lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

奇術としての幻想:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その8)

 

 第X講(28/01/1959)

 

 エラ・シャープ症例研究の続き。

 

 「グラフ」が再度参照される。シニフィアン連鎖は解釈可能な要素によって裁断されている。それによって主体は要求(demande)が欲求(besoin)から固定(疎外)するものの彼方(残余)、つまり「存在」に至ろうとする(欲望)。主体の言語的要求と存在との乖離に欲望が宿る(グラフ上段)。

 想像的他者にたいする自我の関係は、幻想にたいする欲望の関係とパラレル。幻想においては選択的対象への関係において主体が消失する。幻想はこのような構造であり、たんなる対象関係ではない。幻想は「切断する」。対象をまえにした「主体のシニフィアン的失神(syncope)」である。

 

 咳への言及は、メッセージについてのメッセージ。主体は室外の人にも室内の人にも同一化している。二人組の一方は現前していてはならない。もしくは二人組は離れていなければならない。分析家は室内に一人である。

 

 夢と幻想の対照。幻想においては強調は主体に置かれている。主体は犬として吠える。吠え声はメッセージであると同時に、メッセージを偽るものである。吠えることで主体はみずからを他人として位置づける。

患者は扉の向こうに何があると想像しているかは謎。咳はその証拠。覆い隠されているものは、幻想の公式の右側の項である対象=x。対して夢において、対象は前景化している。この対象は想像的な要素であるが、シニフィアンの機能を帯びる。とはいえ、依然として覆い隠されており、謎めいていて、そのものとしては言語化できない。反対の項に主体がいる。幻想において主体は他人として、つまりシニフィアンを刻印された主体として名乗る。いっぽう夢においてわれわれはイマージュ[対象]を手にしており、われわれが知らないのは逆の項にいる人(主体)が誰かである。シャープはそれをつきとめようとする。

 夢は動詞masturbate の用法についての患者の指摘で閉じられている。女性の性器からは頭巾の襞のような大きなものが前方に垂れ下がっていた。洞窟訪問の記憶。洞窟は唇のように覆い被さっていた。縦の唇と横の唇、横書き(欧文)と縦書き(漢文)のジョーク。「中国女が口とヴァギナを間違えた」云々なるリメリックが試訳され(「翻訳するとおもしろみが消える」)、分析におけるこのような想像的な要素の誘惑に釘が刺される。ハンス症例においても、重要なのは二頭のキリンが母と子であることではなく、ハンスがそれを丸めて尻に敷いたことである。幻想において事物を紙に変容させたことである。シャープの患者の「指」も単に[母親による]包み込み、むさぼりに還元し得ない。覆い被さる洞窟は子宮の内側とは関係ない。シャープは垂れ下がるものをペニスの等価物であるとしている。医師ではないシャープにはこれが「子宮脱」であることがわからない。「ファリック・マザー」クリスティナ女王の子宮脱への脱線。問題は母胎回帰や膣ではない。漢字(縦書き)への患者の言及は、サンボリックな次元に関わる。

 「グラフ」における幻想は、斜線を引かれた<他者>のシニフィアンと<他者>のシニフィエのあいだに位置づけられる。主体が前にしている対象は、s(A)という意味作用とs(A barré)という謎めいたシニフィアンとの媒介である。

 

 ここでラカンはシャープの解釈に踏み込むべきかを受講者らに尋ねる。一同諾う。先だっての唇/ラビアのジョークに続く、「車の幌」のような布地でできたゴルフバッグのエピソードが読みあげられる(仏訳97頁)。それをくれた男の声音を患者は真似る。ここから連想は、女友達がラジオで物まねを披露した逸話、高性能のラジオへと繋げられる。女友達は記憶力がよいが、じぶんは十一歳以前の記憶がない。ただ最初に聴いた歌は覚えている。女友達はその物まねをする。その歌詞にある「帽子」は「頭巾」(≒洞窟)を連想させ、最初に乗った車の記憶を呼び戻す。車は使われないときは紐で繋いであった。内側には緋色の布が張られていた。最高速度[pointe de vitesse]は時速60マイル、車の生としては標準的。車を人間にたとえるのは変だけれど。この車の中では気分が悪くなった。この思い出は汽車の中でビニール袋に放尿した記憶を呼び覚ます。ふたたび頭巾を思い出す……。

 

 つづけてシャープの解釈が引かれる(前掲書101頁)。患者は犬の「物まね」をし、咳をし、夢を語る。夢は自慰空想であり、全能性の主題が関わっている。夢で患者は「世界一周」する。これは女友達の物まねの放送(broadcasting)およびすべての局を受信できるラジオに関係している。物まねはじぶんより有力な人のそれである。自慰空想において患者は莫大な力をもつ人物になっている……。

 

 ラカンは全能性の主題に疑問を呈する。患者がしていることはみずからの巨大化ではなく矮小化である。これは洞窟のモチーフからも明らかである。シャープはこれらの見聞が「小さい」頃の記憶であることを強調している。主体の全能性とパロールの全能性の混同がある。患者は法廷で「話す」際に恐怖症を来す。父の最後の「ことば」は「ロベールが私の跡を継がねばならない」であった。生者として、それとも死者として?患者を困惑させるのは話すことのみならず、父に話させることである。ここには話す者としての<他者>と想像的なものとしての小他者との分割が関わっている。シャープは「壮大な夢」(世界一周、etc.)に全能性を読みとる。「壮大」と形容しているのは患者であり、実際には些細な内容である。全能性は<他者>の側、パロールの側にある。シャープが全能の幻想に伴うとする「攻撃性」も疑わしい。シャープはレベルの違いを考慮していない。シャープによれば洞窟は女陰であり、自慰空想は[性的]全能性に関わる。しかるにフロイトは母親の征服に際してのエディプス的英雄の不適合の感情を指摘している(ペニスのサイズへのコンプレックス)。

