lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

スピノザは正しかった:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(了)

 

 第XXVII講(01/07/1959)

 

 現時点での精神分析パラダイムが対象関係論であることが確認され、対象にたいする道徳主義的な正常化(「よい」対象)という観点に釘が刺される。対象への原初的同一化の観念は「唯一の」現実を前提しているが、実は「一つの」現実でしかない。分析家自身の道徳的基準への誘導という暗示の危険がある。欲望の位置という問題が忘れられている。欲望は主体性という観念において位置づけられる。欲望は主体性であると同時に、主体性への抵抗、パラドクス、そこから棄却されたものでもある。かくしてあらゆる倫理的経験は「欲望は人間の本質そのものである」とするスピノザの謎めいた言い回しを出発点とする。それが謎めいているのは、われわれが欲望するものが好ましい(désirable)ものと一致するかどうかという問いを開いたままにしているからだ。分析的経験もそこを出発点とすべきである。欲望はたんなる生の迸りではない。欲望は調和的な関係からは身を引き離す。転移は対象への道を切り開く唯一の方途である。しかし転移を退行的な反復とみなすと、要求の不充足という側面が見落とされる。現在、分析家らは患者を対象へと誘導すべく要求にみずから応えようとしている。そこから対象への「距離の調整」といったおかしな観念が出てくる。そこではあらゆる関係なるものに距離が想定されている。これは鏡像段階論の曲解である。転移関係と真正な「現実」を対置すべきではない。それは精神分析以前の心理療法への逆行だ。治療者自身の判断基準に患者の経験を合わせることになるからだ。分析の独自性は患者を[能動的な]話す主体とみなすことだ。欲望は不明瞭で根源的な衝迫の感情ではなく、彼方に位置する。このような欲動や衝迫をフロイトシニフィアン連鎖という時間的区切り(séquence)によって定義した。この衝迫はその源泉や対象や傾向から切り離し得る。衝迫それじたいからも切り離し得る(その傾向性が逆転し得るから)。衝迫は解体し得る。それはシニフィアン的な解体である。欲望はこのような区切りではない。欲望はこのような区切りにたいして主体を位置づける。それゆえ欲望は<他者>の欲望において反省される(se refléter)。家族の新たな一員への関係を例にとろう。新参者にたいして死の願望(いわゆる攻撃性)が向けられる。それは「死んでしまえ」というシニフィアン的分節である。動物であれば攻撃的な「動作」に訴えるところである。原初的な競合関係はシニフィアンに訴えるかぎりで無意識的である。シニフィアンであるからこそこの言明は「かわいいね」「こいつがすき」といった言明の背後に隠れる。このふたつの言説の間隙に欲望が関与する。クライン的な悪い対象が制定されるのもこの間隙においてである。

 ラカンにおいて欲望はファロス中心主義的であるとする声がある。クラインは玩具をファルス的な象徴と解釈する。この解釈を正当化し得るのは、子供にとって玩具がもっぱらシニフィアンであるかぎりにおいてだ。ファルスが欲望のシニフィアンとして最良のものであることにクラインが気づいているかはともかくとして。ファルスがシニフィアンとしてしるしざすものは、<他者>の欲望への欲望である。ファルスが特権的な対象となるのはそれゆえである。欲望において重要なのはファルス中心主義的ということではなく、欲望の対象が本能的な満足をもたらす対象ではないことだ。欲望の対象は欲望への欲望のシニフィアンであることだ。

 欲望の対象はそれじたい<他者>の欲望である。もしそれが無意識的な主体の「知る」ところとなるのであれば。<他者>の欲望が無意識の主体にたいして承認したいという願いとして、承認のシニフィアンとしてもたらされるかぎりでこの言い方は矛盾しない。欲望は承認のシニフィアンいがいの対象をもたない。

 欲望の対象のパラドクスを典型的に示すのはフェティッシュである。人間の交換する対象にはフェティッシュ的側面が内在するが、これは交換の規則的な性質によって隠されている。欲望の対象はシニフィアン的素材から借り入れられる。フェティッシュはなにかを隠す縁飾りであり、<他者>の欲望のシニフィアンの機能をこのうえなく表すものである。

 子供は母親の欲望に関わる。要求の主体は要求の外にいる。母親の欲望を子供はシニフィアンをとおしてしか解読することができない。このシニフィアンを分析家はファルスという基準によって量る。欲望のレベルにおける交換では、主体はaとなり、欲望の承認のシニフィアン、欲望への欲望のシニフィアンとなる。抹消された主体において、主体はもっとも根源的ないみにおいて想像的な主体である。分離(déconnextion)の純粋な主体、話された切断の純粋な主体である。切断こそパロールの設立される本質的なスカンションであるから。この主体は存在(それじたいがシニフィアンの刻印を受けている)のシニフィアンと組みになる。aは話す主体が対峙する存在の残余であり、いっさいの要求の残余である。

 かくして対象はレエルと合流する。現実(réalité)とは人間的な象徴(symbolisme)がレエル(réel)の首に繋ぐ有象無象の縄によってできている。

 対象において、レエルは要求に抵抗するものとして現れる。欲望の対象は「肯ぜない(要求を受け入れない)もの」(l’inexorable)そのものである。欲望の対象がレエル(シュレーバー参照)に合流するのは、レエルというかたちのもとにおいて欲望の対象が「肯ぜないもの」を最大限に体現するからである。肯ぜないものとしてのレエルは「レエルはつねに同じところに回帰する」というかたちで現れる。

 それゆえにレエルの祖型は天体に見出される。星々はおそよ現実なるもののうちでもっともレエルなものである。つねに同じところに回帰するものとしてのレエルを位置づけるのは裂け目という形態である。

 「ベルギー分析雑誌」における「過渡的倒錯」の事例、およびグローヴァーの類似の報告がふたたび俎上に載せられ、「ローマ講演」におけるエルンスト・クリスの剽窃恐怖症の事例に送付される。いずれにおいても分析家は患者の訴えが「現実」の中に存在しないと説得しようとする。かれらのいう客観性とは分析家の先入主にすぎない。

 欲望にたいする分析家の位置はどうあるべきか。文化とはロゴスへの関係における主体のひとつの歴史である。文化と社会とはエントロピーの関係にある。社会に移行する文化は解体の機能を孕む。それは欲望の機能である裂け目と同じものである。倒錯は諸機能の社会的安定化の規範への同一化への異議申し立てを反映している(フロイト神経症と精神病」参照)。ここでラカンはおもむろに昇華に言及し、昇華についてのグローヴァー論文を参照する。昇華は欲望が流し込まれる型(forme)である。フロイトによれば、昇華は性的欲動を空にする。むしろ欲動そのものが性的関係の実質ではなくてこの「型」であると言うべきなのだ。根本的には欲動は純粋なシニフィアンの作用に還元される。昇華において欲望と文字が等価となる。いっさいの「正常化」への異議申し立てとしての倒錯において、昇華は社会的な価値づけとは区別される。

