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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』ヴァージョン)

*「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(1957年)

 

 講義ヴァージョンがシニフィアン概念に引きつけてまとめなおされる。

 「lettre は殺し、esprit は生かす」のであるとすれば、それは「シニフィアンは死の審級を物質化する」かぎりにおいてだ。シニフィアンの物質性についてはすでに「ローマ講演」で触れられていたが、これは分割不可能という性質をもつことにおいてきわめて特殊な物質性である。手紙を破っても手紙(lettre)はそのままであり、そのかぎりで手紙はゲシュタルト的な「全体」をなすものではない。手紙(lettre)は不加算であり、de la lettre のように部分冠詞をつけられない(ことほどさようにシニフィアンとはひとつの「単位」である)。

 シニフィアンは「不在の象徴」であり、ほんらいの位置に欠けているかぎりでしか存在しない。しかるに現実界はセミネール第二巻で確認されているごとく「つねに同じ場所にある」。「リアリスト」たる警察は、空間を「細分化」して現実界のレベルに手紙を探し出すことに急で、目の前に置かれている手紙が目に入らない。

 

 ポーの寓話は原光景の反復によって進行する。原光景とその反復とのあいだで、いっけん何も変化していないかのようにみえる。ただしそこには「商」「残余」もしくは「滓」(ジョイス的”littre”)が残る。これが「純粋なシニフィアン」としての手紙である。

 

 人物たちは手紙を「所有する」(手紙とはせいぜい留め置くこと détenir しかできないものである)のではなく、ぎゃくに手紙によって posséder(この語の二重のいみにおいて)される。大臣ついでデュパンが王妃のポジションを占めにやってきて「女性化」することは、言語の法に従属するといういみにおける”去勢”(ラカンはこんな言葉は使っていないが)という事態をあらわしていよう。

 

 以下、107段落から112段落のパラフレーズ

 

 王妃に想像的同一化を遂げることで、大臣は女性と影の属性(attributs)を身に帯びる。女性は「影」という特性によって隠すことに向いている。「影」であることにおいて女性の「存在」と「記号」は分離している。[手紙を盗まれたことにたいする]「女性の怒り」を無視することで男性は女性の記号の呪いを身に被る。女性はこの記号においてみずからの「存在」を「法の外に」基礎づける。この「存在」が、シニフィアンひいてはフェティッシュのポジションに女性を捉える。みずからの「影」にとどまり無為(non-agir)のみせかけを演じることで女性はこの「記号」の力を行使する。このみせかけを見抜くとき、大臣は女性の記号の囚われになっている。王妃は大臣が手紙を[政治目的に]使用しないことによって名誉を保つ。大臣は手紙の威力を知っているがために手紙を使用できない(手紙を使用することは大臣じしんの破滅をもいみする)。この「記号」はアンタッチャブル(noli me tangere)である。その囚われとなった大臣は無為(inaction)という女性的ポジションを強いられる。

 

 以上。「女性の特性(attributs)はシニフィアンの謎に多くを負っている」。女性を特徴づける「影」とはファルスの不在に関係していよう(マントルピースに「ぶらさげられた」手紙をめぐる失錯行為によってそれを察知していた仏訳者のボードレールは、くだんの女性化には気づいていない)。デュパンが大臣の政務室に入ったとき、手紙は地図上の巨大な文字ならぬ「女性の巨大な身体のように」目のまえに横たわっており、あとはその「服を脱がせる」だけでよかった……。「かくも不吉な企みは……」というデュパンの一撃は大臣(=シェヘラザード)にたいするかれの「女性的な怒り」に発している。

 ついでに運命(fortune)=死との邂逅をめぐって『四基本概念』で取り上げなおされるテュケーとオートマトンというアリストテレス的図式が援用される。

 

 

 

ラカンによるフェレンツィおよびライヒ讃:「治療-類型の諸変種」

*「治療-類型の諸変種」(Variantes de la cure-type, 1955)

 

