lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

スピノザの徴の下に:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その1)

*セミネール第6巻『欲望とその解釈』(Le Séminaire Livre VI : Le désir et son interprétation, Seuil, 2013)

 

 精神分析は療法(thérapeutique)というよりも処置(traitement)であり、それが対象とするのはまず夢や機知などの「周縁的で残りものの」現象である。また広義の「症状」である。症状とはさまざまな「制止」のあらわれである。さらに traitement は構造を変容させるものである。とくに神経症という構造である。フロイトは当初これを防衛神経精神病として構造化した。精神分析はこれらの現象に欲望が作用しているかぎりで処置の対象とする。周縁的にして残りものである欲望はフロイトによってまずさまざまな症状のなかに発見された。症状を規定する重要な要素である「不安」は、症状にかかわる活動がエロス化されるというかたちで欲望のメカニズムにくみいれられる。神経症はまず防衛神経精神病と規定されたが、それは何からの防衛なのか。欲望からの防衛である。リビドーもまた「欲望の心的エネルギー」である。「エネルギー」は現実界象徴界の連結を導入するために不可避の概念である。精神分析理論がリビドー概念に立脚しているのはリビドーが「欲望のエネルギー」であるからにほかならない(こうしてセミネールの主題としての欲望に脚光があてられる。制止、症状、不安というフロイトの重要論文のタイトルを構成する各用語がここで出そろっていることにも注目しておこう)。

 

 ついでリビドーが[快ではなく]対象を指向するべくさだめられているとする対象関係論への疑義がなげかけられる(object-seeking / pleasure-seeking というフェアバーン的概念)。つづけて、詩における欲望の扱われ方が一瞥される。詩において欲望は「主体のシニフィアンへの諸関係」にかかわるとされ、「欲望との関係における詩作」という問題意識が提示される。詩において欲望がかかわるのは歌われる対象としてではないことが確認され、そのような「具象的」詩人の対極にある形而上学詩人ジョン・ダンにおいて「欲望の諸関係の構造」が探られねばならないとされる(この主題はじっさいには本セミネールのひとつのクライマックスをなす『ハムレット』の分析においてとりくまれることになるだろう)。

 

 ついで話題は哲学へ飛び、快楽主義的伝統における対象と快の一致がアリストテレス的な「主人の倫理」における快と善の一致を導いたとされ、それがカント的な実践理性と対置させられる。アリストテレスは欲望(エピテミア)という制御不能なものが自我の範疇からはみだすことをみてとり、これを獣性の範疇に組み入れた。アリストテレスにおける人間と主人の一致はこうして保証されている。獣性というかたちで倒錯という範疇を予見したことにアリストテレスのモダニティがある。そして、欲望を人間の本質として位置づけたスピノザ精神分析の先駆がみいだされる。このあとラランドの哲学事典の定義へのよりみちがあって、おもむろに欲望のグラフへとたちもどる。

 

 グラフの「構築」(≠「生成」)において主体がたどる諸段階は「発達」の諸段階ではなく、「論理[学]的」な世代交代である。第二段階までのおさらいは端折るとして、第三段階において本年度の主題である欲望がかかわってくる。欲望(グラフの第三段階における「d」)における言語の裂け目(béance)のなかに主体はみずからの「存在」を実現する。

 

 不透明な<他者>の欲望をまえにして主体は「よるべなさ」の状態に置かれている。これが外傷経験である。これは実存哲学における「不安の実存的経験」のような漠然とした性質のものではない。フロイトは不安を「信号」というコミュニケーション理論をおもわせる用語によって定義し、それを分節化され positif なものとみなした。欲望から不安が生まれるのではなく、[外傷体験における]不安から欲望が生まれるのだ。そして不安は自我における信号としてあらわれる。『制止、症状、不安』の読解が予告され、グラフの第三段階における理想我と自我理想の議論へと移行する。鏡像的な関係に亀裂を入れるのは象徴的な行為(action)である。自我が防衛の主体なのではなく主体が自我を用いて(avec)「よるべなさ」からみずからを防衛しているのだ。欲望が位置づけられるのは幻想(S barré ♢ a)においてである。「幻想の機能は主体の欲望にたいして適応(accomodation)、位置どり(situation)の水準をあたえることである」。かくして「人間の欲望は対象にではなく幻想に固着し、適応し、捕らわれて(coapté)いる」。

 

 ここでダーウィンが紹介している機知(?)で使われている overlooked という多義的な語への脱線。病気の老婆を「大目に見た」主体としての「悪魔」は名指されていないが、英語の話者には見当がつく。これはシニフィアンの置き換えというメカニズムそのものではないがそのヴァリエーションであるということらしい(この台詞が「なにくわぬ顔で」発されたこととダーウィンの「表情」論とのなんらかの繋がりをラカンは暗示したがっているようだが……)。もともとラカンがこの話を振ったのは『恋する悪魔』(グラフの Che vuoi? )があたまにあってのことらしく、とうぜんのようにグラフへの参照が促される。シェマ(グラフ)の効用は「現実界において起こっていることを示す」ことだ。[「感情」のように]おのずから伝達される何ごとかを表出するという仕方によってではなしに。そこにおいては主体が純粋なかたちであらわれる。ここでシニフィアンそのものの到来の条件であり、言語によって覆い隠されている最終的な項としての「死」が導入される。無意識という「知」を担う<他者>において主体とその「存在」のあいだに「距離」を導入するのが「存在の換喩」としての欲望である。かくして「主体とシニフィアンの関係」を指し示す欠如したシニフィアンとしてのファルスがつぎのようなアフォリズムによって召喚される。「欲望は主体における存在の換喩であり、ファルスは存在における主体の換喩である」。

 

 以上、第一講(12/11/1958)。