 昇華はロゴスの秩序における創造的な仕事がなされる論理学的な主体(sujet logique)のレベルで起こる。

 欲望は「グラフ」のd, S barré ◇a, S(A barré), S barré ◇Dが形成する閉域に位置する。分析においては<他者>の欲望を分析家の欲望に引きつけてはならない。分析家は欲望の仲介者もしくは産婆という逆説的なポジションにいる。分析家はあらゆる要求の支えとして身を差し出しつつ、そのいずれにも応えない。分析家の現前のいっさいはこの拒否にあるのか? 切断はもっとも有効な解釈である。この切断のうちにファルス的対象が現前している。

 締めくくりとして謎かけめいたフレーズが投げ出される。「女性はその肌にきまぐれ(fantaisie)という肌理(ほんのすこしのきまぐれ)をもつ」(デジレ・ヴィアルド)。これは要求をさし向ける相手への主体の関係を表している。<すべて>をもちあわせる主体という観念もまた<母>という女性によってイメージされるが、精神分析パロールの切断によって新たなものへの裂け目を開ける。女性のきまぐれが精神分析のポエジーになぞらえられてセミネールは閉幕となる。

 

 

倒錯者のビー玉、あるいは<他者>の内奥の対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その21)

 

 第XXVI講(24/06/2107)

 

 欲動の部分的な性質ゆえ、対象への関係は部分欲動の組み合わせを以ってする。しかるに本能の観念は対象を求心的に捉える。

 倒錯的幻想は倒錯ではない。倒錯を「理解」しようとしてもその構造の再構成には至らない。『ロリータ』におけるi(a)のイマージュの象徴的機能は、作品の構成そのものに表れている。第一部と第二部の強烈なコントラストにおいて。主人公の旺盛な欲望が第二部では減退する。ここには神経症的な幻想にたいする主体の関係が読みとれる。倒錯的欲望は主人公ではなくその脅迫者に現れている。主人公の欲望が他人においてしか生きられないかのようだ。この置き換えは作品に明確に読みとられる。この他人は倒錯者である。対象との関係は主人公のこのようなネガ的人物に委ねられる。倒錯的構造を実現することができるのは外挿法によってだけである。欲望の倒錯的ポジションのうちもっとも根源的なのはマゾヒスムである。マゾヒスム的享楽はその責め苦において一定の限界を超えないことを要請する。この享楽の特徴のいくつかがこの享楽の媒体について明らかにする。そこに<他者>の言説への主体の関係がみとめられる。

 マゾヒストはかれの頭を通り越したところで周囲の人たちがかれの思惑にかかわりなくかれの運命をきめるという受動的な状況をおもいえがくことで享楽する。かれを主題(sujet)とする言説は幻想において明らかになる。この言説においてマゾヒストは無に帰される。これを第一歩として、いっぽうで死の本能、他方で切断(coupure)という支え、その両者の関係が描き出される。このうちの後者は非-存在の支えであり、あらゆる象徴化の根源そのものである。象徴化にとくゆうの機能は切断である。切断は原初的なエネルギーの流れが一連の選択肢に捉えられる「基礎的マシーン」を導入する。このマシーンはスキゾフレニーの原則にしたがって、切り離されたものとして(détaché)、じゃまものをとりはらわれたものとして(dégagé)現れる。そこにおいて主体は生の流れにたいするこのマシーンの不調和そのものに同一化する。

 ここには排除(Verwerfung)の典型的な現れがみられる。切断は言説の一部であると同時に言説の外部にもあるので、主体は切断に同一化するかぎりで排除されている(verworfen)。この切断を主体は恐れ、レエルなものとして知覚する。 

 これはデカルトとは別ヴァージョンの「われおもう、ゆえにわれあり」である。とはいえ、デカルトとまったく切れてはいない。デカルトを越えている点は、主体がかかわる言説が主体を逃れ、主体がそれと知ることなく二者であることだ。主体はこの言説の切断であるかぎりで至上の「われあり」である。この「われあり」の特異性は、言説に区切りを入れる可能性のうちに主体はみずからをとらえるという点にある。主体の本質的な存在はこの特性に宿る。「というのも、主体が世界のなかに根源的に導き入れる唯一のレエルなものの闖入(intrusion)は主体を主体としてはそこから排除するから」。

 神経症は父の隠喩、つまり対象を独占的に(paisible)享楽する父というフィクションを経由する。それゆえに倒錯的なものを犠牲にする。父の隠喩はある換喩の仮面である。法の主体としての、享楽の独占的な保持者としての父の隠喩の背後に去勢の換喩が隠れている。

 息子の去勢は父の去勢の継続であり等価物にすぎない。フロイト的な父の神話の背後に控えるあらゆる原始的な神話がそれを示す。天上の王国に到達するまえに、クロノスはウラノスを去勢し、ゼウスはクロノスを去勢する。

 くだんの換喩のいみは、ただひとつのファルスしか問題でないということだ。神経症的構造においてこれは知られてはならないことだ。神経症者は<他者>の名においてしかファルスたりえない。神経症者はファルスをもたない。これが去勢複合の謂である。それゆえファルスをもっているだれかがいるのだ。神経症者の存在はそのだれかに依存している。

 神経症者の欲望はシニフィアンの善意(bonne foi)に依存している。神経症者はこの神話的な保証人に繋ぎとめられることで平常心をたもって生きていられる。神経症者の欲望は神がいない時代において生まれる。

 神経症者は発つことのない旅の荷造りに没頭している。

 倒錯者においても亀裂が問題になっている。倒錯者の主体も切断においてみずからの存在を表象する。ギレスピー論文「フェティシズム論」「性的倒錯の分析についての覚書」「倒錯の一般理論」の参照が促される。そのsplittingの観念は、亀裂あるいは切断への主体の同一化ということを視野に入れている。ふたつめの論文中のフェティシズムの症例においては、患者が犯した母親がけむくじゃらのゴリラのようないきものとなって歯で患者を二つに裂くという幻想が報告される。生き物の切っ先は患者のそなえている女性の乳首を切り取り、肛門と直腸を足蹴によって引き裂く。この幻想における解体と再構築にギレスピーは去勢不安をみる。母親の原初的な要請、および女性器と裂け目のクライン的同一視。ギレスピーはフロイトの遺稿にインスパイアされ、ここにsplit ego および split object に関係した幻想をみてとる。「女性器は典型的な split object ではないか? split ego の幻想はそれへの同一化に発していまいか」。