 セミネール『フロイト理論と精神分析の技法における自我』開講中に『外科医学百科 精神医学篇』のために執筆された論文で、のちに『エクリ』に収録された。セミネール第一巻、第二巻における技法論をめぐる考察の要約的な論考。

 

 アンナ・フロイトらの主導する「抵抗の分析」は、抵抗が自我を主体とするものと想定しているかぎりで自我と主体をとりちがえている。ラカンによれば、抵抗は自我だけではなくエスにも超自我にもかかわるというのがフロイトの第二局所論の教えであった。

 

 対象関係論における分析家の自我(よい対象)の取り込みという観点も、分析的状況を自我のレベルに還元してしまっている。

 

 それにたいしてフェレンツィおよびライヒが評価される。

 

 フェレンツィは分析家自身の心的過程における「メタサイコロジー」の必要を説き、分析家の自己愛と「エゴイズム」にたいする注意を喚起している。教育分析の必要性および分析の終了の重要性についての問いもそこから発している。

 

 「能動的分析」の主導者であったフェレンツィは、その一方で分析家の「非-知」にたいする認識において評価されねばならないというわけだ。

 

 一方、ライヒの「性格分析」は、「男根的=自己愛的」「マゾヒズム的」といった「性格」が、ヒステリーや強迫神経症といった症状(主体にたいして異物として構成される)と同じ「構造」的産物であることを想定している点において評価の対象となるが、それがオルガスムにたいする個体の防衛を機能とするという観点に限界がある。

 

 ライヒの過ちは一般に考えられているようにオルガスムという神秘主義的なエネルギー実体を想定したことではなく、むしろ個人を防衛の主体と前提していることにおいて自我心理学と同じ穴の狢であるということらしい。

 

 分析の実践に standard を設けようとする試みが多少とも神秘主義的な standing のそれへと陥る危険を孕むとする問題提起ではじめられた論文は、フロイトの提示する分析基準はフロイト個人にとっての基準であるにとどまるとする「分析家にたいする分析治療上の注意」の引用によってしめくくられる。その一節に読まれるべきは、分析家の「非-知」にたいする本質的な認識にほかならない。

 

 

死の本能と生の奇跡:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(了)

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十四講(29/06/1955)

 

 

 講演の成功で自信をとりもどしたラカンが質問者たちに逆襲を試みる。

 

X:聖書には宇宙(「すべてを論理的に繋げるような固定され決定された法」)もしくはプラトン的な「ロゴス」の概念がないので「はじめに言葉ありき」の「言葉」はランガージュではない。

ラカン:ランガージュのもうひとつの意味(「不在と現前の連続」)を想起すべし。「はじめに」あったのは「0/1」という「原初的背反」である。

X:ランガージュがパロールを可能にするという定義は曖昧だ。

 

 

ヴァラブルガ:サイバネティクスは三角性[ゲシュタルト]を認識できない。つまり三角性は想像的次元に属するのか?

ラカン:三角性は機械の構造そのものである。0/1の意味は後続する第三項をまってはじめて生まれる。

ヴァラブルガ:あなたは三角性と三項性を混同している。

リゲ:三角形とはあるしゅの関係であり、自然には存在しないから象徴的次元にある……

 

 

ラカン:われわれは受肉した存在であり、つねになんらかの想像的なものを介して考える。想像的媒介によって象徴的媒体が阻害され、混乱させられる。

マノーニ:想像的な裏打ちがないとランガージュはもはや人間でない何かになってしまう。

ラカン:感傷はよしなさい。機械は人間ではない。ただし人間がそれほど「人間的」であるかどうかは疑わしい。象徴的次元が人間的経験とよばれているものに還元できないことに驚く必要はない。

 

 

 『快原則の彼岸』三章冒頭のコメント。

 症状とは意味作用であり、「形をとった(mise en forme)真理」である。それはシニフィアンシニフィエとして構造化されており、自然の印(indice)とは異なる。症状は「言説の裏面」である……。

 局所論的分割線は意識と無意識ではなく、パロールと自我の間に引かれるべきだ……。

 

