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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

惑星はなぜ話さないのか?:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析における自我』第十九講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 第十九講(25/05/1955)

 

 なぜ惑星は話さないのか?

 

 『我が闘争』においては「人間同士の関係が月同士の関係のように語られている」が「われわれもとかく月同士の心理学や精神分析をする傾向がある」。

 

 惑星とはちがい、人間は主体の満足[欲望]を他者の満足[欲望]との関係においてもつ。(惑星は他者をもたない。)

 

 問題になっているのは「根源的な他性」、ある答えに「失望したということはその答えが真の応答であったこと、まさに予期していないものだったことを証明している」ような他性のこと。

 

 そのような他者について理解するには『パルメニデス』における「一と他」についての厳密な考察を読むべし。

 

 惑星が話さないのは惑星が「黙らせられた」からでもある。動き回る惑星にはかつては主体性が想定されていた。ところがニュートンによる統一場の導入によって、宇宙は言説の宇宙(「F=ma」)という象徴的なものによって置き代えられる。それ以来、天体は言葉を奪われた。

 

 つねに同じ場所に見出される星とは、「それであるところのもの」、つまり「現実的なもの」である。コタール症候群の患者(「私には口がない」)は、口が象徴するあらゆる裂け目を欠いたイメージに同一化している。かのじょらは「衛星の世界」に住んでいる。「死んでいると同時にもはや死ぬこともできない」。「主体がここで想像的なものと象徴的に同一化しているかぎりで主体は欲望を実現している」。

 

 精神分析の目的は統一場の導入によって患者を黙らせることにあるのだろうか。ヘーゲルのいう歴史の終焉においてランガージュを必要としなくなった人間は動物になるのだろうか。

 

 惑星が話さないのは時間という次元をもたないからだ。なぜもたないかというと、惑星は丸いからだ。球体はつねに同じものでありつづける。分析の目的は自我を丸くすることではない。

 

 「シェマが一つの解答を示すのであればもはやそれはシェマではない」との断りとともに“シェマL”が導入される。

 

 鞄の中身を分析家に見透かされているという考えに取り憑かれた患者の症例。鞄の中身とは部分対象の象徴であり、分析家の人物像をとおして部分対象を想像的に受け入れるという観念は、Comulgatorio(グラシアン)つまり聖体拝領の秘蹟のように分析家を想像的に貪り食うことにまで至る。分析はこのような「主体の想像的、根源的分断の再統合」を目的としてはならない。分析家の養成が理想とするような「自我のない主体」の創出こそ目指されるべきものである。

 

 <<Wo Es war, soll Ich werden.>>は、分析の終了において、Es(エス/主体S)がパロールを携えてほかの<他者>たちとの関係へ参入しなければならない、「S」があったところに自我がいなければならないと解されるべきである。

 

 

コロノスのハムレット:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十八講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第十八講(19/05/1955)

 

 「リビドーの概念は精神分析的効果の領野を統一する概念」であり、「リビドー概念を使うことは一つの世界(統一場)へ到達しようとするあらゆる理論の伝統のなかにある」。「フロイト的経験は理論的な見方とはまったくぎゃくの考え方から出発している。それは欲望の世界を置くことからはじまる」。「フロイト的世界はものの世界ではない。存在の世界ではない。欲望の世界である」。ちなみに前講では「世界」が「ランガージュの構成する宇宙」と定義されている。

 

 対象関係における「パターン」とは「正常な対象」への「適応」をいみし、人間主体と現実世界の適合(co-naissance)を前提しているが、じっさいには「欲望とは存在欠如(manque d’être)への関係」であり、「欲望とは名づけられないものの欲望である」。

 

 「コペルニクス的転回」が限定された事物の世界における転回であるかぎりで、フロイトの辿った歩みはそれとは逆方向への「転回」である。デカルトからアインシュタインに至る科学史を支えていたのは「神は欺かない」という前提である(次講参照)。

 