 自我の分裂に関してジイドが再召喚される。ジイドにおいて splitting はじぶんじしんの自己愛的イマージュi(a)への同一化と母親への同一化の対立として現れる。ジイドの幻想においては欲望と手紙(lettre)の関係が問題になる。昇華の過程を欲望の象徴において表出される生産物への転換として位置づけること。この生産物は現実をシニフィアン的諸部分へと解体することからなる。「昇華は欲望の袋小路をシニフィアンの物質性へと転換することに存する」。ジイドの同性愛は分裂した対象への主体の関係に発している。一方では自己愛的な対象。これへの関係においてはファルス的属性の現前が重要である。他方で女性への極度に理想化された愛。ここでは母親への関係が関わっている。現実的な母親のみならず、ひとつの構造を隠しもつ母。そこにおいては悪い対象が重要である。

 ジードの二つの幻想が参照される。ひとつはジョルジュ・サンドの短編小説で、木に変身したグリブーユの物語。いまひとつはセギュール夫人の「マドモワゼル・ジュスティーヌの晩餐」で主人の留守に乗じて使用人らがごちそうにありつくエピソード。後者においては切断への主体の関係は性的イニシエーションに関わる。前者の幻想においては、切り離されたものへの主体の関係がファルスへの主体の同一化をあきらかにする。ファルスは母親の内的対象の幻想化である。

 神経症者の換喩においては、主体はファルスをもたないかぎりでファルスである。このことは明らかにされてはならないのだ。それゆえ分析が進むにつれ、去勢不安が高まる。

 いっぽう倒錯においては、証明の過程の逆転がある。神経症者において証明すべきこと(つまり欲望の残存)が倒錯においては証明のベースとなる。いわば背理法の称揚である。

 倒錯者はただひとつの項において「かれはファルスである」と「かれはファルスをもつ」を結びつける。そのためには<他者>へのきわめて特殊な同一化が可能にするわずかな開口部がひつようである。つまり、「かれはファルスである」はこのばあい「かのじょはファルスである」なのだ。この「かのじょ」は原初的な同一化の対象である。かれのほうはファルスを相手のなかにもっている。フェティッシュとしてであろうと、偶像としてであろうと。

 その結びつきは自然的な支持体のなかにうちたてられる。倒錯は切断の自然的擬態(simulation)として現れる。じぶんがもっていないものを主体は対象のなかにもつ。主体がそうでないところのものに、かれの理想的対象がなる。つまり、ある自然的な関係がこの主体的亀裂の素材としてとらえられる。倒錯においても神経症においても問題になっているのはそれを象徴化することだ。主体は母の内的対象としてのファルスであり、かれはそれをみずからの欲望の対象のなかにもつ。これが男性同性愛者のケース。女性同性愛者のばあいはどうか? フロイトの「女性同性愛者」も母親の内的対象としてのファルスである。飛び降りることで患者はこの母親の属性に同一化する。じぶんのもたないファルスという崇敬の対象を同性愛の相手にあたえることでこの相手を最大限に理想化するのだ。

 神経症者は自我を相手のイマージュに置き換えることでじぶんがファルスであることを証明するひつようがない(Φ◇i(a))。同性愛者においては、原初的な象徴的同一化と鏡像的な自己愛的同一化の関係が問題になっている。同性愛者においては、母への原初的関係への象徴的な同一化と最初の諸々の排除(Verwerfungen)とのあいだにすでに分裂(schize)がある。これは鏡像i(a)への想像的な第二の同一化において分節される。これを主体は幻想的関係においてみずからを書き込む項(亀裂)を象徴化するために利用する。

 神経症者においては、<他者>の欲望が主体を恐れさせる。同性愛者においてはぎゃくに、この欲望は母親から生じたファルスのなかにみずからの象徴を見出し、これを核として倒錯の構築のいっさいが組織される。それゆえ<他者>の欲望はなによりも近づきがたいものである。 

 ジイドは母親の人格をこえてその核心(cœur)に同一化する。神経症者においては欲望は際限のない要求の彼方にある。倒錯者にとって欲望はあらゆる要求の核心にある。『一粒の麦もし死なずば』には、くり抜かれた木の節のなかのビー玉をほじくりだすために一年間かけて小指の爪を伸ばすが、いざ取り出して見るとつまらぬ物体に変貌してしまい羞恥に駆られるというエピソードが紹介されている。このビー玉はSublimierung において廃棄された対象の典型であり、内的対象にたいする倒錯的主体の関係を端的に示す。それは<他者>の内奥にある。ここで本質的なのは<他者>(母)の欲望の想像的次元である。欲望のレベルにおいては、倒錯者はファルスの想像的形態に同一化している。

 

倒錯者としての女性:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その20)

 第XXV講(17/06/1959

 

 誤りや迷いは啓発的であるとの言葉を枕に、「国際精神分析雑誌」に掲載された倒錯論が俎上に載せられる。著者らは倒錯的幻想と倒錯とを混同している。幻想のレベルでは神経症者と倒錯者の根本的な相違はない。著者らは倒錯をアブノーマルに性愛化された関係に還元している。

 フロイトは無意識には多形倒錯的な諸傾向があると書いている。多形倒錯の観念は古びたとはいえ、フロイトが無意識的幻想の構造を発見していることを見逃してはならない。フロイトによれば、それは倒錯において明るみに出される関係の様態に似ている。

 倒錯者がその幻想において演出するものは映画のシークェンスのように提示される。予告編映画のようにいくつかの映像が筋立ての文脈から切り離されて映し出される。倒錯者の幻想も同じである。分析がその映像を主体の歴史のなかに位置づけ直す。しかし脱落の仕方が欲望の位置を指し示す。つまり欲望は名付け得るものの彼方にあり、主体の彼方にある。幻想の告白にともなう(滑稽さゆえの)気まずさは欲望の位置と喜劇との関係によって説明される。倒錯者の幻想は根源的で自然的なものであろうか、もしくは神経症の症状のように複雑に加工されたものであろうか?