 

 生物はその存続に不必要なものは受容しない。人間だけがその彼岸に向かう。「動物という機械」はそのことについて「何も知りたくない」。

 

 

 最後にL図がふたたびコメントされる。

 「分析家は接近がもっとも困難であるといういみで大他者の根源的性質を帯びる」。

 

 

 「分析的経験は意味作用の経験である」。分析が主体に明かすのはかれの「真理」「運命」の意味作用である。自我は目指すべき上位の審級ではない。フロイトはそのような「進歩」への傾向を退けている。「生のあらゆる形態はそれじたいじゅうぶんに驚くべきもの、奇跡的なものであり、より上位の形態への傾向など存在しない。この点において[どの点において??]われわれは象徴的次元に至る」。

 

 

 

サイバネティクスと精神分析の同時代性は「偶然」か?:『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十三講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十三講(22/06/1955)

 

 

 セミネール番外編の講演「精神分析サイバネティクス

 

 サイバネティクス精神分析という二つの「技術」(あるいは「思考」もしくは「科学」)の同時代性を説明する鍵の一つが「ランガージュ」。

 

 機械とのゲームは偶然が存在しないことを示している。「偶然」という言葉が使われるとき、それは意図の不在もしくは法則の存在をいみしている(両者は別のことである)。精神分析においては自由連想における偶然性が重要である。サイバネティクスは偶然と決定論の関係に光をあててくれる。

 

 サイバネティクスの起源には偶然のいみという問題がある。サイバネティクスの前身は厳密科学に対置されるかぎりでの推測科学(人間の行為を問題にする科学)である。そのかぎりでサイバネティクスの先駆者としてコンドルセひいてはパスカルを挙げることができる。

 

 厳密科学は現実的なもの(われわれがそこにいてもいなくてもつねに同じ場所に見出されるもの)を扱うと言い得るか?

 人間はむかしからそのような変わらない場所があると考えていたが、[儀礼・祈祷などの]人間の行為(「真のいみでの行為とはパロールの行為」)がその場所に秩序をもたらすとも考えていた。「人間は法則をつくろうとしていたのではなく、法則の永続のためにじぶんが不可欠であろうとした」。じっさい「法則こそが現実的なものの存在の厳密さを維持している」。とはいえ、そうした行為の無意味さに気づいたことが厳密科学に道を開いた。人間がいなくとも自然の大時計はひとりでに時を刻む。自然は約束の時間を違えない。自然の時間と人間の時間が分離する。厳密なのはそのいずれか? 厳密さは両者の時間を一致させることにある。ホイヘンスの振り子時計によって「正確さの宇宙」(コイレ)がはじまる。

 

 パスカルが賭けにおける運を計算すべく発明した「算術的三角形という最初の機械」によって、「たんなる場所としての場所の組み合わせの科学」が「同じ場所に見出されるものの科学」にとって代わる。それはスカンシオン(一回一回の勝負)の概念を前提する。サイバネティクスが発明される条件は、すべてを現前と不在の二進法によって記述できることに加えて、それがあらゆる主観性から独立して可能になることである。

 その可能性は門によってもたらされる。門において問題なのは現実的なものではなく開/閉の関係そのものであり、開/閉の運動が生み出す振動(スカンシオン)である。

 

 サイバネティクスにおける「メッセージ」は意味をもつものではなく記号の連続である。sens をもつとすれば、それは記号の連続の向かう「方向」という語義においてである。機械を規定するのはそのような「方向」である。

 

 システムの基礎は確率(賭け)の概念の中にある。それはある期待を前提している。サイバネティクスは象徴的次元と想像的次元の違いを示している。想像的なものの「慣性」ゆえに、主体の言説は「不純」な言説である。精神分析弁証法は言説から「想像的混乱」を除去し、ほんらいの意味を解放する。

 

 「意味」とは何か?「人間存在が原初的で起源的なランガージュの主人ではない」ということである。「人間はランガージュの中に投げ込まれ、巻き込まれ、その歯車にとらわれている」(序数より基数が先に発見された逆説)。「人間はその存在全体が、数の行列のなかに、原始的象徴体系のなかに組み込まれている」(「基本構造」)。