 リビドー概念はアリストテレスのヒステリー論において先取りされている。アリストテレスは男性性器のように明確な表象をもたない子宮を凶暴な小動物としてイメージしていた。ただしアリストテレスはこの小動物が言葉を解すること(パロールが治療効果をもつこと)を理解していなかった。

 

 リビドーについては神話的にしか語れない(genitrix, hominum divumque voluptas.)。フロイトが欲望を性的欲望に帰したとき、弟子たちは性的対象の教示をもって「解釈」とみなし、その不首尾を患者の「抵抗」に帰したが、じっさいには「患者の側には抵抗はない」。分析家が「抵抗」とみなしていたのは患者自身が行う「解釈」の現れであり、分析家がそれを「解消」すべき「抵抗」として抽象化して捉えていたのだ。そのいみでは「ただひとつの抵抗しかない。それは分析家の抵抗である」。

 

 「ギリシャ神話の主人公たちはすべてオイディプス神話となんらかの関係があり、かれらは別の面でこの神話を具現し、この神話の別の局面を示している」。「オイディプスの生涯そのものがまるごとこの神話である。オイディプス自身、神話から実在への移行いがいのなにものでもない。かれが実在したかしなかったかはたいして重要ではない。かれはわれわれ一人ひとりのなかにも実在しているから。かれはいたるところに実在し、かれが現実に実在した以上にしっかりと実在している」。「心的現実」は「真の現実」に対置すべきものではない。

 

 「オイディプスは実在している。かれはじぶんの運命を最後まで実現した。それはじぶんじしんによって雷に打たれ、引き裂かれ、破棄されることとまさに同じこと。つまり、かれは完全になにものでもなくなった。『わたしが一人の人間になるのは、わたしが存在することをやめるこのときだろうか』」。「神託パロールの中心的結び目」であるオイディプスがその神託パロールを完全に実現して死ぬ。「大地の屑、ごみ、滓」「もっともらしい外見をいっさい失ったもの」となったコロノスのオイディプスをラカンはポーのヴァルデマル氏に重ね合わせる。いわく「吐き気を催すような溶解物[……]どんな言葉によっても名づけられないもの、直視できない姿のむきだしの、なまの、裸の現れ」「人間の運命についてのあらゆる想像力の背後にあるもの」。「死であるような生」というフロイト弁証法。「生とは一つの膨らみであり、黴」(『快原則の彼岸』)。「意味」ある生という「人間的」なヴィジョンが問いに付される。

 

 ある時点までのフロイト理論は死に関係するものをも含めて均衡(秩序と調和)を指向する閉じたリビドー経済の枠内で説明しようとしていた。たとえば想像的同一化という概念において攻撃性をそれとはいっけん相反する要素であるリビドーに帰していた。ところが『快原則の彼岸』においてその限界につきあたる。マゾヒズムはもはや逆転したサディズムではなく、原初的なものと位置づけられる。『コロノスのオイディプス』が示しているような陰性治療反応の根源性、「生は癒されることを望まない」というヴィジョン。

 

 治癒とはなにか?「他所からやってきて主体を横切るパロールによる主体の実現」である。

 

 くだんの「眠りたいという欲望」が、名前のない欲望つまり死の欲望に委ねられているという「生のもっとも自然な状態」に帰される。「死ぬこと、眠ること、そしておそらくは夢見ること」。つまり「to be or not to be」。この一文は夢や機知もそこに基づいているランガージュの次元を生み出す原理を表している。

 

 「生まれてこないほうがよかった」という合唱隊の台詞が想起され、この台詞にたいし「残念ながら十万回に一回もないだろう」と返す機知が紹介される。まじめぶった確率計算によってリアクションしているところが滑稽であるわけだが、「機知が機知であるのは、それがわれわれの実在にあまりにも近いので、笑い飛ばして無効にしなくてはならないから」。パン屋で代金の支払いを拒否する男の機知にしても仲人の機知にしても、「実在しないものを実在させる」象徴の顕現に関わっており、現実的な世界とパロールの継目における欲望の出現が関係している。骰子の印もこうした象徴であり、骰子が振られることで欲望が生じるが、賭け事をする人を囚われにするこの欲望は「人間の」欲望ではない。

