lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

無を“死蔵”する対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その15)

 

 第XX講(13/05/1959)

 

 「フロイト的事象」の特異性。フロイト的「もの」とは欲望である。これまでの分析理論において欲望は軽視されてきた。分析において、欲望は障害(trouble)として現れる。欲望は対象の知覚を乱す(troubler)。欲望は対象を貶め、その秩序を乱し、貧困化し、揺るがし、その主体を溶解させる。欲望は盲目的であり、当初、現実の構築とは逆行する。欲望の誤りや逸脱は「善」の追求におけるアクシデントとみなされてきた。フロイトにいたって人間の理論の原則は快楽主義的原則に矛盾することが明らかになる。欲望と世界の領野は予定調和的ではない。

 欲望の解釈とは際限のない送付であり(=欲望の“対象”は永久に特定不可能)、そのかぎりで共時態のメカニズムに則る。主体とシニフィアンとは共時的な関係にある。分析の実践は、[現実的な]世界の経験に主体を存在論的に適応させることにはない。

 グローヴァーの「クライン期」の論文「倒錯の形成が現実の意味の発達にたいしてもつ関係」が参照される。そこでは現実が客観性の観念に送り返され、対象は本能の充足に帰される。グローヴァーによれば、倒錯的関係とは一貫した現実の破れ目を繕うものである。倒錯的機能の偏在性という見解は独創的として評価される。<精神病→薬物依存症→神経症……>という編年的な序列を想定した欲望の「成熟」図式には疑義が呈される。客観性によって定義されるハートマン的な既存の「現実」が「アメリカの弁護士」なる比喩で形容される。

 哲学において欲望(知ることへの欲望)は認識の犠牲にされてきた。対象は「無私」を旨とする客観性によって規定される認識の対象に帰されてきた。

 「根本的幻想」(S barré ◇ a )は、欲望の支えにとって最小限の構造であり、そこにおいて aによる主体の引き受け(assomption)が起こる。対象aは主体が―「確実性」のうちに―消失する(défaillir)かぎりにおける支えとなる。<他者>には主体が同一化できるシニフィアンが欠けているので、みずからを指し示すために対象aを使用する(employer)。対象a は「現実的主体」の自腹で(à ses dépens)、[つまり血と肉によって]支払われる。対象aにおいては、想像的な関係において把捉されたレエルななにものかがシニフィアンの機能に送付される。

 フロイトによれば、欲望が明確に現れると去勢がある。主体のシニフィアンへの共示的な関係において、主体はそのものとして指し示されず、名指されない。主体はこの欠如をみずからのにんげん(personne)によって支払って埋めなければならない。aは象徴ではなく主体のレエルな一要素であり、欲望の審級において主体がみずからを指し示すために消失する(共示的な)瞬間の支えとなるべく介入する。aは去勢の効果であり、去勢の対象ではない。去勢の対象はファルスである。分析においては人工的なファロス顕現が起きる。

 ここで1920年代のフェリックス・ベーム以来の同性愛者の分析の歴史が振り返られる。同性愛者を本能の固着や逸脱に帰すことはできない。ベームもエラ・シャープも膣の外部化としてのファルス的突起の幻想を観察している。この幻想はファルスの機能を根源的に示す。つまり主体の想像的な内部にあるものを外部に示すことがそれである。それは身体の内部からほとんど切り離された、ただしいまだ切り離されていないものの象徴であり、自己イメージの統一性を脅かすものである。

 主体が欲望であるかぎり主体は去勢的関係に瀕している。対象への関係は去勢に瀕している主体のポジションの身代金である。

 以下のシェマが提示される。

 

A(<他者>)                   D(要求) 

Sr                    D barré

A barré              S

a                      S barré

 

 これは共示的関係を示しており、左右の項は◇、つまりdivision(分割=除法)という関係によって繋がっている。この弁証法(A÷D)の「余り」がaであり、それは欠如を象徴する。

  一行目の Srとは要求が差し向けられる現実的な主体(Sujet réel)即ち母親としての<他者>である。分析の過程でこれがやがて二行目の「斜線を引かれた<他者>」つまり言説の主体にとって代わられ、最終的に三行目の aを手にするという過程が図式化されている。

 ヴェーユが述べた『守銭奴』の宝石箱(金庫)がふたたび引き合いに出される。宝石箱は「無」の容れ物である。守銭奴は宝石箱のなかに「死蔵された」(mortifié)対象を慈しむのだ。つまり、「無」を慈しむことができないので、守銭奴はそれを隠していると想定される宝石箱を慈しむということであろう。これはレアティーズのfoilたろうとしたハムレットから翌々年のセミネール『転移』における「アガルマ」へと繋がるモチーフである。「箱のなかにあるものは生の循環の外にあり、そこから差し引かれ、無の影として保存され、そのかぎりで守銭奴の対象となる」。対象aという「無」の彼方に主体は最初に失われた生の影を探し求める。ファルスの喪とは、[宝石箱のなかに]隠された対象としてのファルスを慈しむことである。

 

なぜヒトラーを殺せなかったか?:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その14)

 

 第XIX講(29/04/1959)

 

 『ハムレット』読解の最終回。

 

 『ハムレット』がその全篇にわたり語っているのは喪という主題である。「経済、経済!」と現代社会。使用価値と交換価値の分離による物質世界(le monde de l’objet)の搾取を説くマルクス主義的分析は、「儀式的価値」を無視している。喪とは「巨大な象徴的裂開(béance symbolique majeure)」「象徴的欠如」(「夢の臍」はその心理学的対応物)に呼応する。『ハムレット』においてはあらゆる喪の儀式が省略され、非合法化されている(父のそれのみならず、ポローニアス、オフィーリアのそれ)。