 ふたたびシャープの引用。洞窟の記憶は遮蔽記憶であり、年長の女性の性器を見た記憶を隠している。先端[pointe]、頭巾は陰核である。このあたりのシャープは歯切れが悪い。幼時の現実的な記憶に帰すことができるものであろうか。ここでシャープは八歳年長の姉をもちだし、女友達による男性の声音を姉の陰核と放尿の音に結びつける。さらに毛布に寝かされていた際に母親の性器を見た事実を想定する。ラカンはシャープが分析素材を扱う際の介入主義的で(actif)粗雑なやり方を批判する。転移における根本的幻想(fantasme fondamental)はどこに位置づけられるだろうか。患者は分析家に想像的なレベルでの転移を起こしている。シャープは分析家の自慰が患者自身の自慰であると認めている。しかし患者はシャープを自慰させることへの意志を認め、動詞の誤用を指摘している。ここで幻想=シニフィアンは、包み込む関係にある男女の親密な関係である。患者は包み込まれているだけではなく、「女性を」自慰させることによって、「みずからを」慰めている。しかし自慰はしていない。裏返された手袋(鞘 gaine = vagin)のイメージである。主体は想像的でありシニフィアンでもある人物が包み込まれるイメージを見ている。このイメージにたいして患者はみずからの欲望を位置づける。患者は仕事で国王夫妻が立ち往生する現場に向かう途中、車が故障するという観念に捉えられる。シャープはここにも攻撃的な全能性への復讐への恐れを読みとる。患者は幼時にも両親を立ち止まらせる経験をしていたのだと。「車」というモチーフに注意すべし。症例はクラインの両性的な怪物的親の観念と同時代。患者がしているのはファリック・マザーを男女に「引き離す」こと(「心理的割礼」という「手品」)。「卵袋」を何度も裏返して入れてあったものを出したり消したりしてみせる操作。主体のたえざる現前と不在は、女性的要素を含んでいる患者の自慰においてもみられる。夢の中の突き出た要素とは「包皮」でもある。幼時にベッドに縛り付けられていたことは、[両親の]性交の場面にたいして「付けたり」(代補 supplément)としてしか関われないことに関係している(放尿という衝動的反応はみずからがあずかれない享楽の「代わり」としての「偽りの享楽」)。このとき患者はかれを必要としているパートナーになり、女性化する。不能であるかぎりで患者は男性であり、解放されているかぎりで女性化している。みずからのうちでの女性性と男性性のこうした不分離、こうした本質的に自慰的な隠れんぼ遊びが患者の幻想の内実である。

 

 

ラカン vs. エラ・シャープ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その7)

第Ⅷ講(14/01/1959)

 

 これ以降の五講はエラ・シャープの症例「唯一の夢の分析」のコメントに当てられる。シャープの症例はマリ=リーズ・ロート編『ラカンが読むエラ・シャープ』(Hermann)に仏訳(ラカン訳を踏襲したもの)が掲載されているほか、日本ラカン協会紀要の最近の号に諸岡優鷹氏によるレジュメが掲載されており役に立つ。

 

 情動(affect)と存在。「情動は、存在にかんして主体のある一定の位置において提供されるなにものか。つまり、根本的で象徴的な次元において主体に提供されるものとしての存在にかんして。しかし、情動は、この象徴界のなかに現実界の壊乱的な侵入をなすこともある」。

 

 「死んでいる父の夢」において決定的なシニフィアンが「かれ[=息子]の願いによって」であったとすれば、「唯一の夢」におけるそれは「わたしはそうはおもわなかったが、かのじょはあまりにも失望していたので、わたしはかのじょを自慰しなければならないとおもった」。患者じしんが、masuterbate の他動詞的な用法を不正確であると指摘している。「わたしはかのじょが[不満なのであれば]自慰すればいいのにとおもった」とするべきところである。が、ここで重要なのは患者じしんが誤用を指摘しているという事実そのものである。

 

 ここで夢の結末部から症例の冒頭部、シャープによる患者紹介に戻る。患者[弁護士]は法廷に立つと恐怖症を来す。うまく行き過ぎることを恐れるのである。つづけてシャープはつぎのように書いている。死に際しての父の言葉は「ロベールに跡を継いでもらわなければ」であった。それゆえ患者にとって、成長することは死せる父と同一化することであった。父の死は貪り食う者としての母のイマーゴに結びつけられる。患者は父にもっぱら死者としてしか言及することがなく、父がかつて生きていたという指摘は患者に恐怖をもたらした。この忘却は父への殺意に由来する。シャープは復讐への恐れについて述べているが、ラカンは懐疑的である。患者の「言語外的な紹介」(音もなく面談室に現れる)についてのシャープの味わい深い記述が賞讃される。患者の几帳面さは感情を欠いているようにみえる。ここから主体の存在への関係に関わる情動への再度の言及。入室前の咳。シャープはそれをいわばノアの箱舟における鳩のお告げとして聞いた。この咳に感情が宿っている。患者自身が咳について話しはじめる。患者はその日すまいとおもっていた咳をしてしまったことを悔いている。シャープは患者から、咳が室内で抱擁中の恋人たちを引き離す目的をもっていることを聞き出す。幼年時に抱擁中の兄とガールフレンドを目撃した記憶が語られる。面談室に入室前に咳をすることについては意味がないとしたうえで、室内のじぶんの存在をごまかすために犬になって吠えるという幻想が語られる。ついで犬が患者の足にからだをこすりつけて自慰しているという別の幻想が語られる。患者はそれをやめさせようとしなかったことを恥じ、誰かが入室することを恐れたという。そこで患者はまた咳をし、夢の話をする。このことからも咳がひとつのメッセージであることがわかる。幼児が犬をワンワンと呼ぶことはシニフィアンの使用である。ところでこの幻想においては患者じしんが「ワンワン」と鳴いている。患者は言語の領域からみずからを追い払う(動物になる)ことで存在を隠している。「誰でもない者がいます」(il y a personne.)というシニフィアンによって。「<他者>を前にしているかぎり、わたしは誰でもない」。ここで自分の不在を訴えるべきはある女性である。女性に自慰していてもらいたいとは、じぶんにかまわないでもらいたいということ。

 

 

第Ⅸ講(21/01/1959)

 

 シャープは夢を全能性への願いという主題に結びつけて解釈している。全能性への願いは神経症的な願望であるとされている。ラカンはそれにたいして懐疑的である。全能性とは言説のそれであり、その言説を発するのは<他者>である。シャープはくだんの全能性を攻撃的なそれであるとしている。仕事の成功を恐れるほかに、患者はテニスの試合で相手を負かす(corner)ために必要なことができない。シャープはこれを全能性を発揮することの困難と解釈する。シャープは欲望を要求への関係においてみてとり、想像的な葛藤のレベルにみてとる。この解釈にたいする患者の二つの反応。(1)夜尿。(2)テニスでの敗戦。