 

知を想定された主体:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十七講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店

 

 第十七講(12/05/1955)

 出席者の質問へのコメントというかたちで進められる。以下、箇条書きで。

 

 反復強迫を規定する「執拗さ(insistance)」はランガージュの根底にある機能。

 

 「人は知っている者の立場に立たされているあいだはつねにじゅうぶんに知っている」。真の教育は教える側に無知への自覚と知への欲望を引き起こすそれ。

 

 新聞で犯罪者[予備軍]の「責任能力」を説く精神科医の反フロイト的な「ヒューマニズム」への疑念。主体を規定するのは「主体の動機についてとらえることのできるすべてを越えて執拗に続くこの象徴的縦糸、根本的文」、つまり『盗まれた手紙』における無意識としての手紙であり、オイディプスの目から覆い隠された神託である。典型的劇『オイディプス王』の「彼岸」に位置する『コロノスのオイディプス』には、人間と人間が知らないでいた言説との関係の究極のかたち(死)が書かれている。

 

 「主体の原初的な裂け目」に由来する自我は、無意識の言説の主要な一部をなし、象徴的現実が主体の現実に組み込まれるのに不可欠な要素である。「自我は人間主体の心的活動においてもっとも近く、もっとも密接で、もっとも近づきやすい死の出現」である。想像的関係が迂回されるのはそのため。「自我は主体がそのなかにとらえられ疎外されていると感じる共通の言説と主体の心的現実との交点」。

 

 執拗さは慣性ではない。分析における抵抗とは慣性にたいする抵抗(慣性そのものには抵抗はない)。抵抗は分析家自身のなかにある。

 

 「無の欲望」としての欲望。『夢解釈』において一つの欲望が明確に突き止められている例はない。「すべてはこの欲望が解き明かされていく過程のさまざまな段階、階段、ステップ」にすぎない。欲望の「実現」は隠喩にすぎない。フロイトは「眠りたい欲望」について述べているが、睡眠を維持したいという欲求は自我において現れる(「無意識的幻想」というフロイト自身の概念)。

 

 「私がなにものでもなくなり、一人の人間になるのはいまなのだろうか」(『コロノスのオイディプス』)という言葉はオイディプスの精神分析の終了(アクティング・アウト)。

 

 強迫神経症における贈与は、あらゆる物の享楽を永久に剥奪させる。問題はかれが死んだ主人の奴隷になっていることを言説の弁証法によって気づかせることである(「脱言語化」概念批判)。

 

 現実的なものの軽視というポンタリスの疑問にたいする[曖昧な]弁明。

 

『盗まれた手紙』講義ヴァージョン:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十六講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店

 

 第十六講(26/04/1955)

 

 「原因という概念そのものが、その内に象徴の連鎖と現実的なものを媒介する何かをもっているという点で、[あるかないかという]賭けを出発点として成立する」。現代物理学の中心に確率の概念が躍り出たのは偶然ではない。あらゆる象徴的思考の根本には「賭け」(to be or not to be)という問題がある。「ゲームをするということは、隠されていて推理するしかない規則性を相手のなかに追求すること」(前講において「発見されてしまった法則はもはや法則ではない」とのマノーニの発言がある)。

 

 「[他者への]問いがなければゲームはなく、構造がなければ問いはない。問いは構造によって形づくられ組織される」。「象徴のゲームそのものが[……]主体とよばれるこのなにかを代表し、組織する。人間的主体がこのゲームを成り立たせているのではない。主体はこのゲームのなかで場所を占めているだけであり、たんに+と-の役割を果たしているにすぎない。主体それじたいはこの連鎖のなかの一要素である」。

 

 「諸主体の干渉(immixtion des sujets)」のドラマとしての『盗まれた手紙』。「原光景」(手紙が盗まれる場面)は手紙が取り戻される場面(さらに大臣が破滅する「想像的場面」)において反復強迫的にくりかえされる。