 倒錯における対象関係はアブラハムフェレンツィ以来、進化論的・発生論的にとらえられてきた。部分対象と全体的対象との対立も、「対象への距離」も不十分な概念である。対象への無媒介的な関係という観念が神話にすぎないいじょう、欲望にかんして距離という観念は不可欠ではあるが。グローヴァーも発生論的な観点から周囲の現実への主体の関係を重視している。原初的なパラノイア的段階から強迫神経症的段階への移行が想定されている。前者は投射と取り込みのメカニズムに則る。クラインどうよう、幻想に現実を構成する機能が帰される。クライン論文「自我の象徴形成」によれば、幼児にとってまず対象は不安の源泉であり、その結果、周囲にたいしてサディズム的な攻撃性が向けられる。ついでもっと良性の対象に移行し、これがこんどは不安を催す。ここには反恐怖症的なメカニズムがある。反恐怖症的な対象が恐怖症的な対象にとって代わり、それじたいが恐怖症的になる。それゆえ反恐怖症的な弁証法によって諸対象の世界が拡張し、現実が克服される。グローヴァーはさまざまな倒錯を自我の規則的な発達という観念に統合しうるメカニズムのうちに位置づけようとしている。主体の構造化は現実の克服という観点からとらえられている。

 ラカンの恐怖症の観念は最近のフランスの分析家らの観点と相容れない。後者は恐怖症の発生を幼児的経験の構造的諸形態によって再構築しようとする。純粋に経験的(実験的)な発生を問題にしている。ラカンが問題にするのはシニフィアンであり、それは周囲の現実をふくめていかなる現実にも送り返されない。言語の現実いがいには。主体は言説のなかに身を持し、そこで存在として顕れる。

 グローヴァーは倒錯を発生論的に位置づけるにあたり、倒錯において歪められた現実に合わせて倒錯を細分化して序列化する。妄想期に対応する倒錯があり、抑鬱期、男根期、エディプス期、性器期のそれぞれに対応するそれがあるといったように。結果、倒錯は現実吟味の一形態と定義される。現実吟味が失敗すると倒錯がその穴を埋めに来る。

 それゆえ倒錯は主体にとって現実の保持という機能を保証する。現実の繕いにして要石である。それゆえグローヴァーにとって、倒錯は精神病の脅威にたいする救済である。

 クライン的弁証法は妄想段階と抑鬱段階を区別する。後者において主体は一者としての母親という優勢な対象に関係づけられる。クラインにとって、対象はよいかわるいかをこえて意味をもっている(significatif)。よい対象とわるい対象の対立において問題になっているのは、対象そのものからシニフィアン的対立への移行である。クラインはシニフィアンの機能の原初的な諸形態を記述している。主体が内部と外部をもつのはみずからを一者とみなす瞬間からである。その瞬間から投射と取り込みが起こる。これは鏡像段階に対応する。対象の世界を現実的に主体の存在に沿って秩序づける言説は主体が鏡像段階という試練においてみずからを認める言説をはみだす。理想自我i(a)ーー分身のイマージューーは主体の一部であると同時にそうではない。クラインはそれを「内的な悪い対象」と呼ぶ。これは逆説的な観念である。禁止の機能がそれにケリをつける。主体がこの悪い対象であるのなら、主体はそれをもたない。主体がそれに同一化している(il est identifié)かぎり、主体はそれを所有することを禁じられる(il est défendu qu’il ait。ダジャレらしい)。

 主体は悪い対象のレベルでコントロールmaîtrise)を発揮する。真の主人(maître)が主体に悪い対象の限定された使用を委ねる。それが「要求できない対象」であるかぎりで。論文「自我の発達における象徴形成の重要性」の幼児は「要求できないもの」という袋小路に置かれているが、はじめて手にしたハサミで紙を切り出し、汽車を繋げて遊ぶことで、シニフィアン連鎖から切り離した小さな一片という「残余」にみずからを位置づける。 

 一般的に満足とは充足感(bien-être)であるが、欲望は要求ではない。女性のエディプス複合が想起させられる。女性が要求するのは充足ではなくじぶんが持っていないもの、ファルスである。女性における欲望の成熟の弁証法は自然過程には還元されない。じぶんが男であったばあいに現実的に持っていたはずのファルスを要求する。それゆえそれはシニフィアンであり、女性は欠如(en moins)というかたちでそれを経験する。女性においては愛する存在との完璧な性器的融合の余地があるが、それはある限界点においてだけであり、女性はつねにファルス的対象から切り離されている。女性はシニフィアンとしてのファルスそのものに関わっているので、男性にとっては去勢の脅威をもたらす。女性は<他者>の欲望の対象であるかぎりでじぶんがファルスを持たず、象徴的にファルスであることにたいして無意識的である。無意識において、女性はファルスであると同時にファルスを持つ。女性は欲望においてしかそれを知らない。女性と倒錯者との間に親近性があるのはそのかぎりにおいてだ。女性はじぶんから切り離され得るあらゆる対象をファルスとみなす。学説によればその筆頭は幼児期の生産物であるとされる。じぶんから切り離された対象は欲望の対象の機能を持つことになる。女性に倒錯者が滅多にいないのはそのためである。文化的なコンテクストにおいては女性の満足は分離の弁証法に位置づけられる。欲望のシニフィアン的対象の弁証法である。男性に比べて女性に倒錯がすくないのは、女性は倒錯的関係を子供との関係において満たしているからだという説もある。

 女性の嫉妬の方が男性のそれよりも根源的である。第XX講の「要求の図表」が参照される。現実的<他者>がシニフィアンに失墜する(A barré)と同時に主体は抹消される(S barré)。その分割(除法)の残余がaという「要求し得ないもの」である。主体(女性)はこの残余のうちにみずからのうちのもっとも本質的なものをみてとり、みずからを愛の対象とする。女性がパートナーの欲望の顕われを重視するのはそのためだ。

 愛と欲望はべつものである。ある人を愛し、別の人を欲望することは可能である。あらゆる愛の昇華の彼方で、欲望は存在への関係をもつ。たとえどんなに限界づけられ、どんなにフェティシズム的であり、どんなに愚鈍であろうとも。幻想において、盲いた者としての主体は、もはやもじどおり一個の支え、一個のしるしでしかない。<他者>との諸関係のシニフィアン的残余としてのaというしるしである。aにこそ女性は最終的な証しという価値を結びつける。<他者>が愛をさしむけているのはかのじょであるという証しの。

 男性がある女性を全身全霊で愛し、他方で別の女性の靴とかドレスの裾とか白粉とかを欲望するとき、存在へのオマージュが捧げられているのは後者においてである。

 ファルスの機能に際してふたたび「内的な悪い対象」が想起させられる。父の名は対象のうちに解離(dissociation)をもたらす。それは禁止の形態である。ファルスであることないし持つことの禁止である。

 主体がファルスであるのであれば、ファルスを所有し、使用することはできない(インセストの禁止)。いっぽう、ファルスをもつのであれば、主体はファルスであることはできない。「要求不可能な対象」は「あれかこれか」の選択を強いる。

 神経症者はこの二者選択を換喩的に利用する。この換喩は退行的である。「かれはファルスではない」が「かのじょはファルスをもたない」にとって代わられる。

 神経症者はファルスをもたないことを、隠れた形で(無意識的に)ファルスであることの確証とする。前講の末尾における pour être がこれである。

 ファルス「をもつ」のはじぶん以外の他人である。たいして神経症者は無意識においてファルス「である」。欲望する者となる際に、主体は代理人(substitut)を立てる。これが神経症の根本である。強迫症者はじぶんで享楽しない。ヒステリー者のばあいにも、享楽の対象となるのはかのじょではない。