 欲望と対象との「出会い」(rendez-vous)はたんなる appointment ではない。ハムレットにおいてもエディプスにおいても喪の根底は犯罪。後続する幾多の喪はあるいみで原初的な喪の帰結でありその継続である。分析家にとって『ハムレット』は起源についての省察であり、エディプスの犯罪は主体と<他者>(=法が記載される場)との関係の本質に関わる。フロイトは『トーテムとタブー』でそれを神話として表象した。

 エディプスとハムレットの非対称性。エディプスにおいて、犯罪は主人公の世代において起こる。たいしてハムレットにおいては先行世代において起きている。エディプスにおいて主人公は罪を知らず、運命に導かれる。たいしてハムレットにおいて罪は意志的に行われる。ハムレットにおいて罪は犠牲者を不意打ちする。エディプスはわれわれが夢において反復するように劇を生きるが、ハムレットにおいて父はみずからの思惑とは相容れない仕方で不意打ちされる(「罪の花咲くなかで」)。そこには謎がある。主体にとっておよそ異質な犯罪の侵入は、主体が知っているという事実によって補われている。ハムレットは父から知らされる。『ハムレット』は『エディプス王』とはぎゃくに、「何が起こっているのか?」「罪はどこか?」「犯人はどこか?」から出発しない。主体の耳に入れられた罪の告発(暴露)から出発する。この暴露は、無意識のメッセージS(A barré)のシニフィアンという形式の下になされる。エディプスの正常な形式においては、このシニフィアンは父の人物像において受肉される。法の作者(真理の真理)であるかぎりでの父による<他者>の場の認定(sanction)が期待されている。しかし、父は罪を被る者であり、誰にもましてそれを保障できない。かれじしんも現実的な父であるかぎりで斜線を引かれており、それゆえ去勢された父であるから。

 『ハムレット』のオープニングでは事情が異なる。父のメッセージにおいて、<他者>は斜線を引かれたものとしてすがたをあらわす。父は贖えない負債を背負っている。エディプスはみずから罪を贖うことによって悲劇の主人公となる。フロイトは現代人が歪められたかたちでしかエディプス的状況を生きられないという「世紀末的」な見解を提示している。「この世の関節がはずれてしまった。ああ、いやなことだ(The time is out of joint. O cursed spite.)」。spite は悔しさ(dépit)と訳されるべきである。エリザベス朝において悔しさは客観と主観のはざまにある。ハムレットにおけるエディプスの頽落的(décadent)形態(不完全な Untergang)。これはフロイトが論文「エディプス複合の没落(Untergang)」において個人の生にみたものと区別しにくい。

 フロイトによれば、エディプスの謎はかれが父を殺し、母と交わったことそのものではなく、それらが無意識になされたことだ。「エディプス複合の没落」によれば、エディプス的な三角関係において、子は父に同一化しても母に同一化しても去勢を被る(女性はもともと去勢されているから)。ファルスという「もの」にたいする子の選択肢は閉じられており、子は要求の主体から欲望の主体へとシフトすることを強いられる。ファルスが「もの」であるのは、それが現実的ななにかであり、いまだ象徴化されず、潜在的に象徴化されているなにか(シニフィアン)であるかぎりにおいて。かくしてファルスはエディプスの「没落」の鍵である。主体は「ファルスの喪」に付さねばなければならない。エディプスの「没落」は喪をめぐって起こる。

 セミネール『対象関係』における去勢、欲求不満、剥奪の図式が召喚される。

 ヘーゲルにおける否定性および実存主義における無が去勢(ーφ)に帰される。フロイトによればこれはロゴスへの関係が人間に穿つ刻印である。

 「欲望の対象aはみずからがそれでないものにたいする主体の関係を支える対象である」。

 父の理想化はハムレットから「声を奪い」、単にどこにでもいる「男」としか形容できなくする。たいしてクローディアスへの侮蔑はどうみても「否定」(dénégation)である。ハムレットの悲劇においては、エディプスのそれとは異なり、父の殺害後もファルスが依然として現前している。クローディアスがそれを具現している(「現実的ファルス」)。ファルスがエディプス的なポジションからの転位を被っている(ectopique)。現実的ファルスはクローディアスが奪い取った父の機能そのものではない。目の前にあるものは討つべきものの「影」にすぎない。ハムレットが行為に至れないのはそのためである。ヒトラーもまたこのような「潜在性のシニフィアンそのものの[現実界における]謎めいた顕現」であり、その暗殺が不可能であったのも同じ理由からであるとラカンは『群集心理学と自我の分析』を引き合いに出しつつほのめかす。

 「屍体は王とともにあるが、王は屍体とともにはない」。「屍体」の原語が body であり、corpse でないことにラカンは注意を促し、さらに「王」を「ファルス」と置き換えてみよと述べて自説の根拠とする。それにつづく台詞には「王という代物(thing)は……取るに足らぬ物(of nothing)」とある。ファルスの顕現(phallophanie)が起こるのはその喪の瞬間においてだけである。

 

 

 

 

喪と現実界における穴:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その13)

 

 第XVIII講(22/04/1959)

 

