lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)

*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966) いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落…

女の謎:「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」

*「女性のセクシュアリティについての会合にむけての方針の表明」(Propos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine, in Ecrits, Seuil, 1966) 1960年9月にアムステルダム市立大学のシンポジウムで発表されたが、執筆されたのはその二年前であ…

「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」

*「アーネスト・ジョーンズの思い出に:その象徴理論について」(A la mémoire d’Ernest Jones : Sur sa théorie du symbolisme) ジョーンズ追悼論文。1959年1月から3月にかけて執筆され、1961年に「精神分析」誌に掲載された。『エクリ』所収。 フロイ…

マシーンとしての構造:「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」

*「ダニエル・ラガーシュの報告『精神分析と人格の構造』についての考察」(1961年) 1958年のロワイヨーモン・コロックにおける発言に加筆のうえ、ラガーシュのテクストとともに1961年に雑誌「精神分析」第6号に掲載された(同号にはロワイヨーモンで発表…

純粋欲望批判:セミネール第7巻『精神分析の倫理』

*Le Séminaire Livre VII : L'Ethique de la psychanalyse (1959-1960), Seuil, 1986. フロイトはアリストテレスどうよう、人間的行為の原動力を快にみいだすが、快原則と現実原則のパラドクシカルな「倫理的葛藤」は、「君主(maître)の道徳」としてのア…

スピノザは正しかった:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(了)

第XXVII講(01/07/1959) 現時点での精神分析のパラダイムが対象関係論であることが確認され、対象にたいする道徳主義的な正常化(「よい」対象)という観点に釘が刺される。対象への原初的同一化の観念は「唯一の」現実を前提しているが、実は「一つの」現…

倒錯者のビー玉、あるいは<他者>の内奥の対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その21)

第XXVI講(24/06/2107) 欲動の部分的な性質ゆえ、対象への関係は部分欲動の組み合わせを以ってする。しかるに本能の観念は対象を求心的に捉える。 倒錯的幻想は倒錯ではない。倒錯を「理解」しようとしてもその構造の再構成には至らない。『ロリータ』にお…

倒錯者としての女性:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その20)

第XXV講(17/06/1959) 誤りや迷いは啓発的であるとの言葉を枕に、「国際精神分析雑誌」に掲載された倒錯論が俎上に載せられる。著者らは倒錯的幻想と倒錯とを混同している。幻想のレベルでは神経症者と倒錯者の根本的な相違はない。著者らは倒錯をアブノー…

欲望への防衛、あるいは神経症者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その19)

第XXIV講(10/06/1959) 神経症者における欲望の構造の規定に先立ち、倒錯者におけるそれが回顧される。 主体はまず他者のイマージュを、ついで幻想を欲望の支えとする。露出症者と窃視者は相補的ではなく並行的である。いずれにおいても幻想において主体は…

裂け目としての主体、あるいは倒錯者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その18)

第XXIII講(03/06/1959) <存在>と<一者>について。「存在」とは象徴界のレベルに現れるかぎりでの現実界のことである。「純粋な存在」は間隙、切断に位置し、それゆえもっともシニフィアンならざるものである。切断が象徴界において「存在」を現前化さ…

ハムレットのアナモルフォーズ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その17)

第XXII講(27/05/1959) グラフにおいて幻想は上段と下段の交点に位置づけられる。下段の線(個々の主体を越えて連綿と続く「具体的な言説」)は意識にたいして完全に透明であるが、こうした透明性はそもそも幻影である。意識とは直接与件ではなく、なにより…

対象(a)入門:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その16)

第XXI講(20/05/1959) 前講で提示されたシェマは、division (割り算)の商(quotient)と余りによって要求における主体の分裂(Spaltung)を表している。欲求(besoin)を十全に満足させると想定される全能者としての現実的主体(Sr=母)は、言語を通した…

無を“死蔵”する対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その15)

第XX講(13/05/1959) 「フロイト的事象」の特異性。フロイト的「もの」とは欲望である。これまでの分析理論において欲望は軽視されてきた。分析において、欲望は障害(trouble)として現れる。欲望は対象の知覚を乱す(troubler)。欲望は対象を貶め、その…

なぜヒトラーを殺せなかったか?:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その14)

第XIX講(29/04/1959) 『ハムレット』読解の最終回。 『ハムレット』がその全篇にわたり語っているのは喪という主題である。「経済、経済!」と現代社会。使用価値と交換価値の分離による物質世界(le monde de l’objet)の搾取を説くマルクス主義的分析は…

喪と現実界における穴:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その13)

第XVIII講(22/04/1959) ハムレットにとって出会いはいつも早すぎ、かれは出会いを遅らせる。それにたいし、行動するとき、ハムレットはいつも性急である(ポローニアス殺し)。ここには神経症の生の現象学がみられる。ハムレットはつねに<他者>の時にい…

ファルスとしてのオフィーリア:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その12)