 シャープの解釈には先入主が潜むが、それはときとして当を得ている。シャープは想像的な勢力争いの次元で解釈している。

 夢において患者は妻と世界一周し、チェコスロヴァキアで拾った女と妻の面前で行為する。

 咳は防衛である。患者の隙のない言葉とは違い、咳は突発的であり、患者がコントロールできないものである。

 患者はじぶんから咳のことを話すことで、咳がメッセージであると述べているが、シャープはそれに気がつかない。

 「グラフ」への参照が促される。咳の目的が何であるかの問いは<他者>を起点とする。この時点で患者はシャープが考える以上の地点に到達している。くだんの問いは疑問符のかたちをしたグラフ上段に位置づけられる。グラフ下段は<他者>のディスクールである。患者は内なる<他者>(たる無意識)の欲望を問うているが、この<他者>が去勢されていることを知らない。シャープはこの次元に気づいていない。

 シャープはくだんの幻想において関わっているのが[部屋の]外部にいるというかたちで現前する第三者を含めたトリオであることを見落としている。

 シャープは幻想が分析家を巻き込むことへの拒否を見落としている(「わたしはあなた[シャープ]をそんなふうにはみていません」)。実際には拒否ではなく、遠回しの承認である。

 犬の幻想における「……と誰かが考えるのではないかと私は考える」。主節と従属節の主語の二重構造に[つねにそうであるように]欲望が潜んでいる。ここにもシャープは気づいていない。

 シャープはこの幻想の目的を「他人を巻く(dépister)」ためとしているが、正確には、じぶんがいる場所にいないことを「見せる」ためである。この患者による主体の確認はつねにこうした構造に則っている。

 シャープは患者に、かれが分身への殺意を抱き、それへの復讐を恐れていると告げる。シャープの解釈は患者を主体化するいっぽうで、このくだんの構造(「かれはじぶんのいるところにいない」)をあきらかにする(?)。

 幻想は理解不可能であるが、想像的な構造を示している。理解可能性や一貫性は情動のもたらすものである。情動が動機を欠いていればいるほどそれは理解可能なものとしてあらわれるという法則がある。幻想を理解するのではなく、その構造をあきらかにすべきである。くだんの幻想には意味はなく、その非現実性が唯一の価値である。吠えることで、患者は「それは犬です」と述べている。幻想においては<他者>のシニフィアンがどれかを問うべきではない。吠えることはじぶんがいないことのシニフィアンである。主体は犬ではないが、吠えることによって「いるところにいない」という状況を実現する。

 幻想におけるシニフィアンの機能はいかなるものか?この問いに答えるべく、幼児におけるシニフィアンの操作が考察される。「犬はワンと鳴く」と言うだけでは「記号」による自然界の関連づけ(模倣)にすぎないが、「犬はミャーと鳴き、猫はワンと鳴く」と言うとき、シニフィアンの「置き換え」(=隠喩)が起こっている。幼児における言語の発生は、形容詞の次元が導入されるこの時点に位置づけられる。親が間違いを訂正すると泣くのは、幼児がしていることが隠喩である証拠である。ダーウィンへの脱線のあと、ルイス・キャロルへの言及とともに、シニフィアンはノンサンスの練習によって導入されることが確認される。ピアジェを読むくらいなら『不思議の国のアリス』を読むべし。 

 

 「それは犬だ」という幻想においては「主体の省略」という幻想の公式が見られる。「それ」は主体ではなく小他者(a)である。

 「犬は、ふたたび犬を自慰させる(masturbating a dog)思い出を呼び出す」(シャープ)。ラカンはこれを「自慰する犬(un chien qui se masturbe)……」と訳す。患者の幻想においては室内にいるのは犬だけだから。患者の連想がグラフ下段、メッセージとコードのあいだに位置づけられる。上段においては、メッセージとコードは下段とは別の性質を帯びる。そこでは<他者>が主体と同じ言語を話すパートナーに帰される(?)。上段のラインは私のうちなる<他>のシニフィアンS (A barré)に到達する。主体はS barré◇a をとおって欲望への問い(d

)に赴く。患者は「何であるのかがわからない何か」がある場所に入るときに咳をする。シャープは「分析家をめぐる性的幻想」と述べている。ラカンによれば、室内に何があるかではなく、「じぶんのいるところにいない」という幻想の構造が重要なのだ。犬は患者じしんであるかぎりでそこにはいない。犬は幻想ではなく現実の犬である。シニフィアンではなくイマージュとしての他者、同室者であり、患者に“一体化”している。患者は想像的にこの現実的動物であり得るが、「吠える」というシニフィアンを奪い取っている。この現前する他者が自慰している。この他者が患者に自慰して見せている。この関係は扉から入ってくるかもしれない第三者によって支えられ、その状況がもたらす羞恥によって成立している。主体(患者)は目撃者であるこの他者のまえに恥ずかしさのために文字どおり「消え入る」。「第三者(<他者>)が入ってこないようにじぶんのすべきことを示してください。わたしはじぶんであるこの犬という他者をまなざす。<他者>が入ってこないという条件で。さもなければ恥ずかしさのあまり消えてしまう。しかしそのいっぽうで他人としてのわたし、つまり犬をわたしは<自我理想>として、わたしがしないことをする者として、まなざす」。シャープであれば<全能の理想>と言うだろう。しかし、犬が自我理想となるのは、犬が話さない動物であるかぎりにおいてであり、犬のうちにじぶんの見たい者を見ることができるかぎりにおいてである。つまり、すべきこと、できることを見せてくれるかぎりにおいてであり、それは入ってくることができ、話すことができる<他者>の目の外に置かれているかぎりにおいてである。

 言い換えれば、エラ・シャープが自慰しているのを患者に見せることができるのは、患者が面会室にまだ入っていないかぎりにおいてである。咳はこの状況を保証するためである。