 ハムレットにとって出会いはいつも早すぎ、かれは出会いを遅らせる。それにたいし、行動するとき、ハムレットはいつも性急である(ポローニアス殺し)。ここには神経症の生の現象学がみられる。ハムレットはつねに<他者>の時にいる。この時は幻影にすぎない。<他者>の<他者>は存在しない(シニフィアンシニフィアンによる真理の保障をもたない)から。ハムレットにとってのみずからの時はみずからの喪失の時である。悲劇はこの「時」へのハムレットの不可避的な道程に宿っている。

 対象aは欲望「における dans」対象(≠ objet du désir)。「幻想の一般構造」が、「主体がみずからの疎外のシニフィアンそのものの価値をもつにいたったなにか(=ファルス)を剥奪されているかぎりで、主体がみずからをシニフィアンに繋ぎ止めるものの価値をもつにいたったことによって主体の生そのものに強く結びついているなにものかを剥奪されているかぎりで、特定の対象が欲望の対象(objet de désir)になる」と定義される。欲望の対象はいかなる欲求の対象でもない。欲望における対象の時間的存続は、主体に隠されたままのもの、すなわち主体がシニフィアンとの関係に入るために犠牲にした肉体の断片の地位(place)を占めにやってくる。なにものかがそれ(ça)の地位を占めにやってくるがゆえに、そのなにものかが欲望における対象となる。ここでは隠されたもの(caché)、隠匿されたもの(occulté)への謎めいた関係が問題になっている。「生とはゼロが非合理(irrationnel)な数(無理数)である計算として定義されうる」。対象と隠れた要素(主体の生きた支えであり、シニフィアンとして主体化されることはない)との関係が虚数(√-1)になぞらえられる。虚数はいかなる現実へも送付されない。対象についても同じ。対象は、隠されたものとしての斜線を引かれた主体にたいするあり得る諸関係を経巡ることをその本質的な機能とする。『ハムレット』はこの機能を雄弁に示している。

 幕切れの行為における「出会い(rendez-vous)の時」。この行為をハムレットは為すと同時に被る。貴重な「収集品」一式を道具立てとする「決闘」という「虚構的」な枠組みをもつこの行為は幻想的構造にしたがう。そこではレアチーズとハムレットが鏡像的関係に置かれる(ハムレットによるレアティーズの「パロディー」)。ハムレットの欲望は決闘という「罠」(piège)「幻影」(mirage)「見せかけ」(parade)のレベルにおいてではなく、その彼方において成就される。その彼方にはファルスがある。分身レアティーズ(l’autre)との邂逅をつうじてハムレットは運命的なシニフィアン(ファルス)に同一化する。「I will be your foil(フォイル=引き立て役=宝石箱)」なるハムレットの台詞に着目すべし。かれはレアティーズの「夜空の星のような光輝」を際立たせることで致命的なファルスに同一化する。地口(ダブル・ミーニング、曖昧さ)はハムレットのキャラクターと不可分である。「シニフィアンの遊戯(作用)はハムレットのテクスチャーそのものに属している」。ハムレット=道化説。道化はその本分であるシニフィアンの置き換えによって人のもっとも隠された動機を暴く。ハムレット=狂人=道化=言葉の作り手。本作の劇的緊張は「曖昧さ」によって支えられている。

 ハムレットが狂人を演じるのも「機知」jeu d’esprit なのだ。それはシニフィアンのレベルで、意味の次元においてなされる(そこに作品の esprit がある)。ハムレットの周囲のみならず観客も惑わされる。そこが作品の妙でもある。ハムレットにとってレアチーズはじぶんじしんよりもすばらしい分身であり、これは欲望の対象との対峙の帰結である(そのきっかけではなく)。この対象にファルスの現前が内在的である。ファルスは主体自身の消滅とともにはじめてその絶対的な(formel)機能を果たす。

 墓地の場面でレアチーズはオフィーリアへの喪をひけらかす。ハムレットはこの「見せかけ」(parade)の喪に嫉妬する。ここにレアチーズとハムレットの分身的関係のさいしょのあらわれが確認される。欲望における対象の構築(すなわち幻想)と喪との関係はいかなるものか?

 ハムレットがオフィーリアにたいして残酷で軽蔑的(dévalorisant)な態度を見せることで、オフィーリアはハムレットの欲望の排斥(rejet)の象徴そのものとなっていた。その対象がここでとつぜんふたたび価値を帯びる(「おれはオフィーリアを愛していた」)。オフィーリアが不可能な対象となったとき、かのじょはふたたび欲望の対象となるのだ。不可能性は、強迫症者の欲望にかぎったことではなく、欲望の対象一般を規定している。これは欲望の構造そのものに根ざしている。

不可能であることは人間的欲望の一面でしかない。強迫症者を特徴づけるのは、この不可能性との出会いの強調だ。欲望の対象が不可能というシニフィアンを帯びるよう計らうのだ。

 フロイト以来、喪は対象との関係(対象への同一化、その体内化)において規定されている。喪における同一化が想像界象徴界現実界のいずれのレベルにおいてなされるかはこれまで定義されてこなかった。