 

 登場人物は現実的な人物たち(王、王妃、大臣……)として列挙することもできるが、かれらを「象徴的連鎖の必然性が現実の主体を吸収してしまうことによって決定される関係を出発点に」定義することもできる。手紙はイルマの夢におけるトリメチラミンの化学式と同じようにひとりの登場人物である。手紙は「純粋状態で移動する象徴」としての「根源的な最初の主体」である。『盗まれた手紙』は「運命や因果関係が実在との関係で定義できるものではない」と教えている。登場人物は、手紙(根源的主体)に対するみずからの位置(化学式のどの位置を占めるか)によって定義される。あらゆる登場人物にとって手紙はその人物の無意識である。

 

 あらゆる劇の出発点は、人間主体がさまざまな(時として両立不可能な)「契約」(「結び目」)にあらかじめ縛られていることである。『盗まれた手紙』の出発点は結婚という最初の契約である。王家のカップルはその契約の象徴である。 

 

 「言の葉は飛び去り、書かれたものはとどまる」という格言どおり、パロールが連鎖をなして「とどまる」のにたいし、手紙とは「飛翔する(volante)パロール」である。手紙は誰に宛てられているのか。「それが脅かすすべてのもの、それが侵すすべてのもの、それが嘲笑うすべてのもの、それが危険に晒し宙吊りにするすべてのもの」にたいしてそこにある。手紙がその場所を変えるにつれて手紙の意味が変わる。

 

 シャトーブリアン的人物(「原則を固守するやり方こそがその原則を無にするもっともすぐれた方法」)である大臣は、女手の手紙を偽造することでいわばじぶんに恋文を送る(ナルシシズム)。かれは手紙を利用せず(スタンダール的無為、「退屈しきったパリス」)、それにどんないみもあたえないまま、王妃に同一化する。手紙の威力の大きさが大臣に王妃とおなじ態度(話さないこと)を強いるからだ。それゆえ大臣が王妃とおなじように手紙を盗まれるのは、「超詩人」デュパンの策略ゆえではなくて「事態の構造」によってである(「手紙はつねにその宛先に届く」)。

 

 警察の無力さは「手紙の何たるかを知らない」がゆえである。なぜ知らないかといえば、警察はみずからの力が象徴であって現実的な力ではないことを知らないからである。警察は手紙が文字(lettre)、つまりどこにもないものであることを知らない。

 

 現実的なものを「隠す」ことはできない(隠したものは見つけることができるから)。「真理」の次元にあるものしか隠すことはできない。『盗まれた手紙』において隠されているのは「真理」であって、手紙そのものではない。そしてそれは警察には見えない。現実的なものしか信じない「退化した(dégénéré)王」が王妃を[その盲目によって]「保護」しているのと同様に、警察は大臣を保護している。

 

 そしてその「保護」をあてにしすぎたことが大臣を破滅させる。大臣は「警察が手紙を見つけられないのは、見つける能力がないのではなく、別のものを探していたからだ」ということを忘れてしまう(ここでも手紙は「無意識」として機能する)。大臣は他の駝鳥(une autre autruche / autrui-che)が砂に頭を突っ込んでいるのでじぶんは安全だと思いこんでいるもう一羽の駝鳥であり、第三の駝鳥に漁父の利を奪われる。あらたに偽装された手紙(「運命」)をつかまされたことを知らない大臣は、こんどは王(手紙の真の宛先)の位置を占めるに至る。かれはティエステスのようにみずからの子供を喰わされたのだ。

 

 デュパンもまた手紙(「彷徨う真理」)の「マナ」的な呪縛によってそれを所有していることを他言することができないが、「聖なる」謝礼を受け取ることでそれに打ち勝つ。患者の「盗まれた手紙の配達人」である分析家(アトレウスとティエステスの物語はその寓意)が高額の謝礼を受け取っているように。金銭は聖なる負債から免れるための現代的な方途である。