 二つの他者(autre)がゲームに参加している。話さない想像上の他者と、話しかけるべき他者。ただし後者は鉢合わせが時期尚早に起こらないように、主体が消え入らないように、注意することを要求される。

 

「死んでいる父」と「叩かれる子供」:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その6)

 

第7講(07/01/1959)

 

 依存神経症という観念は、欲求とその抑制的な影響力を見えなくしている。症状は欲求不満(frustration)という減算・中断の帰結ではないし、主体の変形ではない。想像的な欲求不満はつねに現実的なものに関係している。欲求不満の諸帰結と症状の間に欲望という複雑な弁証法がある。欲望は現実界の残す印象に由来するのではなく、人間にとって現実界想像界象徴界が結ばれる、より緊密な結び目においてはじめて把握され、理解される。それゆえグラフにおいて、幻想にたいする欲望の関係は、あらゆるシニフィアン的な言表行為の構造的な二本のラインのあいだに位置づけられる。症状、つまり抑圧されたシニフィアンの顕在的なシニフィアンへの隠喩的な干渉が欲望に由来するのであれば、欲望の位置をつきとめることがひつようである。

 「死んだ父の夢」において、欲求の主体は要求の連鎖(défilé)へと記入される。要求は単なる何ものかの要求ではなく、それが言語によってなされるという事実によって、<他者>の象徴化をともなう。<他者>とは愛を与える者であり、現前と不在によって定義される。<他者>が与えるものは与えることのできるすべてのものの彼方にある。<他者>はそれをみずからの現前のみによってあたえる。それは現前と不在の関係のいっさいであるところの無である。

 「死せる存在」は、死んでいるというかたちで存在のうちに保持される。この夢においては死せる存在(「欠けている存在」「主体的moins-value」)を不滅化する象徴的確認がなされていない。かれは死せる存在ではなく、知らない存在である。主体(息子)がかれ(父)を前にしているのはそのためだ。父が死んでいることを父に言ってはならないのだ。この禁止はあらゆるコミュニケーションの根源に宿っている。相手に伝えてよいこととよくないことがつねにあるのだ。ことは言説の抵抗にかかわっている。ここからこの夢がトロツキーの見た「ことのほか感動的な」夢(『亡命日記』)に送り返される。生命力の衰えを自覚したトロツキーは、夢のなかでレーニンに相手の死期を告げる。「死んだ父の夢」においては無知が他者に帰されていたが、主体自身の無知も存在する。主体は夢の意味(父の死を望んだこと)を知らないだけでなく、夢に感じている苦しみの意味も知らない。それは父の臨終に立ち会う苦しみであると同時に生存そのものの苦しみである。いっさいの欲望が生存ゆえに消失する際の苦しみである。主体はこの苦しみを引き受けるが、不条理なことに、この苦しみを、他者の無知によって、動機づけているのも主体じしんである。この無知は苦しみの理由ではない。この点でヒステリー発作における情動とは異なる。この苦しみを引き受けることによって、主体は無知となる。父の死と死の苦しみが主体じしんへの脅威であることについての無知である。主体は夢のイマージュによってこの脅威から逃れる。夢のイマージュは、主体が生存の終わりに直面するたびに口を開く深遠から主体を切り離し、欲望という安らぎをもたらす(apaiser)ものへと主体を結びつける。主体がみずからとたえがたい生存とのあいだに介入させるひつようのあるものは、ひとつの欲望である。どんな欲望でもよいのではなく、かれを長いこと支配していた欲望、いまでは克服されてしまったが、しばらく想像的に甦らせるひつようのある欲望である。父との競合関係の根底にある力関係においていまや主体が勝ちを収める。主体が勝つのは、父が知らないからだ。たいして主体は知っているのだ。これこそ、死の不安との対峙において開く裂け目に呑み込まれることを避けることのできる隘路である。主体にとって父の死は、死という絶対君主にたいする父という盾、媒介、代理の消滅をいみしていた。ここでふたたび幻想のシェマ(S barré ◇ a)が想起させられる。

 L図がふたたび提示され、a-a’が対象にたいする主体の関係を表すことが確認される。たいして 「S barré ◇a」は、想像的機能との主体の関係にたいする欲望の影響を示し、そこでは主体は不在である。欲望は人間にたいし、主体の省略(élision)という問いを提起する。

 要求する者としてパロールの次元に記入されることで、主体は献身性(oblativité)の対象に近づく。

 欲望として、つまり、話す存在としての人間の運命の充足において、主体はこの対象に近づき、袋小路にはまり込む。この対象にたどり着くことができるのは、主体じしんが、パロールの主体として、省略を被り、外傷の闇のなか、不安そのものの彼方へとおいやられる。さもなければ対象にとって代わり、ファルスというシニフィアンに従属することになる(去勢)。ファルスというフロイト的概念に反論することでジョーンズは袋小路に立ち至った。そこでジョーンズはファルスのイマージュに由来する抵抗という機能を強調することとなった。ファルスは他のあらゆる身体的イマージュの集合から差し引かれたイマージュであり、主体のシニフィアンである。

 呼びかけ(appel)と願い(vœu)のレベルを区別することでこれをより明確に説明できる。即自的な呼びかけ(「助けて!」「パンを!」)において、主体は欲求と同一である。しかし呼びかけは要求という quésitif なレベルで分節されるひつようがある。しかし祈願の(votif)レベルにある要素は、言語というフィルターに掬いあげられず、とうしょ欲求として表現されようとしていたものは抑圧を被る。quésitif なレベルで分節されるものは主体の経験に先立つコードたる<他者>のうちに残る。解釈において分析家は主体を要求そのものの構造に対峙させる。

 口唇期や肛門期において、要求は食物や糞便という取り外し可能な対象をめぐってなされるが、ファルスはシニフィアンであるかぎりでのみ取り外し可能である。欲望を完遂させるものは要求され得ないものである。神経症の本質は、欲望のレベルにあるものが要求として表明されることである。

ここでジョーンズによる性器的体制の記述が引かれる(男性性を実現できない患者は女性の性質を獲得する、云々)。インセスト的な体制とは要求の体制である。問題になっているのは欲望と要求いずれかの選択である。