 喪は人間にとって「現実界における穴」をひきおこす。これは象徴界において除去されたものが現実界に回帰する「排除」(Verwerfung)の文字どおり逆である。人間に耐えがたいのはみずからの死ではなく(だれもそれを経験できない)、重要な存在である他人の死だ。このような喪失があるしゅの「排除」(Verwerfung)、「穴」を構成するが、それは現実界においてである。「排除」のばあいどうよう、この穴は欠如したシニフィアンが投影される場(place)を提供する。それは<他者>の構造にとって本質的なシニフィアンである。その不在によって<他者>があなたに返答を与えられなくなるようなシニフィアンだ。このシニフィアンをひとはみずからの肉と血で支払わなければならない。本質的にそれは隠されたファルスである。このシニフィアンがここで場を見出す。と同時に見出すことができない。なぜなら<他者>のレベルでは表象され得ないシニフィアンだから。それゆえ、精神病におけるとどうよう、その代わりに(その場所に à la place)有象無象のイメージの群れが繁殖する(pulluler)。喪が精神病に近いのはそれゆえである。消失したものに儀式が施されないと特異な「現象=亡霊」(apparations) が現れる。葬儀は象徴的な作用(象徴的なものの戯れ)を総動員する(地獄から天国まで)。葬儀はマクロコスモス的な性質をもつ。シニフィアンを総動員する以外には、シニフィアンによって現実界の穴を塞ぐことのできるものは存在しない。喪の作業はロゴス(≠集団、共同体)のレベルでなされる。喪の作業はそもそも、実存に開けられた穴を塞ぐにはいかなるシニフィアン的要素でも不十分であるという無秩序への対処である。どんな喪にたいしてもシニフィアンのシステム全体が動員される。

 民間伝承が示すように、死者に負うところの満足が妨げられると、シニフィアン的儀式の不在によって空いた場所に亡霊が現れる。

 『ハムレット』は地下世界の悲劇である。亡霊は贖うことのできない侮辱によって現れる。オフィーリアはこの原初的な侮辱に捧げられた一犠牲にすぎない。ポローニアス殺害場面におけるハムレットジョーク(Hide fox, and all after.)はまっとうされない喪へのひやかしである。幻想と対象関係の逆説的な関係を喪が解明する。『ハムレット』への長い脱線が、卵を割らずにハムレット(omelette)は作れない(「ハムレット的レシピ」)と弁明される。

 

 

ファルスとしてのオフィーリア:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その12)

 

 第XIV講(11/03/1959)

 

 『ハムレット』が「欲望の悲劇」と規定される。初演された1601年の二年後に女王エリザベスが逝去している。時代の転換点に書かれたという事実は重要。

 分析プロパーではジョーンズがハムレットと女性的対象の関係を問うている。エラ・シャープはシェイクスピアの作品を攻撃性が外部に向かう躁的な作品と内向する鬱的な作品とに分けている。

 ハムレットが行為に至れない理由は、(1)ハムレットの心理に帰されるか(ゲーテ、コールリッジ)(2)外的条件に帰されるか、(3)行為そのものの困難に帰されてきた(ジョーンズ)。ラカンの解答は第XIX講で明らかにされるだろう。

 ハムレットの解釈は心理学的なそれから神話学的なそれへと移行してきた。

 以下のラカンによる解釈のポイントのいくつかが列挙される。父の幽霊が殺害者よりも「母の欲望」を告発すること。ハムレットの疑似狂気。上演場面(play scene)と「真理の偽装された次元」、「虚構の構造」。自殺の不可能性。上演場面のあとでの母との「演劇史上もっとも異常な場面」。「デンマークハムレットだ!」という台詞において抹消された主体が対象(オフィーリア)に同一化し、主人公がはじめて欲望を再発見すること。

 

 

 第XV講(18/03/1959)

 

 ハムレットに感情移入することの不可能性に関して、ジョーンズはハムレットの「非実在性」を指摘している。ハムレットが「幻影」であるとしても、これは空虚であることとは別である。ジョーンズの指摘によれば、作品が呼び起こす感動の源泉となる感情が意識されない。ハムレットの人物の非一貫性は、ハムレットが言説の一様態であることを示す。ジョーンズはハムレットの父殺しへの欲望の抑圧を確信犯的に社会的な抑圧(検閲)に帰している。

 ハムレットの行為の障害となるのはかれの欲望であり、この欲望の「不純な」性格ゆえである。ハムレットが行為を遂行し得ないのは、この行為がカント的な意味で「無私」のものではないからだ。

 ハムレットはヒステリー者にして強迫症者でもある。「欲望の座」を再発見することが問題であるかぎりで、あるいは「満足されない欲望」を創り出すことが問題であるかぎりでヒステリー的だが、「不可能な欲望」に支えを見出すという点においては強迫症的である。

 

 

 第XVI講(08/04/1959)

 

 ハムレットの真理は希望(贖い)なき真理である(実存哲学とは無関係)。<他者>は存在ではなくパロールの場であり、そこには一つのシニフィアンが欠けている。「精神分析の大いなる秘密は<他者>の<他者>がないことである」。「私は『私は存在する』と考える者とは別の者である」。「形象なき真理」、「閉じられた真理」、「全方位に折り畳み可能な真理」、すなわち「真理なき真理」。ファルスとは象徴的に供犠に付されたあなたのなかの一部分。オフィーリアは語源的にファルスに関係がある(ophallos 「膨らませる」)。

 

 

 第XVII講(15/04/1959)

 

 オフィーリアという「餌」(appaît)もしくは「罠」(piège)。オフィーリアを対象aとして造型したのはシェイクスピアのオリジナルである。「a は欲望の弁証法がそれをめぐる本質的対象である」。対象関係論は対象の弁証法を要求の弁証法と取り違えている。「守銭奴」にとっての金庫(ヴェーユ)が想起され、対象のフェティッシュ的性質が指摘される。マルクスシニフィアン(≠意味作用)によって商品のフェティッシュ化をとらえている。諸価値の関係はシニフィアンの関係としてあたえられ、主体性はシニフィアン弁証法のうちに記入される。倒錯においては、幻想(S barré ◇ a)におけるアクセントが想像的相関物の側(右側の項)に置かれる。倒錯的欲望は無私ではなく(intéressé)、[カント的ないみでの]「病理的なもの」と結びついている。「生存の苦痛」それじたいと結びついている。まったく純粋に生存することの苦痛。あるいは性的な項として生存することの苦痛。

