帰れ:「ローマ講演」第3部(その5)

Ecrits, p.301~ のみならず語は、それじたい象徴的な外傷[lésion]を被り、患者がその主体である想像的な行為を為し遂げることができる。W(Wespe 蜜蜂)が「去勢」されて、狼男のイニシャル S.P. になったように。その瞬間、かれはグルーシャ(蜜蜂)から…

メディウムとしての声:「ローマ講演」第3部(その4)

Ecrits, p.299~ 秘密の言葉の原始的な伝統における使用においては、主体がみずからの人格あるいはみずからの神々をつぎのように同定する。それらを明かすことが、みずからを喪失したり、神々を裏切ったりすることになるのである。じぶんについての打ち明け話…

私は探さない。みつける。:「ローマ講演」第3部(その3)

Ecrits, p.296~ とはいえ語形論のカバーする領域には期待がもてない。ある著者(エルンスト・クリス)は、同じひとつの抵抗から、demande for love のかわりに need for love という解釈を「意識的熟考なしに」引き出したとよろこんでいる。論文のタイトルは…

主人と主体:「ローマ講演」第3部(その2)

Ecrits, p.293~ 他方、ヘーゲルが精神分析家のいわゆる中立性にひとつのいみを絶妙なタイミングでもたらしてくれているので、われわれはソクラテスの産婆術の柔軟性[可塑性]、さらにはプラトンの技法を借りてくるひつようはまったくない。ソクラテスとソク…

壁と反響:「ローマ講演」第3部(その1)

Ⅲ. 精神分析の技法における解釈の反響と主体の時間 男と愛のあいだに/女がいる/男と女のあいだに/世界がある/男[人]と世界のあいだに/壁がある(アントワーヌ・テュダル) もうひとつのエピグラフは『サテュリコン』の引用。死の欲動についてのもの?…

ゼネストからリベラル・アーツへ:「ローマ講演」第2部(了)

Ecrits, p.285~ 対になることで、精神分析の影響力をみいだすこと。民族学がすでに精神分析と並行しておこなっていることだ。民族学は、神話素の共時態にしたがって神話を解釈している。(1966年の追記) レヴィ=ストロースという人が、言語活動の構造のい…

文化における居心地のわるさ:「ローマ講演」第2部(その5)

Ecrits, p.281末尾~ 言説が妄想するこの袋小路からの出口がひとつある。主体にとって有効なコミュニケーションは、科学と普遍的文明にもとづいて可能である。客観化が主観性を忘れさせる。日常的な活動がみずからの生存と死を忘れさせるが、誤ったコミュニケ…

ことばと言語活動のパラドキシカルな関係:「ローマ講演」第二部(その4)

Ecrits, p.279~ 象徴はある完全なネットワークによって人間の生を包括し、「死へむかう存在」を主体にまっとうさせる。 言語の回路の結節点に欲望がまたたく一瞬が人の生である。 しかしこの欲望が人間において充足されるためには、ことばの同意によって、あ…

父の名の導入:「ローマ講演」第二部を読む(その4)

Ecrits, p.276~ 不在によってできた現前である語(mot)によって、不在そのものがみずからを名指しにやってくる。この独特の契機(最初の瞬間)のつねなる再創造[recréation]を、フロイトの天才は、子供の遊戯のなかにみいだした。現前と不在のこのカップ…

アライグマ、ツバメ、その他大勢:「ローマ講演」第二部を読む(その3)

Ecrits, p.273~ マッセルマンの著書においては、犬に条件反射によって期待される肉のかわりにじゃがいもをだして神経症にする「実験」が紹介されている。 同じような状況で、不実な恋人の手紙を引き裂くようにメニューをしめす紙を引き裂くアライグマもいる…

ひとの法(のり)はことばの法である:「ローマ講演」第二部(その2)

Ecrits, p.271~ 機知におけるいじょうに、個人の意図が主体の大発見(trouvaille)によってあからさまに凌駕される状況はない。機知におけるいじょうに、個人と主体のちがいがあきらかになる状況はない。というのも、その発見においてじぶんとなじみのない…

「ローマ講演」第二部(その1)

第二部 精神分析的領野の構造と限界としての象徴と言語活動 エピグラフとして、「おまえはなにものだ」という問いにたいし、イエスが「なによりもまず、わたしがあなたに語ろうとしていることではないか」と答えたヨハネ福音書の一節(8-25)が引かれ、さら…

「ローマ講演」を読む(その12)

Ecrits, p.263 三段落目~第一部の末尾(段落ごとのレジュメ) フロイトの著作の断片をつなぎあわせてつくられた発達段階という神話は、霊的な神話であり、霞のような観念によってくみたてられていて、起源という神話をよみがえらせているだけだ。すぐれた分…

「ローマ講演」を読む(その11)

Ecrits, p.260~p.263 二段落め(レジュメ) フロイトを理解するためにはフェニシェルを読むよりもフロイトを読むほうがよいという考えの学生は、それを実行に移すときに知るだろう。われわれが述べてきたことはすべて、その調子の辛辣さ、つかわれている隠…

「ローマ講演」を読む(その10)

Ecrits, p.256 第三段落〜 p.259末尾(段落ごとのレジュメ) 各瞬間の連続性はいったん解体される。過去の既往症との連続性は、現実のレベルにおいてではなく、真理のレベルにおいて検証されるべきである。充実したことばが過去の偶然に意味をあたえ、それを…

「ローマ講演」を読む(その9)

Ecrits, p.254 後半~ 「いま、ここ」と既往症、強迫神経症的な主体内性(intrasubjectivité)とヒステリー的な間主体性(intresubjectivité)、抵抗の分析と象徴的解釈の対立から、「充実したことばの実現」がはじまる。 充実したことばの実現がうみだす関…