 主体が自我へと想像的に代替される。欲望の問いに要求が介入する。この置換が欲望の弁証法だ。 

 それゆえ神経症者は代理物(substitus)しか要求しない。神経症者の要求はつねに別のものの要求である。神経症者の退行的な換喩は終わりをもたないから。それゆえ欲望のレベルにおいて、主体はじぶんじしんに置き換えられる。欲望しているものを要求しているとおもいこんでもっぱら代替物を要求している。

 主体が何かを要求する人に自我が置き換えられている。誰よりも神経症者において、この切り離された自我は欲望の対象の原初的な形態である切り離された対象の代わりをする。

 神経症者の愛他主義は、「満足のために身を捧げる」ことである。他人に身を捧げつつ、神経症者はみずからの不満足にたいして盲目である。神経症者において、抹消された主体はファルスへの存在の同一化に変化する。つぎの式が提示される。Φ barré(=抹消されたファルス) i(a)

 

 

欲望への防衛、あるいは神経症者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その19)

 第XXIV講(10/06/1959)

  神経症者における欲望の構造の規定に先立ち、倒錯者におけるそれが回顧される。
 主体はまず他者のイマージュを、ついで幻想を欲望の支えとする。露出症者と窃視者は相補的ではなく並行的である。いずれにおいても幻想において主体は裂け目として現れるが、それは現実界における穴にして煌めき(éclat)である。窃視者はブラインドの陰(穴)から覗き、露出症者はみずからのスクリーン(明るみ)を開陳する。行為において主体は対象の煌めきとなるが、それは主体によって裂け目の開けとして知覚され、この裂け目が主体を開かれたものとして位置づける。すなわち他の欲望へ開かれたものとして。主体じしんの欲望は煌めきのなかにかいまみられたもの(aperçu)によってすっかり打ちのめされている。露出症者においては羞恥を超越した<他者>の情感(émotion)があり、窃視者においては<他者>の開けであり、潜在的な期待である。この<他者>が、見られていると感じていないが、みずから見られるべく身を捧げているかのように知覚されるかぎりにおいて。この根源的な構造は神経症の原因やそれを誘発するスティグマータにおいてもみてとられる。神経症の出発点にもひとつのかいまみられた場面(scène aperçue)、すなわち原光景がある。原光景がこの構造にあずかっているのはこの構造を逆転させることによってである。この逆転によって、主体はなにものかが開かれるのを目にし、突然ひとつの裂け目をかいまみる。その外傷的な価値は<他者>の欲望に関係している。<他者>の欲望はここでは謎めいた核のままであり、その後、主体は生きられた瞬間を事後的にひとつの連鎖において再統合する。この連鎖が神経症の核を生み出す。
 幻想の構造について。方向づけの価値をもつものは宙吊りにされた時間であり、そこでは主体がみずからの位置の方向(意味)を見失うという条件のもとに設立される。幻想は主体にとって不透明である。幻想における主体の場所を分析家は示すことができるが、主体はなぜそこに位置しているのかをみずから言うことができない。
 幻想においてアファニシス(fading)という語を使えるのは、欲望の喪失としてではなく、欲望の先端において主体のアファニシスが起こるかぎりにおいてである。無意識の連鎖において、それ(Ça)が語る地点において、主体はみずからの場所にいることができず、「私」と言えない。主体は主体の位置から消失するかぎりにおいてしかみずからを指し示すことができる。主体の存在は無意識のなかに名指されるべきであるが、名指されることができない。主体の存在は幻想のレベルで裂け目として、切断の構造として指し示される。フロイトが夢の臍を口にするとき、主体の消失について述べている。欲望は他の欲望へと無限に送り返される。露出症者も窃視者も<他者>の欲望に依存している。

 ハンス少年はそのかぎりではない。ハンスは母の欲望から逃れられない。フロイトが「無意識」論文で述べている Hilflösigkeit の状態にあるが、これは不安よりも原初的な状態である。<他者>の欲望と主体の欲望は「劇的に」対峙している。 <他者>の欲望は主体を吸い込む(aspirer →熱望する)。この「ドラマ」は倒錯者にもみられる。倒錯において幻想は行為への移行においてのみ明かされる。ハンスにおける恐怖症的対象は、あらゆる目的に供されるシニフィアンである。それは主体の欲望と<他者>の欲望の中間にあり、みずからの欲望からの防衛の機能を果たす。母親は要求に応えてくれる存在ではなく、それじたい[ファルスの]欠如に開かれている。母親の存在欠如というハンスのドラマは恐怖症のシニフィアンを出現させることによってしか解消できない。これはマスターキーのようなものであり、不安の出現から主体をまもってくれる。
 幻想の対象は、<他者>の欲望に近づかないためにある。恐怖症の対象は、危険な享楽からまもってくれるかぎりで「禁止の対象」でもある。それが危険なのは欲望の深淵を開くからだ。
 ヒステリー者は禁止の対象をもって<他者>の欲望への防壁となすのではなく、「満足されない欲望」によってみずからの欲望を支え、強迫症者は「不可能な欲望」によってそうする。「美しき肉屋の女房」の事例が示すごとく、ヒステリー者は幻想において、主体と対象のあいだの第三者の位置を占め、ヒステリー者じしんが欲望への障害となる(恐怖症においては対象が障害となる)。かのじょの享楽は欲望を妨げることである。ヒステリー者の位置はパペットのそれである。別の女性というかたちのもとにみずからの分身である影を召喚し、その仲立ちによってかのじょの欲望が隠れたかたちでではあれ組み込まれる。
 いずれにしてもヒステリー者は賭(ゲーム)に身を投じるが、たいして強迫症者はみずからの欲望が賭けられている場所にいない。強迫症者は抹消された主体(S barré)を武器とし、隠れ家とする。欲望への関係を「時間化」し、翌日延ばしにすることによってである。たいしてヒステリー者において欲望への関係は瞬間的(instantanné)である。強迫症者はひたすら待機するだけではなく、みずからの欲望のばしょに<他者>への畏敬を置くことで、みずからを欲望する者たらしめる。神経症者においては欲望そのものが防衛となる。欲望を支えるために、<他者>の欲望への関係において第三者的ポジションにある何かの助けを借りる。この何かのおかげで主体は現実的<他者>への関係におけるみずからの位置を象徴化できる。ここで問題になっているのはファルスである。
 ファルスは法に結びついている。器官としてのファルスは享楽の道具であり、欲望のメカニズムに組み込まれていない。文化の諸関係が制定されると、欲望は法にしたがう要求として、他のいっさいの要求から区別される。フロイトは、種もしくは個人の保存の欲求に応える要求を別のレベルの要求から区別している。人間において性的欲望が動物よりも行為への移行にたいして引き延ばされるのは、姻戚関係と親族の法則を基礎づける交換の秩序が性的欲望に基づいているせいである。ファルスは根本的に性的欲望の対象としての主体であり、この対象は生殖能力の法にしたがう。これがファルスの根本的な意味作用である。父は欲望を法にしたがわせるかぎりで生殖能力の法のシニフィアンである。ここに欲望の弁証法がみられる。文化における欲望の相互反応を規制する諸関係によって定義される交換の法において主体はファルスとしてあらわれる。ただし、ファルスとしての主体の機能化(函数化)の途上で欲望が介入する。欲望において消滅にまで至る主体の「存在」が表出される。ただし、ある時点から主体は欲望においてみずからを把握できなくなり、存在を欠如させる。この欠如がファルスの機能(函数)と出会う。
 ハムレットは貪り尽くす女性の欲望に吸収されるか、誰でもなくなるかの選択を迫られる。To be, or not to be… における二つめの to be は最初の to be とは別のいみをもつ。欲望の原初的な構造としての「存在しないこと」が現れるのだ。第一の to be においてはハムレットがファルス「である」ことが問題になっている。しかし、<他者>の刻印を受けたファルスになることは、「ファルスをもたない」脅威へとかれをおいやる。ハムレットは選言の論理記号(〜)で表しうる「あれかこれか」という選択を迫られている。「ファルスでない」、消滅し、存在を欠如させることが選択肢の一つめ。「ファルスである」を選べば、「ファルスをもたない」ことになる。このような賭において、神経症者はみずからの欲望の接近(統合)を喪失の脅威として感じる。「1ではない(pas un)」は、欲望の基本構造における抹消された主体を示しているが、男性にとっては去勢脅威として、女性にとっては不在のファルスとして、「余計な1」あるいは「不足している1」に変換される。
 これは他人のイマージュへの自己愛的な関係において自我が感じるものである。クラインの症例リチャードにおける車両の連結(シニフィアン連鎖)や扉の開閉(サイバネティクス)。リチャードは二つの扉の間の暗闇に身を持する。リチャードの欲望が宿るのはこの中間地点(no man’s land)においてであるが、クラインはそこに自我を介入させる。 
 ここで「子供が叩かれる」に立ち戻る。ここにおいて自慰的享楽は欲望の解決(解消)ではなく、その破壊である。人間の欲望は快楽主義によって説明できない。強迫症者の幻想は享楽に関係しており、この享楽がその幻想の条件のひとつでさえある。幻想は同時に方向づけの機能をも果たす。幻想は主体の歴史の一つの特徴を指し示す。
 神経症者のもっとも根本的な構造はなにか?神経症者は症状において享楽を見出す。主体は純粋な存在(pur être)ではなく[換喩的に]「〜へ向かう存在」(être pour)である。