 倒錯は神経症とどうよう分節されたものであり、分析可能である。とはいえ倒錯においては、存在にたいする主体の本質的な関係が想像的な諸要素に固着している。たいして神経症においては、強調は幻想における左側の項(=斜線を引かれた主体)に置かれている。

 神経症における幻想と倒錯における幻想の区別。倒錯における幻想は空間のうちにあり、「時間」への本質的関係を宙吊りにする。時間をもたない(atemporel)なのではなく時間の外にある(hors du temps 時宜を得ない)。神経症においては、時間にたいする主体の関係が幻想における対象への主体の諸関係の基礎にある。

 神経症においては、対象は「真理の時」の意味作用を担う。対象はそこにおいてつねに時間の前か後にある。強迫症者の一日延ばしは、予見するのがつねに遅すぎるという事実に基づいている。ヒステリー者はつねに外傷における時期尚早性、根本的な未熟性を反復する。

 対象において、主体はつねにその「時」を読もうとする。これが神経症的行動のもっとも一般的な基盤である。

 ハムレットがあらゆる神経症的態度(性格神経症を含めて)を示しているのは構造的必然である。<他者>の欲望への依存がその第一の理由だ。「ハムレットはつねに他人の時にぶらさがっている」。ハムレットは他人たちの時間において罪を宙吊りにしている。かれがイギリスへ発つのは義父の時においてであり、ローゼングランツとギルデンステルンを死に至らしめるのはかれらの時においてであり、物語が終わるのはオフィーリアの時(自殺)においてだ。ハムレットをレアティーズとの試合に引き入れるのは剣などの貴重な objet どもである(「収集家」としてのハムレット)。古代悲劇において狂人はいない。ハムレットが狂気を装うのは、じぶんがよわいと知っているから。サクソ・グラマティクス版、ベルフォレスト版でも狂気のふりをするが、シェイクスピア版においては行為に至るために狂気のふりが不可欠である。狂気のふりをすることは「現代的主人公の政治」の一次元である。

 ハムレットの「狂気」の原因は父ポローニアスの精神分析的叡智が見抜いたようにオフィーリアへの「恋」である。それまで至高の崇拝の対象であったものにたいして距離が置かれる。これが対象にたいするハムレットの関係の第一段階である。幻想におけるバランスの揺らぎが離人症的経験をもたらす。主体と対象との想像的な境界が変容を被る。ハムレットにとってオフィーリアは愛の対象としては失墜する(「一度はあなたを愛した」)。オフィーリアへの残酷な仕打ちは、幻想におけるアクセントが対象へと移行したことを示す(倒錯)。対象はすでに女性とみなされず、呪われた生の支えとなる。ここにおいて対象の破壊あるいは喪失が起こり、対象は自己愛的な枠組みに再統合される。主体にとって、対象は外部に(au-dehors)現れている。この対象は主体がみずからの存在のうちから犠牲に捧げた部分であるファルスである。オフィーリアは[呪われた]生のシニフィアン的象徴(尼寺=娼館)、主体が外部化し排出したファルスである。これが対象への関係の第二段階をなす。墓地の場面が対象への関係の第3段階。a の再統合が、運命と決着をつける可能性と結びつく。そこにおいて対象の機能は極まる。対象はそこにおいて喪と死を引き換えにしてしか獲得されない。

 

エディプスとハムレット:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その11)

 第XIII講(04/03/1959)

 

 これ以下の七講は本セミネールのクライマックスをなす『ハムレット』読解に費やされる。

 

 シャープの患者においてはファルスが自我理想の位置を占める。そしてファルスへの同一化は母への原初的同一化である。患者は母のファルスを否認していない。<他者>の去勢を拒む。エラ・シャープが理想化されたファルスの位置を占める。そのファルスをゲームに参加させない(隠す)ために患者は入室前に咳をする。

 理想化されたファルスに関して『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の参照が促される。

 シャープの患者はファルスを「持つ」ことではなくファルスで「在る」ことを探究し、「持たずに在る」という女性的ポジションをみずからのものとする。ファルスで「あるべきかあらざるべきか」というハムレット的問いの残響がそこに聴き取れる。

 すでに『夢解釈』初版においてフロイトハムレットの主題をエディプスのそれと同列に扱っている。ジョーンズ、そしてエラ・シャープもハムレットを論じている。分析における去勢複合の理解のためにハムレットを取り上げなおさなければならない。

 「死んでいる父の夢」において、「彼は知らなかった」というシニフィアンは、父が無意識であることを示している。父のイメージは主体の無意識そのものの具現であり、無意識的な父殺しの願望の具現である。じぶんの殺意を父が知らないでほしい(安らかに成仏してほしい)という願いがこの夢を見させた。他方、「彼[=息子]の願いによって」というシニフィアンは、フロイトによれば、抑圧されたシニフィアンである。

 ここで『夢解釈』におけるハムレットについての脚注が全文引用される。

 くだんの夢の父は自分が「死んでいることを知らなかった」。じぶんのあらゆる考えを見通していると思っていた両親が無知であることの発見は幼児の<他者>への関係において決定的な契機である。幼児にとって「あらゆる考え」とはあらゆる実在を指す。<他者>における「知らないこと」は、主体の無意識の構成そのものに相関的である。前者は後者の裏面にして、おそらくその基盤でもある。