 幻想が欲望の支えであることを示すべく「子供が叩かれる」が取り上げられる。この幻想の最初の定式は「父がわたしの憎む子供を叩く」。第二の定式においては「父が私を叩く」(原初的マゾヒズム)。マゾヒズム的幻想の本質は、物体として扱われること。第三の定式において主体の抹消(S barré)が実現する。神経症的主体はピカソのように「探さず、見出す」。幻想における主体の位置は不安定である。ここから夢の「内-主体的要素間の配分」がふたたび想起させられる。「死んだ父の夢」においてアクセントが置かれている情動は「苦しみ」である。どうように「子供が叩かれる」においては叩かれようとしている子供の幻想的イマージュに情動が照準を合わせている(この要素についてはのちに「不安の現象学」に即して再度論じられるであろうと予告される)。主体的不明確さの闇における不安と危険を前にしての主体の警告(設立=勃起)としての不安の区別については適切に認識されていない。

 『制止、症状、不安』においてフロイトはabwarten(subir)と erwarten(s’attendre à)を区別している。サディスム的幻想において情動は対象(a)に照準を合わせられる。くだんの幻想において主体はじぶんがどこに位置するのかを知るためにじぶんには欠けているなにものかの餌食になる。主体は折檻の道具の役割が典型的に示す二者の「あいだ」にいる。主体は「道具」と同一である。じっさい道具は、欲望の想像的な構造において本質的な人物として介入する。そこにおいて主体は廃棄され、その本質的存在において把握される。この本質的存在とは、スピノザが言うごとく欲望でる。

 セミネール『対象関係』において論じられた女性の男根期が参照される。そこでは母への憎悪とファルスへの欲望が問題になっている(ペニスナイド)。ファルスへの欲望とは、ファルスによって媒介された欲望である。ファルスと(a)が同一であるとは、想像的他者が、主体がもっている内なる欲動であることだ。根源的ないみでの<他者>への最初の同一化がかかわっている。ここで倒立した花束の図がふたたび召喚される。

 愛において男性は欲望の対象(ファルス)へと疎外されるが、エロス的活動においては、このファルスが女性を想像的対象に還元する。それゆえ男性における対象は二重性を帯びる。女性は男性において現実的ファルスを見出し、欲望を充足させる享楽の関係を得ようとする。しかし欲望の充足が現実的レベルでなされるとき、女性の愛(≠欲望)は欲望との遭遇の彼方にある存在に向けられる。ファルスのない男性である。話す存在として男性は去勢されている。

 

 

 

 

 

欲望の人質としての対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その5)

第6講(17/12/1958)

 

 「死んでいることを知らない父」の夢において、主体はみずからの無知を父に投影する。かれの欲望はこの無知のなかにみずからを位置づけることである。父の死によって、主体は死へと直面する。それまでは父の現前がかれを死への直面から守ってくれていた。「死に直面する」とは、父の機能に結びついたなにごとか、つまり去勢の意味作用との直面である。主体が引き受ける「実存の苦しみ」において現前しているのはそれである。

 

 「かれの願いによって」という文言の二通りの解釈。

(1)「かれの願いによって」かれは知らなかった(「かれの願いによって」は言表のレベルにある)

(2)「かれの願いによって」かれは死んでいた(くだんの文言は言表行為のレベルにある)

 

 (2)は父殺しへの幼児的欲望にかかわる。「資本家」たる幼児的欲望が現在の欲望という「起業家」によって夢を形成させている。

「かれは知らなかった」は、父の禁止の機能であったものを維持し、永遠化する。「かれは知らなかった」によって謎めいたものとなった夢の形式は、主体に欲望からの隠れ家を提供する。欲望を直視しなくて済む「道徳的な」口実を提供するのだ。欲望の消失についてはジョーンズが洞察を示している。

 欲望の対象は消失的な évanouissant な形式の下に現れる。幻想のシェマ(S barré ◇ a )が想起させられる。

 欲望の消失にかんして、ラカンが分析中の性的不能者への言及がなされる。ほとんどの性的不能者どうよう、この患者はまったく不能ではない。かれは愛の対象である妻とのあいだにだけ性交渉がもてない。

主体は欲望を予兆(signe)、約束、予見というかたちでみずからからとおざけ(aliéner)、[欲望の]「喪失」の可能性を生ぜしめる。「欲望は欠如の弁証法に由来している」。

 ジョーンズのアファニシス概念は、「主体は欲望の剥奪を恐れる」という定式において去勢複合を解釈したものである(当時の精神分析的言説にあっては去勢という概念が背景に退いていた)。ファルスにたいする女性の関係を、欲望にたいする人間一般の関係として捉えており、ファルスというシニフィアンにたいする男女間の不均衡が考慮されていない。

 欲望は生の欲望に還元されない。「エラン・ヴィタル」はアントロポモルフィスムに基づいている。

 人間は欲望を満足させることを望まないこともある。欲望を満足させてくれる他人への依存を幻想において厭うから。他人への依存への嫌悪は他人の気まぐれゆえではない。他人は気まぐれをひとつの徴となす。ところで主体の徴とは、主体の廃棄(abolition)の徴だけである。「対象(a)を前にすると主体の消失が起こる」。

 エディプス複合の正常な出口としての「転倒したエディプス」(自我理想としての父への同一化)において、主体が逃れ去る。父への愛を受け入れることは去勢[脅威]ゆえである。同性愛者は父への愛を去勢の脅威とみなす。対象の操作は欲望の中断に対峙するための細工である。

 対象は主体とシニフィアン弁証法に取り込まれている。ハンスの Wiwimacherの想起が促される。シニフィアンの介入が主体と対象の関係を不可能にし、対象の「移動」が起こる。人間の欲望は一つの対象から別の対象へと移行する。のみならず、移行じたいが欲望のか脆弱なバランスを維持する。移行はつねにひとつの対象を確保しつつ、満足を妨げる。その一方で、満足を換喩的に象徴化する(『守銭奴』の金庫)。対象の肛門愛的な保管によって欲望が存続する。対象は欲望の支えであり、「享楽」の対象ではない。財(bien)の享受(jouissance)とは、法的には他人が享受する財の保管をいみする(“他者の享楽”概念の萌芽?)。対象とは欲望の「人質」とは言わないまでもその「抵当」である。