 

 

裂け目としての主体、あるいは倒錯者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その18)

 

 第XXIII講(03/06/1959)

 

 <存在>と<一者>について。「存在」とは象徴界のレベルに現れるかぎりでの現実界のことである。「純粋な存在」は間隙、切断に位置し、それゆえもっともシニフィアンならざるものである。切断が象徴界において「存在」を現前化させる。いかなる主体も「一者」ではない。<一>は一義的な観念ではない。1は数そのものの成立にたいして二次的に生じる。人間存在は数え、また、数えられる(se compter)。斜線を引かれた主体は pas un として現れる。欲望のレベルにおいて、主体はみずからを数え手として数え入れる。

 欲望の対象がもっとも成熟した欲望(性器的欲望)であるなら、分裂は問題にならない。実際には対象は愛の対象(そこにおいてひとは単一性としてのみずからを他者に捧げる)である一方で欲望の道具である。これは宗教における受苦的(肉体的)愛と愛徳(l’amour de charité)との区別に相当する。欲望についての唯一の理論は三位一体という宗教的ドグマにある。道徳的、社会的なレベルにおける万人の満足とは欲求の満足であろうか。マルクス主義における万人の自由とはみずからの欲望を自由にすることであろうか。欲望の満足はポスト革命的な問いである。欲望の問題は権力の最大の関心事である。問題は文化における居心地のわるさを和らげることだ。文化における居心地のわるさとは、すべからく欲望の居心地のわるさである。欲望を「実現する」とは?最後の審判がそれであろうか?それは善をなすことであろうか?

 「対象は主体がもはやみずからを名指すことができない地点をしるしざすという機能をもつ。そこにおいては羞恥(pudeur)が、症状において恥(honte)や嫌悪に換金されるものの王道の形態となる」。

 喜劇は「人間にたいして世界におけるみずからの状況のスペクトル的解体を可能にするかぎりでの舞台(scène)のメカニズム」を如実に示している。喜劇は羞恥の彼方へ赴く。たいして悲劇は主人公の名、主人公の同定で終わる。ハムレット(この名は父の名でもある)はみずからの欲望のなかで最終的に廃棄される。たいして喜劇は欲望の罠(attrape-désir)である。欲望の罠が機能するたびに喜劇が起きる。喜劇においては欲望が予期せぬところに現れる。滑稽な父親、偽善的な信心家、姦通の誘惑に引っかかる有徳者など。欲望がそれと名乗ることなく現れて、その仮面を剥がされる。欲望が侮辱され、罰されるが、喜劇の主人公は無傷のままである。喜劇において欲望は仮面を剥がされるが、反駁されることはない。欲望は幻想においてその「尻尾をつかまれる」(ピカソ)。主体はみずからが欲望するその場所にいないが、幻想のなかのどこかに隠れている。解釈がそれを明らかにする。

 治療における過渡的倒錯(perversion transitoire)の症例における「殺虫剤の噴霧器=破壊的ファルス」という喜劇的幻想。分析家はこの幻想を「現実」という観点からファリックマザーとして解釈した。とはいえ事は欠如している父親のイマージュに関わっていた。主体は欲望を固定させるために父のイマージュを召喚した。患者は切断をモンタージュすることで欠如した人物を創造した。

 Fort-da における糸巻きがウィニコット的な移行対象(objet transitoire)と規定される。これはみずからの消失においてみずからを把握する幻想である。ジョーンズが去勢複合を欲望の消失への恐れに帰すことで述べているのはそのことである。ジョーンズは了解の必要からそのように述べているが、ラカンは了解しようとしない点で現象学者ではない。欲望の消失への恐怖は、じぶんが欲望することを欲望していることを前提している。神経症者の欲望はこうしたものである。

 神経症者の欲望についてはあとまわしにされ、まず倒錯者の幻想がとりあげられる。露出症の幻想はdonner à voir (ポール・エリュアール)という「贈与」の一形態を示す。

 ここで動物の主体性についての脱線。動物(トゲウオ)の性的擬態における富の贈与においては、この贈与が「返答」を「予期」するというかたちで「時間的投射」が起こっている。動物も「約束」する。