 ハムレットの父は自分が死んでいることを知っている。これはエディプスの父との違いである。ジョーンズもそのことを重視している。エディプスは無意識的に罪を犯す。ハムレットはエディプス的罪を知っている。ほかならぬ罪の犠牲者がそれを告げ知らせるべく化けて出たのだ。お告げとはシニフィアンである。

 分析家たちはハムレットがクローディアスに同一化していると考えてきた。クローディアスはハムレット自身の欲望を成就したのだと。この解釈は性急すぎる。フロイト以来、ハムレットがクローディアスに復讐できないのは「良心の呵責」ゆえであるとされている。フロイトによれば、ハムレットの良心の呵責は無意識において分節されているものの意識的表象である。

 ハムレットの欲望が問題であるからにはハムレットの幻想がどのようなものであるかを知らねばならない。オフィーリア(=女性)という意識的な欲望の対象については多くが語られてきた。ハムレット自身が女性嫌悪を口にしている。それは母親ゆえである。ハムレットは「行為」を一日延ばしにしている。これはすぐれて一日延ばし(procrastination)のドラマである。ハムレットの「行為」はエディプス的な行為ではない。エディプスと異なり、ハムレットは存在することの罪(coupable d’être)を自覚している。ハムレットには存在することが耐えられない。ドラマが始まる以前からハムレットは存在することの罪を知っている。それゆえ彼は選択しなければならない。「存在すべきかせぬべきか?」

 『ハムレット』においては、エディプス的なドラマがラストではなくオープニングに提示され、それゆえに「存在すべきかせぬべきか」の選択を主人公は迫られる。このような「あれかこれか」ゆえに、主人公はシニフィアンの連鎖に取り込まれる。

 「生きるべきか死ぬべきか」ではじまるモノローグがルトゥルヌール訳で引かれる。

 父の幽霊はじぶんが「みずからのかずかずの罪の咲き誇るなかで不意打ちされた」と息子に告げる。息子は<他者>の贖われざる罪によって横取りされた地位を手に入れなければならない。『ハムレット』において、知っている者は、みずからが犯したことを知らなかった罪を贖ったエディプスとはぎゃくに、存在する罪を贖っていない者だ。ハムレットは父の代わりに贖うことも、負債を取り返さずにおくこともできない。最終的には支払わせなければならないが、かれが敵に復讐を遂げるのは、みずからに致命傷を負わせたその剣によってでしかない。ハムレットが行為を引き受けることが困難なのは、父と息子が知っている者であるからだ。二人は「瞬きせざる者らの共同体」(communauté de décillement)である。ハムレットはこのそれじたい「不可能な行為」をいかなる「迂回」によって為し遂げるのか? それは<他者>が知っているかぎりにおいてである。

 詩的創造は心理学的創造を反映するのではなく、生み出す。

 エディプスにあってハムレットに欠けている要素は去勢である。ハムレットはジグザグの緩慢な道程を経て、迂回のすえに去勢に至る。

 

ファルス湮滅大作戦:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その10)

 

 第XII講(11/02/1959)

 

 エラ・シャープ「唯一の夢の分析」の読解最終回。なお、ここでとりあげられた症例を収録したシャープの『夢分析実践ハンドブック』は勁草書房より来月に邦訳の刊行が予告されている。

 

 

 クラインはファルスを諸対象中のもっとも重要なものと位置づけている。諸対象への関わり方についてのクラインの記述は正確さを欠き、その論述は断定に満ちている。

 ファルスは主体の存在に関係する。「主体はファルスであり、かつファルスでない。主体がファルスであるのは、ファルスがそれにしたがうことで言語が主体を指し示すシニフィアンであるからであり、主体がファルスでないのは、別のレベルで、言語そして言語の法がファルスを主体から逃れさせるかぎりにおいてである」。

 主体のペニスは対象と量りにかけられ、対象との関係における等価物、原器の機能を果たす。ファルスとの関係の放棄によって、主体は諸対象の世界(無限性、複数性、偏在性)を所有する。ファルスにたいする女性の関係は「ファルスをもつことなくファルスである」。男性にとっては、主体からペニスを奪う行為によってペニスが返還される。

 ここでまたひとしきりクライン批判。クライン的象徴の内容は想像的。ファルスが乳房よりよい対象である根拠は薄弱。

 ジョーンズは剥奪欲求不満を引き起こすとしているが、実際にはぎゃくで、想像的欲求不満が対象の剥奪を帰結させる。

 

 シャープの症例。姉のサンダルの紐と車という二つの対象について、患者はいずれも必要(besoin)がないと語る。つぎのような公式が提示される。

 

姉         ◇ 

斜線を引かれた主体   X

 

 姉は理想自我i(a)、紐は対象a、Xは自我理想(I)を表す。姉は患者より八歳年上であり、患者が父を亡くした三歳のとき11歳である。患者は11歳以前の記憶がないと語っているが、その直前に男性の物まねの得意な女友達について語っている。姉妹的な人物にたいする想像的疎外の関係をそこにみてとれる。