第XIV講(11/03/1959) 『ハムレット』が「欲望の悲劇」と規定される。初演された1601年の二年後に女王エリザベスが逝去している。時代の転換点に書かれたという事実は重要。 分析プロパーではジョーンズがハムレットと女性的対象の関係を問うている。エラ・…

エディプスとハムレット:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その11)

第XIII講(04/03/1959) これ以下の七講は本セミネールのクライマックスをなす『ハムレット』読解に費やされる。 シャープの患者においてはファルスが自我理想の位置を占める。そしてファルスへの同一化は母への原初的同一化である。患者は母のファルスを否…

ファルス湮滅大作戦:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その10)

第XII講(11/02/1959) エラ・シャープ「唯一の夢の分析」の読解最終回。なお、ここでとりあげられた症例を収録したシャープの『夢分析実践ハンドブック』は勁草書房より来月に邦訳の刊行が予告されている。 クラインはファルスを諸対象中のもっとも重要なも…

チェスとしての精神分析:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その9)

ミレール篇「ル・セミネール」の版元は2013年刊行の本巻よりSeuilからMartinièreにバトンタッチされたが、誤植が間々ある。 第XI講(04/02/1959) シャープは主体のファルスを攻撃的な道具と見なす。ラカンはそれにたいして別の「解釈」を提示しようとするも…

奇術としての幻想:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その8)

第X講(28/01/1959) エラ・シャープ症例研究の続き。 「グラフ」が再度参照される。シニフィアン連鎖は解釈可能な要素によって裁断されている。それによって主体は要求(demande)が欲求(besoin)から固定(疎外)するものの彼方(残余)、つまり「存在」…

ラカン vs. エラ・シャープ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その7)

第Ⅷ講(14/01/1959) これ以降の五講はエラ・シャープの症例「唯一の夢の分析」のコメントに当てられる。シャープの症例はマリ=リーズ・ロート編『ラカンが読むエラ・シャープ』(Hermann)に仏訳(ラカン訳を踏襲したもの)が掲載されているほか、日本ラカ…

「死んでいる父」と「叩かれる子供」:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その6)

第7講(07/01/1959) 依存神経症という観念は、欲求とその抑制的な影響力を見えなくしている。症状は欲求不満(frustration)という減算・中断の帰結ではないし、主体の変形ではない。想像的な欲求不満はつねに現実的なものに関係している。欲求不満の諸帰…

欲望の人質としての対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その5)

第6講(17/12/1958) 「死んでいることを知らない父」の夢において、主体はみずからの無知を父に投影する。かれの欲望はこの無知のなかにみずからを位置づけることである。父の死によって、主体は死へと直面する。それまでは父の現前がかれを死への直面から…

コレクターとしての人間:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その4)

第五講(10/12/1958) 否定(Verneinung)の Je ne dis pas は言わないと言いつつ言っていることにおいて「シニフィアンのもっとも根源的な特徴(propriété)」を体現している。フライデーの足跡はそれじたいでは痕跡にすぎず、それが消されるとき(十字が刻…

タンタン・マニアとしてのラカン:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その3)

第4講(03/12/1958) 快と欲望の区別についてのグラノフの発表を踏まえて快の定義が確認される。一次過程においては欲望が「細分化」されている。幻覚(局所論的退行)とは<興奮→運動>という回路(反射弓)が塞がれたとき、行き場を失った興奮が幻覚的表…

主知主義的精神分析宣言:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その2)

第2講(19/11/1958) 「抑圧されたもの」「欲望」「無意識」――この三者の区別が問われ、グラフ上に位置づけられねばならない。グラフの上階と下階との関係は建築学的(architectonique)なモデルに則ってはいない。グラフはディスクールなので、すべてを一…

スピノザの徴の下に:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その1)

*セミネール第6巻『欲望とその解釈』(Le Séminaire Livre VI : Le désir et son interprétation, Seuil, 2013) 精神分析は療法(thérapeutique)というよりも処置(traitement)であり、それが対象とするのはまず夢や機知などの「周縁的で残りものの」現…

バルセロナにおける十の提言:「真の精神分析と偽の精神分析」

*「真の精神分析、そして偽の精神分析」(La psychanalyse vraie, et la fausse, in Autres écrits, Seuil, 2001 ) 1958年9月、バルセロナで行われた第四回国際精神療法会議における発表の要旨。『続エクリ』所収。向井雅明氏による試訳がある。 「真の(…

美人局と密輸品:「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」

*「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」(La direction de la cure et les principes de son pouvoir, in Ecrits, Seuil, 1966) これまでのラカンの治療論の概要を提示した論文と位置づけられる。「治療の方向づけ(direction)」という言い回し…

強迫神経症あるいはファルスの言語的破壊:『無意識の形成物』(了)

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998) 第XXII講(14/05/1958)〜第XXVIII講(02/07/1958) セミネールの残りの四分の一においては、主として強迫神経症についてのモーリス・ブーヴェの諸論文にそく…