 露出症者において見せることは<他者>の共犯的欲望と関係している。欲望の罠としての亀裂(rupture)が<他者>のうちに察知される。露出症者の快は公共の場所をひつようとする。露出症的な欲望の満足は<他者>との特権的なコミュニケーションをひつようとする。存在とレエルの顕現としての露出は象徴界の枠組みをひつようとする。それゆえに公共の場所がひつようとなる。露出症者は対象に接近することをおそれるとされているが、露出症者の欲望の満足は最高度の危険を条件とする。不意を打たれた<他者>が羞恥を乗り越えて共犯的に関与させられることがひつよう。露出症者は剥き出しにする以上に隠す。かれが見せる勃起は欲望の器械とは別ものである。この器械は見てとられたものを見てとられないもの(開閉するズボン)に関係づける。それは欲望における裂け目(fente)である。勃起は裂け目そのものを補填しない。対象によって埋めるべきものとして主体がみずからのうちに示す(se désigner)のはこの裂け目である。窃視欲動において本質的な要素である「裂け目」は通常見落とされている。窃視者にとって裂け目は不可欠であるが、見てとられるものと見てとられないものとの両項の関係は露出症者の場合とは異なる。窃視者の享楽は、見られている人が、窃視者(「不可視のスチュワード」)に身を捧げるそぶりをみせるとき最大化する。『天使の反抗』(アナトール・フランス)における、欲望と、捉えることができないがつねに想定されている潜在的な目との弁証法。見られる者が秘密をもっている身ぶりで捉えられるとき、窃視者の快は最大化する。露出症者においても窃視者においても主体は裂け目という策略(artifice)に還元される。この策略が主体の場所を占める。幻想において主体は裂け目である。女性器の裂け目は象徴的にもっとも耐えがたいものである。主体という裂け目と女性器という裂け目の関係は如何?

 「私はじぶんがみるのをみていた」(「若きパルク」)。このような完全な自閉、完全な自足はいかなる欲望においても実現しない。露出症者も窃視者も「私はじぶんを見ていた」の位置を占める。いっぽう<他者>はかれの「私はじぶんを見ていた」を見ていない。倒錯者の享楽は意識されない。倒錯者はいわば第三者によって斬首されている。窃視者のまえで<他者>は見られる態勢にあることを知らない。露出症者のまえで、<他者>はじぶんが目にしているものによって動揺している事実がなにをいみしているのかを知らない。この対象が<他者>に効果をおよぼすのは<他者>が実際に露出症者の欲望の対象であり、みずからはそれを知らないかぎりにおいてである。二重の無知を区別すべし。<他者>はじぶんを晒す、もしくはじぶんを見る者の心の中で知られている(réaliser)と想定されることを知らず(réaliser)、じぶんが欲望の顕示であることを知らない。逆に、露出症者あるいは窃視者は、みずからの欲望における切断の機能を知らない。かれは切断が目につかない(clandestin)自動運動においてかれを廃棄することを知らない。行為においてそのものとして言われていることは、現前しているが宙吊りにされていて、知られることがない状態において絶頂にある。切断が示すのはそのことである。いっぽうで主体のほうは、かれを殴打にさらす恥ずべき動物のこの斜に構えた作業しか知らない(?)。ブラインド、望遠鏡、スクリーンといったいかなるかたちのもとにあらわれようと、裂け目は倒錯的主体を<他者>の欲望に参入させる。この裂け目は解明すべき、より深いある神秘の象徴的裂け目である。倒錯者を無意識のどこに位置づけるべきか。倒錯者が狙いをつけるのは、みずからの欲望の構造を再生産する<他者>の欲望である。<他者>の欲望をめがけ、そこにひとつの対象を見ると信じるのだ。

 

ハムレットのアナモルフォーズ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その17)

 

 第XXII講(27/05/1959)

 

 グラフにおいて幻想は上段と下段の交点に位置づけられる。下段の線(個々の主体を越えて連綿と続く「具体的な言説」)は意識にたいして完全に透明であるが、こうした透明性はそもそも幻影である。意識とは直接与件ではなく、なによりも同類のイマージュとして与えられる。一方、上段は意識に達しない連鎖である。

 シニフィアン連鎖にかんして論理的時間における「選択」が「欲動の[周期的]構造」にしたがうものであることが確認される。無意識は際限なき反復として提示される。

 幻想において対象aは切断の関係の想像的支えとして主体を支える。

 「具体的言説」は現実(réalité)の領野を包括する。話す人間が「具体的言説」にビルトインされていることがマルクス的疎外に送付される。

 現実界は不透明な連続性ではなく、切断からなる。言語による切断とどうように。プラトンは哲学者を腕のよい料理人になぞらえた。関節の切れ目に沿って包丁を入れる術を心得た料理人である。問題になっているのは現実界の切断と言語による切断の関係である。ある切断のシステムをもうひとつの切断のシステムに重ね合わせることだ。科学はここから一歩を踏み出す。科学の冒険(量子力学)は物質概念を解体することで純然たる「認識」という観念を問いに付す。いっこの「大いなる全体」としての現実界じたいに切断はなく、[認識が]そこに切れ目を入れることで新たなものが創り出されるのだ。主体のレエルな「存在」は切れ目であり、象徴化されない。幻想がそれを「指し示す」(désigner)機能を果たす。そのかぎりで欲望は存在の換喩である。「人間」なるものがすでに象徴化され、その歴史をとおして同一のものと再認されるものであるかぎりで、幻想において指し示される(s’indiquer)主体は「人間」と同一視されず、「ヒューマニズム」とは関係がない。「存在」の「尊厳」は、あらゆるバックグラウンド(とりわけ去勢的なそれ)から「切り離されている」ことにあるのでもなければ、罪責性を負っている(coupable)ことにあるのでもなく、「切断」そのものに由来する。