 幻想(覚醒時の夢)と夢(夢の中の幻想)における小他者のイメージはそれぞれ異なる。幻想においてはそれは恋人たちのカップル(患者は彼らを引き離そうとする)であり、犬である。理想自我は結合の分離もしくは使い物にならない動物のファルスのいずれかを強いる。そこに性的結合の余地はない。一方、(女性を自慰させる)夢においてもファルスは隠されている。幻想においては、患者がいてはならない位置を扉の向こうのエラ・シャープが占め、自我理想となる(全能性を保持するクイーン)。全能なのは[シャープが考えているように]主体ではなく<他者>の方である。そもそも患者の症状は法廷での弁護ができないことだ。弁護士は代理する<他者>に触れてはならない。換言すれば、<他者>(女性)は去勢されてはならない。<他者>は彼自身のなかに貴重なシニフィアンをもたらす。それがファルスである。クライン『子供の精神分析』によれば、女児の発達において、ファルスというシニフィアンは主体が口唇、肛門、尿道、あらゆるレベルにおいて獲得する諸傾向を原初的に集中させている。シニフィアン=ファルスが<他者>に内在したままであるかぎり、主体はそれを作用させる(ゲームに出す  mettre en jeu)ことができず、二進も三進もいかなくなる。しかし、患者の抵抗は分析家の抵抗である。エラ・シャープがみずからに禁じているのは「弁護」することだ。シャープは障害を乗り越えることを自らに禁じている。患者が用心していることが何かがわかっていないからだ。患者は女性が去勢されていることを認めないのだ。女性がファルスをもっていないことをではなく、<他者>が「ファルスをもつことなく存在する」ということを。夢において患者の妻はゲームの外に置かれている。ファルスが隠匿されているのだ。患者はファルスが女性のなかにあると認めていないが、エラ・シャープが目の前にいるかぎり、ファルスは女性のなかにある(分析家が女性であることは偶然ではない)。それゆえ女性を前にして弁護することが患者はできない。シャープはファルスが患者のなかにあり、それが攻撃的なものであると考えている。この解釈は患者をベッドに縛り付けられ、自慰を禁じられた幼時のポジションにとどめ置く。シャープは縛ることを原光景に送付し、咳と下痢を原光景への反応(両親を引き離すこと)に帰す。ラカンは国王夫妻のセレモニーに赴く車が故障して国王夫妻の行方を遮ってしまうのではないかという患者の不安(シャープは父への攻撃性に結びつけている)を想起させ、国王夫妻をチェスのキングとクイーンに送り返す。キングとはシャープが考えるように父ではなく患者自身である。国王はほかならぬ「車」の中に閉じこめられ、人々の目にさらされる。これはファルスの探究をいみする。患者にとって、ファルスは環探しの環であり、それはどこにも見つからない。ファルスはどこにあるかという問いは喜劇の原動力である。くだんの幻想はアファニシスという状況に関係しているが、そのばあいのアファニシスとは欲望が消失することではなく、欲望を消失させることである。出版されたばかりの『地下鉄のザジ』のエピグラフ「それを作った者がそれを消滅させた」が引かれる。アファニシスとはファルスという対象の湮滅(escamotage)である。患者が<他者>の世界に近づけないのは、ファルスが隠匿されてゲーム盤の上にないからである。神経症の誘因はファルスを失う恐怖(去勢恐怖)ではなく、<他者>が去勢されていることを望まないことである。

 

 

 

チェスとしての精神分析:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その9)

 

 ミレール篇「ル・セミネール」の版元は2013年刊行の本巻よりSeuilからMartinièreにバトンタッチされたが、誤植が間々ある。

 

 

 第XI講(04/02/1959)

 

 シャープは主体のファルスを攻撃的な道具と見なす。ラカンはそれにたいして別の「解釈」を提示しようとするものではない。ラカンの狙いはこの症例における「主体間のトポロジー」を明らかにすることである。

 症例の同時代にジョーンズとリヴィエールによる男根期についての議論があったことが想起させられる。シャープは患者の巨大化(全能性)への願望を指摘するが、ぎゃくにラカンは患者の矮小化(消失)志向を指摘し(「知ったかぶりをするようですが……」swank)、これにジョーンズ的なアファニシス(欲望の消失)概念を批判的に適用しようとする。

 ジョーンズによれば、去勢複合に際し主体は欲望の消失(アファニシス)を恐れる。去勢とはこの欲望喪失の象徴化であり、アファニシスこそ去勢恐怖の実体である。つまりジョーンズは去勢恐怖をアファニシスという上位概念に還元しようとするが、ラカンによればじっさいには逆であり、去勢が欲望消失の条件である。去勢にはシニフィアンの作用が関与しているからだ。欲望そのものの実体はないから、欲望の現前とかその消失へのおそれについて語ることには留保が置かれる。人間主体がシニフィアンのなかに登録されることで、その[自然的]欲求は[言語的]要求によって変更を被りつつも同定される。去勢複合の機能とは、主体がシニフィアンとして登録されることでシニフィアンのうちのひとつを喪失し、犠牲にするということである。ジョーンズの考えとはぎゃくに、アファニシスへの恐怖は、去勢恐怖の不十分な表現、その部分的な排除(forclusion)という観点から理解されるべきである。去勢複合が欲望消失への恐怖から主体を守ってくれないので神経症者においてはアファニシスが観察される。