 

 機械においては時間に遅れてくるものはもともと存在しないが、人間においては抑圧ゆえにスカンションの遅れがある。抑圧されたものは執拗に存在へと至ろうとする。象徴的過程とはこうした非存在の存在への到来である。

 

ランガージュへの集中砲火:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十二講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 第二十二講(15/06/1955)

 

 サイバネティクスにおけるメッセージ概念。「ランガージュはメッセージのためにあるが、コードではない。ランガージュは本質的に曖昧であり、意義素はつねに多義的で、シニフィアンはつねにさまざまな意味、ときにはきわめてちぐはぐな意味を帯びる」。

 

 ウェルズの譬え話。火星語?のメッセージを三人の学者たちが別様に解釈する。「ランガージュの代用物」に基づいて学者たちは「パロール」を受け取るが、「コード」はない。譬え話の教訓は「各自がじぶんにむけて顕現した呼びかけや天命を理解するのはランガージュの世界においてである」ということ。

 

 哲学者たちは誤謬をランガージュの存在に帰してきた。つまり、主体はランガージュにたいするじぶんのポジションを知る必要があることだ。精神分析の教えるところは主体が「ランガージュのようなもの」すなわち「普遍的言説」にすでに巻き込まれているということ。普遍的言説とは、有史以来、現実に言われたことを指す。「普遍的言説との関係において主体は主体として位置づけられ、普遍的言説に書き込まれ、普遍的言説によって決定される」。そして「主体の機能は、かれがこの言説を継続するというかぎりでこの言説のなかにみずからの位置を見つけることにある」。「主体は誕生以前から[……]具体的な言説の原子として位置づけられている。主体はこの言説のダンスの列のなかにいる。主体はかれじしんひとつのメッセージである。[……]かれの全体がメッセージの連鎖のなかに位置づけられる。そしてかれの行う選択のひとつひとつがかれのパロールである」。

 

 「はじめに言葉ありき」の「言葉」とはランガージュであり(通常そう解されているように)パロールではない。このあとで神は「光あれ」というパロールを発する。人間はパロールにs’intéresse(s’inter-esse)している。メッセージが「彷徨う記号」であるのにたいし、人間がそのなかに統合されている普遍的言説は動かない。

 

 ラカンの晦渋なランガージュ概念にたいして列席者の集中砲火が浴びせられる。

 

 リゲ:数学においてはランガージュはコード化によってのみ定義されるが、あなたはランガージュをコミュニケーションの基礎をなす普遍的ランガージュとして捉えている。

 ラカン:数学における形式化された象徴はランガージュが人間主体から独立して存在しているとみなしている(「数は絶対的に存在する」)。つまり「記号の世界が循環し、その世界にはいかなる意味作用もない」ような万能機械を想定している。意味作用はこの機械を止め、その循環に時間的切断(スカンシオン)を入れることでうまれる。

 リゲ:機械には人間と共通の象徴の宇宙はない。

 ラカン:しかし機械を作るのはわれわれ人間だ……。

 

 さらにマルシャン,ポンタリスの追い打ちがつづくが、ラカンは一貫してのらりくらりと攻撃をかわしていく。その途上で、個々の言語(国語)からは独立した「純粋状態のランガージュ」が口にされ、「ランガージュとは一つの具体的な宇宙」であり「完全な体系」であると定義される。

 

 列席者の猛追を強引に振り切るかたちで、ウェルズの譬え話を受けて「論理的時間」における三人の囚人の譬え話がふたたび引かれ、ランガージュとパロールの区別が確認される。

 ここにおいてランガージュは「黒が二つ……」という所与のなかにあり、この所与は「現実の外にある」。パロールは主体が「私は白だ」と確認する行動によって導入される(純粋に論理的なプロセスではない)。「急ぎ」は機械には属さない時間の次元であり、想像的(間主観的)推論の時間とは異なる。こうした「ランガージュの象徴的時間」「断言の時」がパロールに固有の時間性である。