「ローマ講演」を読む(その8)

Ecrits, p.249 ~254前半 段落ごとのレジュメです。 ……ではその「仕事」とはいかなるものか? 徹底操作(durcharbeiten)という翻訳者泣かせの(「困憊する試練」)概念が想起され、ボワローの『詩法』の一節が引用される。「なんども仕事にたちもどり、[製…

「ローマ講演」を読む(その7)

ぜんたいで三部構成となる「ローマ講演」。第一部は、「主体の精神分析的実現における空虚なことばと満ちたことば」と題されている。 精神分析は、治療においても分析家養成においても研究においてもただひとつのメディウムしかもたない。患者のことばである…

超訳!「ローマ講演」(その6)

「序論」のつづきからさいごまで。 アメリカでは、精神分析が、社会的適応、行動のパターン、「人間関係 human relations」という観念にふくまれる客観化についての学説にねじまげられてしまっている。「人間工学 human-engineering」とは言い条、そこからは…

「ローマ講演」を読む(その5)

「序論」レジュメのつづき。 ……以上の原則から、象徴的なもの、想像的なもの、現実的なものという三つの状況の分割が可能になる。これら三つのものがさまざまな「防衛」のありかた(「孤立」、「取り消し」、「否定」。より一般的には「無視」)を規定する。…

「ローマ講演」を読む(4)

序論(INTRODUCTION) まず、リヒテンベルクとロバート・ブラウニングからの引用が掲げられている。いずれも「太陽」にかんする一節である。 そして冒頭の一文。 Tel est l’effroi qui s’empare de l’homme à découvrir la figure de son pouvoir qu’il s’en…

「ローマ講演」を読む(その3)

「序」レジュメ後半(Ecrits p.293 最終段落より) 精神分析はもっぱらフロイトの概念に負っているが、フロイトの言葉遣いは誤解されており、その吟味が必要である。人類学や現代哲学に照らしての吟味は有益であろう。フロイト用語は日常的に使われているう…

「ローマ講演」を読む(その2)

(承前)「序」において、この論文が発表された経緯が略述される。恒例の年次集会においていみじくもことば(parole)という題目をふりあてられたラカンは、Mons Vaticanus(バチカンの丘)は vagire の語源であり、じぶんの講演を謙遜と自負をこめて、新生…

「ローマ講演」を読む(その1)

*「精神分析におけることばと言語活動の機能と領野」( Fonction et champ de la parole et du langage en psychanalyse, 1953.) これまでのラカンの探究の中心にあった心像についての言及はわずかで、問題意識は言語のほうに大きくシフトしている。ここま…

エディプス批判の書としてのドラ症例:「転移に関する私見」

*「転移に関する私見」(Intervention sur le transfert, 1951) 1951年のロマンス語精神分析者会議での講演。『エクリ』所収。 「ただ分析家がそこにいるということだけですでに対話の次元が生じている」。転移とはこのような状況である。転移とは「目に見…

精神分析にとって罪とはなにか?:「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」

*「犯罪学における精神分析の機能にむける理論的序説」(Introduction théorique aux fonctions de la psychanalyse en criminologie, 1950) 同年の「フランス語圏精神分析家会議」における Michel Cenac との共同発表。『エクリ』所収。最初のパートのタ…

隠喩としての建築:「鏡像段階」論において描き出された夢の一場面の解釈

*「精神分析的経験においてわれわれに明らかになったかぎりでの<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」(Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je telle qu’elle nous est révélée dans l’expérience psychanalytique, 1949) …

現代文明の居心地わるさ:「精神分析における攻撃性」

*「精神分析における攻撃性」(L'agressivité en psychanalyse, 1948) 『エクリ』所収のこの論文の狙いは、攻撃性という考え方を科学的な使用に耐える概念として確立することである。つまり、諸事実を客観化し、変数として扱うことで比較可能になるような…

「13という数と疑念の論理的形式」(その2)

*「13という数と疑念の論理的形式」(suite) ……この場合もまず、4枚ずつを皿に乗せる。 平衡すれば、悪貨は残りの5枚のなかにある。その場合、この5枚だけを使って、そのなかから1枚の悪貨を特定することはできない。 ところで、4枚のなかから1枚の…

続「論理的時間」:「13という数と疑念の論理的形式」

*「13という数と疑念の論理的形式」(Le nombre treize et la forme logique de la suspicion, 1946) 初出はLes Cahiers d’Art (1945-1946)。後、Autres Ecrits に収録。さいわいにも向井雅明氏による試訳が東京精神分析サークルのサイトにアップされてい…

コギトと狂気:「心的因果性について」

*「心的因果性について」(Propos sur la causalité psychique, 1946) 後に『エクリ』に収録されたこの論文において、ラカンはアンリ・エーがジャクソンの並行説に依拠しつつ、狂気を器質因に帰していることを批判している。「アンリ・エーは狂気の[心的…

「わたし」の政治学:「論理的時間と先取りされた確実性の断言」

*「論理的時間と先取りされた確実性の断言――新しいソフィスム」(Le temps logique et l'assertion de certitude anticipée, Un nouveau sophisme, 1945) 「わたし」というアイデンティティを獲得するに際し、囚人たちは鏡(「おのれの姿を映し出す術」)…

相対性の科学へ:「《現実原則》を越えて」

* 「《現実原則》を越えて」Au-delà du << principe de réalité>> (1936) 『エクリ』に収められたもっとも初期の論考。同じ年、同じマリエンバードで、鏡像段階論が口頭発表というかたちで公にされている。その概要をまとめた「<私>の機能を形成するもの…