 くだんの夢において、患者は膣にペニスではなく指を入れ、手品のように鞘[膣]を裏返す。入れるべきものに代わる何かを入れるのみならず、何かを入れられるということを示している。それは女性のファルスである(to get my penis)。くだんの場面は性交ではなく露出(見せつけ)である。妻という第三者にたいしての。手品によって隠されているものが何かがわからないようになっているが、隠されているものは主体である。ファルスである。夢においてファルスはどこにあるのか?夢において起こっていることと自慰との謎めいた関係。相手と患者の自慰は一体である。自慰のように見えるものは、小他者への密かな自己愛的同一化である。身体の身体への同一化というよりも、相手の身体のペニスへの同一化である。愛撫はサディズムに似る。主体の相手への関係においてシニフィアンとしてのファルスが関係しているがゆえに、ファルスは抱擁を越えた倒錯的関係のうちに求められねばならない。それゆえに、別の主体を自慰することは、みずからのファルスをこの相手のなかに入れることとは異なる。相手を自慰することは、みずからを慰めることにひとしい。これが相手の行為(to get my penis)のいみである。この行為は確認の行為である。目の前にあるものが主体にとって重要であることの確認である。それはファルスと大いなる関係がある。しかしその行為はファルスが現前しておらず、逃れ去るものであることをも示している(主体の意志によってではなく、構造的偶然によって)。

 患者にとって、事態はつねに曖昧なかたちのもとに起こる。たとえば姉のサンダルの紐を衝動的に切った記憶。そして自宅に乳母車がなかったという記憶[兄弟への競争心に関係]。あるいはクラブへの入会希望者への手紙。祈祷書の不正確な引用(「しなければならなかったことを」の挿入。ついでにローランド・ペンローズの思い出への一瞥)。患者にとっての「しないこと」の重要性(成功への恐怖)。「われわれのなかには良いもの[正確には「健康」]はない」。「良いもの」とは「良い対象」であり、ファルス。患者にとって「良い対象」が現前しないことは重要。ファルスはあるとおもわれているところにはない。患者が示そうとしているのはファルスが現前していないこと。姉のサンダルの紐を切らずにいられないのはそのため(?)。切ることは去勢に関係している(フェニシェル流解釈)。この行為は相手への去勢への報復、去勢の適用であろうか、あるいは去勢の飼い馴らしもしくは遊戯化、つまり、去勢の価値下げであろうか(切られたお下げはまた生えてくる)?……いずれにしても、事態は去勢に関係がある。ただし、シャープのいうように攻撃的な全能性への報復が関わっているのでない。

 

 シャープの逆転移が俎上に載せられる。シャープは奇妙にも分析をチェスになぞらえ、分析家が患者に復讐すべく患者を詰ませようとする父であることをやめるまで続くと述べている。ここで問題になっているのは転移である。チェスにおいてあらゆる駒はシニフィアンであり、ゲームが進むにつれてシニフィアンの数が減っていく。分析もシニフィアンを減らすことで主体の位置をつきとめる。シャープは分析における素材のシニフィアン的性格―置き換え(隠喩)―に気づいている。

 ファルスは盗まれた手紙のようにおよそあるとおもわれていないところに現前する。患者はクイーンを失い(perdre sa dame)たくないのだ。患者はファルス(全能性)を失いたくないのでそれをゲームの埒外に置く。夢において埒外に置かれたファルスは、およそそれを代理していないとおもわれる人物、すなわち妻によって代理されている。妻は自慰の目撃者という表向きの役どころとはまったく別のところにいる。見る機能の重要性。<他者>としての女性パートナーは患者にとって、患者の全能性においてもっともタブーであるものを表象しており、患者の欲望のエコノミーの全体を支配している。「妻と世界一周する」ではなく「世界を妻と一周する」と「言い間違い」を犯しているのは、妻が患者のファルスである証拠だ。シャープは全能性を表すものとしての「世界一周」に力点を置いている。ラカンによれば、患者の全能性の秘密は「妻と」にある。患者にとってはそれを失わないことが肝心なのだ。患者はそれに気づいていない。そのためには妻が分析家[シャープ]であることに気づかなければならない。クイーンを失うことが勝負に負けることだと思いこむ下手なプレイヤーのように、患者はクイーンを失うまいとしている。クイーンを犠牲にするほうが勝負には有利なのに。なぜか?患者はファルスのシニフィアンは母親との関係に等しいからだ。問題は父親の欠陥である。重要なのはパートナーへの隠された密かな関係を強調することである。咳が告げているのはそれだ。患者が入室する前にパートナーが袋を裏返してそこに何も入っていないことをばらしたらおしまいだからだ。みずからを縛り付ける(pram-pinned)欲望に患者は幻想によって繋ぎ止められている。みずからが縛り付けられることによって、全能性のシニフィアン(イメージ)を別の場所に確保できるからだ。「車」の重要性もそこにある。車は全能性の象徴であると同時に運転手にたいして女性的な位置を占める(「車のことを人間みたいに話すのは可笑しいですね」)。主体を保護すると同時に縛り付け、埋めつくすという車のシニフィアン的両義性(=くだんの「頭巾」)。

 夢が報告された翌日、患者は咳の代わりに下痢を催す(喪失への恐怖)。その日、患者は修理中の車を使えなかったが、修理を怠った修理工があまりに感じがよいので叱らなかった。「車は必要はなかったが、車が大好きなんです(I love it.)」と口にする。患者が欲望を口にするのはこれがはじめてである(シャープによれば修理工=父)。シャープはそれを患者に告げ、患者は夜尿を来す。夜尿はペニスの活性化である。しかし性的な活性化ではなく現実的なペニスであり、幼児が両親の性交を目撃したときの反応にひとしい。いまひとつの反応はテニスでからかわれた友人に刃向かったことである。締めくくりにルイス・キャロルの一節(「楽園の門……」)が引用される。