 ここでひとしきり動物行動学への脱線。ブロス著『諸事物の秩序』が絶賛される。動物における象徴的活動は糞便的象徴というかたちをとる。河馬は糞によって縄張りを確保する。たいして人間にとって糞便は縄張りの「抵当」である。言語が関係するので、対象への人間の関係は複雑。『哲学の貧困』のマルクスは、使用価値から交換価値への移行において欲求の対象の消滅を見ている。親族の基本構造において、対象としての性的パートナー(女性)は、交換の対象となる。ジョーンズが『フロイト伝』において紹介しているマルタ・ベルナイス宛書簡において、フロイトは「社会化された対象」としての女性の役割を家具や置物と同列とみなしている。

 父への想像的同一化は欲望の問題を解決しない。自己愛は欲望の問題の解決の支えである。あらゆる対象は自己愛的構造を刻印されている。

 

コレクターとしての人間:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その4)

 

第五講(10/12/1958)

 

 否定(Verneinung)の Je ne dis pas は言わないと言いつつ言っていることにおいて「シニフィアンのもっとも根源的な特徴(propriété)」を体現している。フライデーの足跡はそれじたいでは痕跡にすぎず、それが消されるとき(十字が刻印されるとき)シニフィアンとなる。ピションは否定にかんして排除的(forclusif)と不調和的(discordanciel)を区別している。後者は ne 単独での用法に対応し(「虚辞」と言うべきではない)、それは言表行為と言表のはざまに位置する。言表行為のレベルでは否定はシニフィアンの分節そのものに向けられる(「私は私があなたの妻であると言わない」)。言表のレベルでは「私はあなたの妻ではない」となる。これはフランス語に特有の現象ではない。

 

 主体と<他者>の弁証法言表行為と言表弁証法に帰される。主体は思考が<他者>のディスクールであるがゆえにみずからの思考を<他者>がすべて知っていると想定するが、実は「何も知らない」ことを発見する。そして思考の「言われざるもの」(無意識)のうちにみずからの「存在」を見出す。哲学的伝統は主体を対象(客体)の影と捉えてきたが、精神分析は「語る主体」をそれに対置する。精神分析は対象との関係を欲望によって捉え直す。精神分析における対象は欲求の対象ではなくすぐれて欲望の対象である。「対象は主体がみずからの実存に対峙する際の支えになるものである」。この実存とは「もっとも根源的ないみでの実存」つまり言語のなかに実存しているということだ。つまり対象は主体の外部に在り、主体が対象をつかまえられるのは、主体がシニフィアンの背後に消失するときだけである。この「パニックの地点」において主体は欲望の対象としての対象にしがみつく。それは端的に「宝石箱を盗まれたときに守銭奴が失うもの」(ヴェイユ重力と恩寵』)である。あるいはより「高貴な」例を挙げるとすれば、蒐集家のコレクションである。ルノワールの『ゲームの規則』におけるオルゴール蒐集家が最新のコレクションを披露する際の「恥じらい」。対象にたいする主体の「情熱」において見出される「揺らぎの地点」。それは「欲望の対象」がまとうひとつのかたちである。「かれが見せるのはかれじしんのもっとも親密な核心であろうか。否。というのはこの欲望によって支えられているものは主体がじぶんじしんにたいして明かすことのできないものだから。それはもっとも大きな秘密というべきものである」。主体はみずからの願いを「秘密」として言い表す。

 ここで、接続法ではなく不定法を用いた願望の表現としてリーズ・ドゥアルムの詩(「密かな願い」)が引用される。Etre une belle fille / blonde et populaire / qui mette de la joie dans l’air…ここでは願望の主語(主体)が完全に省略されているわけではない。ここで願望は主体の前に(devant)表現(分節)され、遡及的に主体を定義する。ここで表現(分節)されているのは単なる願望ではなく、あるしゅの「存在」のなかで遡及的に主体を定義するものとして主体の前に位置するなにものかである。これはまったく en l’air な状態にある。願望されたものが表現されるのはすべからくこのようにしてである。ここで、『夢解釈』の結びの一節が引用される「破壊できない欲望が現在[原語はZukunft]を過去に似せてかたどる」。ここには反復や事後性といったこと以上のなにかがかかわっている。ロバの鼻先につり下げられた人参のようにそれは永久に主体の「前に」ある。

 「密かな願い」は願望を詩によって表現しているが、そもそも隠されたものをいかに他人に伝達し得るのか。なんらかの嘘によってである。詩では「わたしがブロンドで人気者の女の子であるという嘘と同じくらい本当」というかたちで願望が表現されている。「くうきのなかによろこびをおく」ことは換喩的な幻想の対象である。

 

 グラフにおいて欲望は、シニフィアンの連鎖において疎外される主体と、言われざるものの次元が導入される彼岸とのはざまに位置する。「死んでいる父の夢」における「彼は知らない」「彼は死んでいる」がそれぞれグラフの下段、上段に位置づけられる。みずからの正体を知らない主体は「彼は知らない」という意味不明な(inutile)言表のうちにみずからを位置づける。この言表は上段の「彼は死んでいた」によって支えられている。「彼は死んでいた」は話さない存在にとっては意味をもたない。動物は同類の遺骸に無関心である(犬には超自我はあるが無意識はない)。「彼は死んでいる」はすでに実存の秩序に導入されている主体を前提している。つまりシニフィアンの連鎖に組み入れられているかぎりで破壊不可能な主体を……。

 夢の「四つの要素」が二人の登場人物(主体、父)に振り分けられる。主体の側において「彼は死んでいた」は苦痛の対象である。父の側において「彼は死んでいた」は「彼は知らなかった」の内容である。「かれの望みによって」がこれに加わる。フロイトによれば夢の意味は「かれの望みによって」のなかにある。「彼は彼の望みによって死んでいた」が『コロノスのオイディプス』における「むしろ生まれなかったほうが」へ送り返される。

 オイディプスが「むしろ生まれなかったほうが」と言うのは欲望そのものへの罰としてである。夢見の主体の「苦しみ」は「実存の苦しみ」である。この苦しみを主体は知っていた。父がこの苦しみを知っていたかどうかはわからないが、息子がその苦しみを継承する。夢ではこの苦しみがシニカルで不条理に表現されている。『夢解釈』に言われるごとく「不条理な夢」はときとしてことのほか激しい「苦しみ」の表現である。