 

 さいごに「はじめに言葉ありき」の「言葉」がランガージュであることがあらためて確認され(あいかわらず反論が続出する)、この一節が第四講で引かれた「すべてを創ることによって至上のものはなにを創るのか――みずからを。しかしすべてを創るまえにかれはなにを創るのか――わたしを」というシェプコのニ行詩に送り返され、ランガージュ(0/1)がプラトン的想起説が前提するように太古から人間とは独立に存在していたのではなく、「絶対的始まり」「創造」があると述べられる。ラカンによれば、こうした観点はプラトンフロイトを分かつためのひとつの方法である。

 「私」と考えているとき、この「私」は不滅である。ところが「私」と口にされるや否や、破壊が可能になるとともに創造がある。この創造が未来を可能にする。この未来が想像的なものにとどまらないのは「私」が先行するすべての言説に支えられているからである。ルビコン川を渡ることが「象徴的行為」たりえたのは、カエサルの過去の一切によってである。すべては過去の関数である。この過去はわれわれが認識しておらずとも太古からランガージュ(0/1)のなかに書き込まれている……と列席者を煙に巻いて講義は閉じられる。

 

 Restons-en là, c’est un peu rude aujourd’hui! 

 

ドッペルゲンガーそしてファルス:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十一講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十一講(04/06/1955)

 

 「貞節を動機づけるのは誓いの言葉(パロール)にほかならない」(プルードン)。妻の誓いは夫個人をこえて「すべての男」に向けられ、夫のそれは「すべての女」に向けられる。「すべての男」とは「普遍的男」つまり「象徴」としての男といういみである。このような象徴的契約と夫婦の想像的関係とのあいだには(「想像的父」と「象徴的父」とのあいだにあるような)「葛藤」がある。この「葛藤」がブルジョワ階級の宿命的に経験する葛藤の基礎にある。ブルジョワ的な葛藤は「自我の実現」という「人間主義的な」葛藤であり、それゆえ自我に固有の疎外をともなう。この葛藤は自明であるが、その理由を説明するのはむずかしい。レヴィ=ストロース的な「基本構造」は複雑であるが、「複合構造」は単純な見かけをしている。

 

 結婚の自由は幻想であり、結婚の選択は基本構造が優先する要素にしたがっている。親族の基本構造において女性は交換の対象である。象徴的次元は男性中心的なものであり、女性を疎外する。女性は象徴的次元において従属すると同時に対象でもある。それゆえあるしゅの分析理論は、女性にたいして男性はかつては神であり、ついで主人であったが、現在ではライバル(想像的関係)となった(ついで子供となる)という図式を提示しているが、性的闘争は永遠のもので(婚姻関係はそれを制度化したもの)、女性解放運動の時代に特有のものではない。

 

 『アンフィトリオン』の教訓は、夫婦関係が成立するには三角関係が必要であり、神の介入がなければならないということ。つまり、「普遍的男性」としてのジュピターがアンフィトリオン夫婦の「想像的関係」を支えているということだろう。性器愛は本能的成熟の成果としてのカップルとイコールではない(バリント)。第三者(神、パロール)の介入がなければ、性器愛は性行為と愛情(性器愛以前に遡る)とのアマルガムにすぎない。

 

 プラトゥヌス以前のギリシャ神話にも自我はあったが、「語る自我」つまり分身(Sosie)は喜劇の枠組みのなかではじめて登場しえた。

 

 「主体における象徴的な次元と現実的な次元の矛盾」(「離人症」)にくるしむソジーにたいして「自我のさまざまな属性をソジーの自我のなかに再統合させてやる」アンフィトリオンは分析家の象徴といえるが、分析家は[分析という]愛する我が家から追い出された(exilé)アンフィトリオンの位置にいる(ただし妻を精神的に寝取られる被害者は患者の方?)。

 