 切断は象徴界そのものの究極的な構造的性質である。死の本能はそこに帰される。

 クルト・アイスラーの論文「芸術作品における細部の機能」がコメントされる。フェルディナント・ライムントの作品における、「スープ皿の中の髪の毛」のようなしっくりこない(relevant)細部がある。劇中で不意に五年の年月が流れるが、これはライムントが執筆の五年前に親にたいするごとき性的同一化を果たしていた人物を亡くしていたことの反映であるということらしい。アイスラーは、このような細部が症状とおなじ機能を果たしているとする。症状が患者にとって「しっくりこない」要素として現れ、分析家は解釈によってそれを解消させるのにたいし、目下のケースでは、不調和な細部が問題の所在を明かす。芸術作品においてはタッチのミス(不連続)だけが分析家にとって意味ふかいものとなる。芸術作品は切断を導入し、そこに無意識の主体のレエルが現れる。この切断への主体の関係を主体は知ることができないが、幻想というかたちのもとに経験する。幻想の経験は作品に織り上げられている。『ハムレット』にもさまざまな「しっくりこない細部」がある。『ハムレット』におけるしっくりこない細部群の「織物」もしくは「建築」は、切断そのものにたいする語る主体の関係を表している。それゆえ『ハムレット』の悲劇は真理にたいする主体の関係を示している。それ以前のハムレット神話とは異なり、シェイクスピアにあって父の殺害を知っているのは亡霊である父と息子だけである。亡霊が告げるのは妻の絶対的裏切りという事実である。亡霊の言葉は真理がないこと、非-真理を保証している。一般に死者は嘘をつかないとされている。ラカンはここにある「不連続」を読みとる。父による暴露はハムレットの耳に「毒」のように注ぎ込まれる。ハムレットは芸術作品(芝居)によってこのダメージから回復する。クローディアスは毒殺場面を見ても平然としている。ということは幽霊は嘘をついたのであろうか?

 

 

対象(a)入門:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その16)

 

 第XXI講(20/05/1959)

 

 前講で提示されたシェマは、division (割り算)の商(quotient)と余りによって要求における主体の分裂(Spaltung)を表している。欲求(besoin)を十全に満足させると想定される全能者としての現実的主体(Sr=母)は、言語を通した要求(demande)の主体となることによって分裂し、斜線を引かれる(商)。この無を示す「余り」を自前で支払うのは主体じしんである。

 対象aは欲望の対象であるかもしれないが、欲望に適合しないという条件のもとにそうなのである。対象は幻想という「複合」において作用する。『続・精神分析入門』の Wo Es war, soll Ich werden.が召喚され、そこにおけるIchが das Ich (自我)ではなく、シフターとしての「私」であることが確認される。分析という「干拓事業」の終了において、この「私」が到来する。対象は欲望を方向づける指標(index)である。無意識がはじまるところに主体は消失する。これは意識の「剥奪」をいみしない。じぶんが誰でどこにいるのかを知らない意識とは別の領域に参入するのだ。この停泊地点はどうじに指標(index)でもある。目の前の対象が魅惑する。対象の機能は主体をその消失(syncope)の前に、実存のまったき抹消の前に引き止める(retenir)ことである。これが幻想の構造をなす。

 みずからが誰であるかという神経症的な問いに際し、主体はロゴスの威力(virulence)に攫われて「疎外」を被る。人間とは世界におけるロゴスの活動をみずからのレエルによって支えるべく存在する。現代における認識[論]の危機の指摘とともにレエルが定義される。アリストテレスにおいて、知るとは知られる存在への同一化をいみしている。「フロイト的心理学」において、主体のレエルの相関項は認識ではなく欲望である。主体のレエルは認識の主体として位置づけられない。主体におけるなにものかが認識の彼方に分節されるのだ。言説としての主体を支えるこのなにものかをラカンは「存在」と呼ぶ。レエルとは、サンボリックにおいて記載されるかぎりでの存在と定義される。存在は切れ目の間隙にしか存在しない。対象aは主体がその問いかけの果てに出会われる切れ目として、間隙のようなものである。主体は斜線を引かれた主体としてみずからを問うとき、幻想における対象aというひと連なりの諸項によって支えられる。

 

 対象aが三つのカテゴリーに分類される(その機能は同一である)。

 (1)前性器的対象(2)ファルス(3)妄想

 

 (3)にかんして、「かれらはじぶんじしんのようにじぶんの妄想を愛する」というフロイトの一節が想起させられる。妄想とは無意識的連鎖のレベルでのシニフィアンの不在、穴を支えるために主体がみずからの実質(substance)から引き出す諸シニフィアンのことである。

 

 (1)は離乳(切れ目)の対象である。みずからより排出し、みずからより切断する対象である。口唇的レベルでは乳首であり、肛門的レベルでは糞便に相当する。これらは「切れ目の構造」をもつ。

 呼吸は切断の要素をもたない。呼吸はリズムであり、拍動であり、生の交替である。それゆえ想像的な平面で間隙・切断を象徴化する機能はもたない。とはいえ発声は切断であり、スカンションである。妄想における声は対象である。ここで「屁」にたいする一瞥。

 

 (2)去勢複合において対象はもぎとり(mutilation)というかたちをとる。主体はみずからの一部を切り離すことで切断に関わる。民族学上の通過犠牲におけるもぎとりやしるしづけ(stigmatisation)が想起される。そうしたしるし(marque)は異次元に移行したことのシニフィアンである。去勢複合においてはしるしをつけられ、シニフィアンとなるのはファルスである。とはいえ、割礼におけるしるしづけを去勢複合におけるファルスの否定化(négativation)としての摘出(extripation)と混同するべきではない。主体における性質(nature)の変化(主体の自然的欲望の意味の変化)という点で通過儀礼は対象と関わる。もぎとりはサンボリックの彼方(=「存在」)で実現されるものの指標(index)となるかぎりで欲望の方向付けに寄与する。「もぎとりは主体における存在の実現の指標である」。

 ここでファルス的突起をめぐりメーヌ・ドゥ・ビランの「努力」概念と神経症者の「疲労」症状が引き合いに出される。それらは切断のしるしをもたず、シニフィアン化する(signifiantiser)努力の痕跡である……(?)。

 

 (3)妄想における声。声の機能は言説に主体の威厳(poids)、レエルな重みを介入させる。たとえば太い声は<他者>そのもののレエルな具現となることで超自我の形成に寄与する。妄想者の声は電話におけるような切り離された声である(コクトーは『人間の声』でそれを示そうとした)。とはいえ、電話における声に典型的な事務的にして歓迎的ならざる「反主人(contremaître)」の虚ろな声ではなく、妄想において純粋に分節化された声である。伝達される内容は聞き逃され、声の一貫性と実在そのものが確実なものとして立ち現れる。それは声の純粋な現れであり、妄想者に有無を言わせず差し向けられる(s’imposer)。シュレーバーにおける「切断」の性格をもつ声(中断されたフレーズ)が想起させられる。主体は声に関心を呼び起こされ(intéresser)、それが強いる意味作用のうちに呑み込まれて消失する。声の「切断」が対象として主体を魅了し、そこに固定され、みずからの無意識の存在を支える。

 

 現在のわれわれが読むといつも以上に明晰な語り口であるとおもわれるが、列席者がよほど首をひねっていたと見え、ラカンは「いままででもっとも難解な講義のひとつになってしまった」と弁解に努めている(未曾有の概念が定義される瞬間というのは得てしてこうしたものであろう)。初出席者らに配慮し、問題になっている対象が現実世界ではなく幻想の領域で(「存在」のレベルで)作用することが最後に確認される。