 主体は父が死んでほしいという願いがかつて父にではなくじぶんじしんに向けられた願いであったことを理解している。とはいえ、父の苦しみをじぶんがそれと知らずに引き受けていることは理解していない。「彼は知らなかった」というかたちで主体が父という対象の人格に帰している無知を、主体はじぶんが「生まれないほうがよかった」ことを知らずにいるために必要とする。実存の果てにあるのが実存の苦しみでしかないのであれば、他人の実存の苦しみとしてそれを引き受けたい。この願いのもっとも秘められた内容である最終的な謎を知るよりは……。この密かな内容とは父の去勢である。この究極的な願いは、父の死によってみずからに跳ね返ってくる。みずからの去勢にはなんとしても目を塞がなければならない。父を去勢する欲望は、欲望の構造のもっとも基底にある“シニフィアンによる去勢”という必然を隠蔽することに役立っている。この必然を表すのは「彼の望み」ではなく「によって」のほうの本質的な機能である。抑圧とは主体が無知という救いのうちに消失することである。抑圧の原動力は完全なかたちで現れるものでも完全なかたちで理解されるものではなく、「によって」という一個の純然たるシニフィアンの省略である。この「によって」が言表行為と言表の関係(一致ないし不一致)を規定する。かくして単独では意味作用をなさない「彼は知らなかった」のいみが夢の欲望において明らかにされる。

 

 次回はガリバルディの恰好をした父に会った夢における「フロイトの欲望」が明らかにされるだろう。「死んでいる父の夢」は死への主体の対峙を表す典型的な夢である。夢における死の出現は主体が死ぬ代わりに苦しんでいることをいみしている。この苦しみの背後に父殺しへの想像的固着(幻想)という罠が潜む(S barré ◇ a)。

 この公式の意味するところは以下のとおり。シニフィアンの行為によって抹消された(斜線を引かれた)主体は、他者(l’autre)の中にその支えを見出す。この他者は語る主体にとって対象そのものとなる。この他者は人間のエロスを支配する対象である。この他者はみずからの身体のイマージュである。ひとつの影にすぎないこの幻想のなかに人間の実存は支えを見出し、語る主体でありつづけることを可能にするヴェールを維持する。

 

 

タンタン・マニアとしてのラカン:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その3)

 

第4講(03/12/1958)

 

 快と欲望の区別についてのグラノフの発表を踏まえて快の定義が確認される。一次過程においては欲望が「細分化」されている。幻覚(局所論的退行)とは<興奮→運動>という回路(反射弓)が塞がれたとき、行き場を失った興奮が幻覚的表象に満足を見出すこと。幻覚をホメオスタシス的な電気回路(電流による「点灯」)としてイメージしたことはフロイトの独創である。フロイトは表象を「タイポロジー的空間」における刻印の連続として定義している(「シニフィアントポロジー」)。二次過程は動物における本能に対応するが、満足をもたらす対象はあってもそこへ至る道筋はあたえられていない。一次過程において召喚されたシニフィアンの「批判」は批判の対象となるものを除去せず、それじたいシニフィアン的次元にある現実指標によって複雑化する。表象は一挙に欲求を満足させるものではなく、スロットマシンのように正しい穴に球が入ると電球が点灯するのだが、正しい穴とは以前に球が入った穴のことである(一次過程において求められるのは新しい対象ではなく、再発見すべき対象である)。一次過程の目的が電球を点灯させることであるのにたいし、二次過程の目的は電球の点灯によってあらかじめマシーン内にストックされていたコイン(つまり現実)をじっさいに出すことである。

 

 『夢解釈』「願望成就としての夢」の章におけるアンナの夢(「アンナ・フオイト、苺、野苺……」)にフロイトは「裸形の欲望」を見てとっているが、この文における一連の命名はシニフィアン連鎖であり、それゆえ欲求(besoin)の対象をちょくせつ指し示すものではない。出だしの「アンナ・フオイト」はいわば電話における名乗りである。アンナの夢はグラフの上段、下段のいずれに位置しているのか。グラフの下段は連続的であり、普遍的ディスクール、要求(demande)をあらわす。これは完結した文(holophrase)に対応する。その典型は間投詞である。とはいえ「パンを!」という要求はその主体に送り返される。これがグラフの上段に対応する。この主体(言表行為の主体)はみずから名乗る(s’annoncer)ことなく、文がおのずから主体の名を告げる。対してランガージュ(言表)において人間主体はみずからをそのうちに算入する(se compter)。ビネが引く「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」という文は言表の主体と言表行為の主体の混同を表している。幼児の発達におけるこの区別の獲得は、ピアジェの言う人称代名詞の使い分けについての諸段階よりも重要である。

 アンナは禁じられている(inter-dit)ものを言葉にすることで満足を得ている。抑圧の関与している大人の夢においては事態はより複雑である。「国王がばかだという人は誰であれ斬首される」という無意識的な検閲が斬首される懲罰夢を見させるというセミネール第2巻の例が想起させられる。ついでにタンタン・マニアぶりを発揮しつつ、検閲をかいくぐる別の仕方として「タピオカ将軍はアルカザール将軍ほどの人物ではないと言う者は誰であれ私が許さない」という文言が提示される。これはいずれの将軍の支持者をも満足させず、両将軍の支持者をそれ以上に満足させない(タピオカを擁護しているように読めるけれども、実際に「タピオカはアルカザールほどの人物ではない」と言っているからだろう)。アンナは「だめと言われている」シニフィアンが実際には言われ得るものであることを知っていた。「欲望の真理はそれだけで法の権威にたいする攻撃である」。「言われざること(non-dit)が言われざるままであるためにはそれを言表行為のレベルで言わなければならない」。言うことができるから言わずにおくこともできるということであろう。文法は接続法や「虚辞」によって言表行為と言表のレベルを分節している。子供はこの二つのレベルの区別を知らないので大人は何でも知っており、じぶんの考えも見透かされていると思っているが、やがてそうではないと知る。ここで話題は「死んでいる父の夢」(「父は知らなかった……」)とクロスする。知と死の関係という観点からこの夢が解釈されることが予告される。

 

 

主知主義的精神分析宣言:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その2)

 