 『アンフィトリオン』における主人と従僕の関係が強迫神経症における「自我の致死的影響」への考察へと繋げられる。

 強迫神経症者の主体は「みずからじぶんじしんの所有権を手放してしまった自我であり、この放棄は「想像的死」をもたらす。強迫神経症患者は「想像的に死んだ」自我に固執している。「強迫神経症者はつねに一個の他者」であるからだ。かれはじぶんじしんを「客体化」しており、みずからの欲望を他者の欲望として提示する。かれの欲望とはじぶんじしんの破壊の裏返しとしての他者の破壊である。問題はこのような根源的攻撃性を患者に承認させることではなく、かれがみずからとのあいだに結んでいる死に至る関係の機能を認識させることである。かれが「死んでいる」のは「主人に対して」であり、「享楽の対象との関係において」である。かれは享楽を消して主人の怒りを呼び覚まさないようにしているつもりでいるが、このとき主人に仕えているのはかれ以外の者であり、あるいはかれじしんは別の主人に仕えている。欲望するかぎりでかれは一連の人物へとかぎりなく分裂する。フェアバーンによれば、主体のなかにはエス、超自我、自我いがいの多くの[鏡像的]人物が住まっている。ソジーが学ばなければならないのはじぶんがアンフィトリオン(「何も理解せず、他人が何を望んでいるかを理解せず、妻を抱くだめには凱旋将軍であればじゅうぶんだと信じている栄光につつまれた男」)であるということ。ラカンアンフィトリオンに『盗まれた手紙』における王の人物像をいくぶんか重ねているようにおもわれる。

 

 ついでフェアバーンラカンはこの人を批判しつつもけっこう高く買っている)による半陰陽の症例にそくしてファルス概念が導入される。

 フェアバーンは患者のさまざまな欲動を再統合させようと試み、男を傷つけたいという欲動への罪悪感をもたせようとしたが、これは患者に一つの自我と超自我をあたえることである。じっさいには男が患者のうつ状態を引き起こすのは、男が患者自身のことである証拠。男性への想像的同一化とペニスの象徴的価値(ファルス)との矛盾としてのペニス羨望をこの症例は鮮やかに示している。

 

 たしか『転移』のセミネールにおいてラカンは喜劇というジャンルをファルスの現前によって定義している。喜劇のコメントからはじまるこの日の講義がファルスへの言及で締め括られていることにはおおいなる必然性がある。

 

 

対象関係論と不合理なもの:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十講

 

 シェマLにおいてはパロールが光のように一直線に伝わることを前提しているので、「隠喩」か「アナロジー」にすぎない。ミスリーディングなシェマの例として『自我とエス』の卵形の図が挙げられる。

 

 「中心的エゴ」への「リビドー的エゴ」の再統合というフェアバーンの分析観が俎上に上せられる。対象との関係をエゴに帰しているのはよいとしても、対象の内在化という概念は曖昧至極である。

 

 夢は直訴として誰かに宛てられている。夢をパロールとして語ることができるのは、主体の経験が最初から象徴的次元に組み込まれている証拠である。想像的関係は無意識の言説との相関において意味をもつ。対象との関係は、他の主体がこの対象と結ぶ関係を前提する。それによって対象が命名可能になる。「命名は現前の喚起であり、不在における現前の維持である」。

 

 対象関係論は主体がみずからを語るということを考慮し得ない。パロールの裂け目によって分析家は主体が語ることの彼岸に赴くことができるのであるから、この裂け目(「不合理なもの」)は言説に内在的。ここで不合理なものと言われているのは無理数のようなものである(『メノン』)。

 

 ユークリッド幾何学は、象徴化された二つの現実は公約数をもたずとも(もたないから)等価とみなすことができることを前提する。ユークリッド幾何学において[二等辺三角形の]痕跡がそれじしんに重ねられるように、主体のイメージは主体の歴史の本文に綴じ付けられている。

 

 乳児が泣いたり泣きやんだりするリズムが象徴的次元を生み出す。自我の幻影性はプラウトゥス的分身においてはっきりと示されている。