 第2講(19/11/1958)

 

 「抑圧されたもの」「欲望」「無意識」――この三者の区別が問われ、グラフ上に位置づけられねばならない。グラフの上階と下階との関係は建築学的(architectonique)なモデルに則ってはいない。グラフはディスクールなので、すべてを一度に言うことはできない。ディスクールはすべからく<他者>のディスクールであり、それゆえ上階と下階の区別は恣意的であり、両者は相似的である。グラフの目的は「語る主体」とシニフィアンの諸関係を見せることである。言表行為(「パロールの行為」)の主体もしくは語る主体もしくは「真の主体」がグラフの上段に、言表の主体もしくは「語られた主体」もしくは shifter としての je がグラフの下段にそれぞれ位置づけられる。デカルト的「われ思う」(「自我の超越」のサルトルが援用される)、命令法における主体、”Tu es celui qui me suivras.” における je は shifter としての je ではない。フロイトによれば、主体は語りつつみずからの為していることを知らない。グラフ上段の Che vuoi? は「主体の話す行為にたいする<他者>の答え」であり、それは問いいぜんにあたえられている答えである。主体はこの答えを手にいれることができない。これは去勢に関わり、したがって分析の終了に関わる。

 

 『夢解釈』における Wunsch とは欲望そのものではない。Wunsch とは「言語化された欲望」「分節された欲望」である。性的欲望は Wunsch の逸脱した形態である。『夢解釈』第7版以後、フロイトは欲望は性的欲望に帰されないと明言している。

 「私はあなたを欲望する(Je vous désire.)」は「汝の意志が果たされんことを(Que votre volonté soit faite! )」の逆であろうか。否。「わたしはあなたを欲望する」と言うとき、欲望の対象とみなされている「あなた」は主体の「さまざまな欲望の共通項」にすぎない。この文は「あなたは美しい」と述べているにひとしく、相手の美が醸し出す曖昧な神秘に欲望が帰されているのであり、「わたしはあなたをわたしの根源的なファンタスムのなかに関与させる」と言い換えることができる。そのかぎりで欲望はファンタスムの構造に規定されている。

 フロイトは「無意識」を「抑圧されたもの」に帰している(メタ心理学論文)。そして抑圧されるものはもっぱらシニフィアン的要素である。第二局所論に欠けているのは「ランガージュの根本的に隠喩的な機能」である。

 

 

 

 第3講(26/11/1958)

 

 夢の基底であるかぎりでの欲望が定義されねばならない。夢における欲望はまず眠りつづける欲望、現実をシャットアウトする欲望としてあり、また死の欲望としてある(両者は両立可能)。Wunsch の主体は死の欲望において充足を得る。何にたいする充足なのか? 充足されていることにたいする充足である(il se satisfait de l’être.)。Wunsch の充足は言語的充足である。上の文における être の実体は être という語以外のなにものでもない。

 

 現代心理学における原子論にたいし、イギリス起源の観念連合理論(associationnisme)が擁護される。観念連合理論はもともと現実界シニフィアンの連鎖によって断片化され、構造化されている場ととらえていたが、新心理学はこの現実界を適応すべき環境(Umwelt)と誤解した。観念連合理論は主体の精神において諸観念の連鎖をみてとる。その諸観念は近接性つまり換喩のメカニズムにしたがう。精神分析と心理学のベクトルはけして逆向きではない。

 

 フロイト「無意識」論文において Triebregung と区別されるかぎりでの Vorstellungsrepräsentanz の概念がシニフィアンのそれに帰される。これが無意識の実体であり、「無意識の主体」を規定する。無意識は情動に帰し得ない(ラカンは「主知主義精神分析」を以て任じる)。グローヴァーの唾棄すべき論文は多くの論者と異なり情動を前景化させていない点で正しい。無意識のうちに実体としての情動はない。情動は欲動という量的観念に還元されている。「無意識」論文のいくつかのくだりが引用され、このことが確認される。

 

 「精神現象についての二原則」における「死んでいる父の夢」がとりあげられる。無意識的欲望が明確に示されているこの夢においてフロイト的な表象代表の概念が理解され得る。一次過程における欲望の充足(幻覚)はイマージュでも知覚でもなくシニフィアンに関わる。夢は wishful thinking ではない。くだんの夢が呼び起こす「苦痛」はそのような観念にふさわしくない。この夢においてはあるしゅのシニフィアンがその欠如によって生み出されるものであることが示されている(抑圧とはシニフィアンの減法である)。そのシニフィアンを補うことによって「夢の知性 Verständnis」(フロイト)を復元(解釈)できる。省略されている「彼が望んだとおり」というフレーズは、それじたいでは意味を欠いた空のフォルム(表象代表)であり、後続する文に依存する。つまり抑圧されるのはシニフィアンであり、イマージュでも対象でもない(マールブルク派の「イメージなき思考」への脱線のあと、ブレンターノの表象概念の影響がほのめかされる)。抑圧(フレーズの欠損)は新たな意味をうみだす(「意味の効果」「シニフィエの効果」)。欠如した項を空白、零(「零は無ではない」)で「置き換える」ことであるかぎりでこの省略は「隠喩的」効果をもつ。「夢はひとつの隠喩である」。

 

 「死んでいる父の夢」については本講義ではとりあえずこのことだけが確認され、つづきは次回以降にもちこされる。以下、今後の課題と『ハムレット』読解の序曲めいた妄言。

 

 夢の隠喩においてうみだされる新たな意味はそれじたい謎めいたものである。この夢における死者という「存在」は降霊術師の呼び出す「影」にもひとしい。「影」の話す言葉の真理は降霊術師にも口にできない……。

 

 ところで、くだんの夢における父との出会いというシナリオはファンタスムであろうか? 夢のファンタスムは白日夢におけるそれとは別物である。

 

 「彼は死んでいる」「彼は知らない」「かれの望みどおり」という三つのシニフィアンを主体の連鎖とシニフィアンの連鎖の経路の上に(「トポロジー的」に)位置づけねばならない。これらは抑圧されているが、夢のレベルではそうではない。

 

 この夢における無知と精神病における méconnaissance(「それについて何も知りたくない」) との関係は?そして日常生活においてもわれわれは半死半生の存在(demi-mort)と共存している……。