 

 

2は奇数である:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十五講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(邦訳、岩波書店

 

 第十五講(30/03/1955)

 

 イルマの夢においても狼男の夢においても、「主体は解体し、消え失せ、主体のさまざまな自我へと分解している」。いずれにおいても「究極の現実的なものにたいする恐怖」が経験される。フロイトはそこを「夢の臍」と呼んでいる。「あらゆる間主観的関係を越えた他者への関係」。

 第四講におけるエゴなき意識という「神話」がふたたびとりあげられる。意識とはエゴと純粋知覚(いずれも主体とは擦れ違いの関係にある)とのあいだの緊張であり、そこにおいてエゴは主体と知覚とを切り離す。想像的関係が限界にまで至る条件下においては主体はエゴを越えてイド(quod)と直面する。

 『盗まれた手紙』における「丁半あそび」はラ・ロシュフーコー、マキャベッリ、カンパネッラの心理主義にも比すべきもので、サイバネティクスの専門家にも評価されている。ゲームをする機械が近年発明されたが、機械相手にこのような心理主義は無効である。機械にたいしては同一化ではなくランガージュという手段が選択される。つまり、機械に可能な組み合わせの考察(ここで当時話題のトランジスタへの言及がある)。そこにおいて一回かぎりの勝ち負けはいみをなさない。組み合わせにおいては2という数字が基本要素となる。それゆえ2はあるいみで奇数、しかも「もっとも奇数らしい奇数」である。このとき丁半はもはや現実の次元にはなく、象徴の次元にある。機械との勝負においては「+と-からなる一定量の情報が積み重ねられ、そのつど相互に組み合わされた変形がおこなわれる連続的なメカニズム[それは偶然を排除する]が、けっきょく二人の人間の対決のばあいに起きることとよく似た、そのつどの調整をする」。無意識の主体の「歴史」(「想起」)は前者のように構成されており、「記憶」とは区別される。主体[の意味作用]を規定するのはキュクロプスにも比すべき現代の機械、「イルマの夢のなかで出会われたものよりもさらに無頭のもの」である。

 『盗まれた手紙』において問題なのは心理ゲームではなく「弁証法的ゲーム」である。その教訓は意味作用(先入観)はそこにあると信じられている場所にはけっしてないということである。

 快原則の彼岸(反復強迫もしくは転移)はそのような[機械の]「象徴的効果」(レヴィ=ストロース)もしくは「象徴的慣性」に帰される。

 

 

フロイトの罪:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第十四講

 

第十四講(16/03/1955)

 

 イントロとしてマルセル・グリオールの講演の話題が振られ、レヴィ=ストロース相対主義に引きつけてコメントされる。

 

 イルマの夢において夢の意味という主題の「情熱的探究」に邁進していたフロイトが「メドゥーサの頭」のようなイメージ(「名づけられないもの」「現実界の露呈」「究極の不安の対象」)に行きつくプロセスを「エゴの退行」と呼びうるか? この過程は自我以前への回帰ではなく、自我機能のさまざまなスペクトルへの解体(「想像的解体」)である。

 

 『夢解釈』につづくフロイト思想の段階は『ナルシシズム入門』によって画される。「ナルシシズムが人間の外的世界との関係すべてを構造化している」。対象の知覚はみずからを満たされない欲望として知覚させ、自我の知覚は世界を不調和なものとして知覚させる。このような揺れこそが人間の知覚の「劇的な」基底である。それゆえ、夢における想像的なものの出現を退行に帰す必要はない。

 

 「命名する言葉は同一でありつづける」。ことばは「対象の時間的次元」であり、名は「対象の時間」である。

 

 「主体の根本的な無頭性」(主体の消失)。「フロイトはこの夢でわれわれに向けて語りかけている」。夢の不条理な言葉はひとつのメッセージである。イルマの夢のいみは以下のとおり。「私はいままで人が理解しようとせず治療することも禁じてきたこれらの患者たちの治療にあえてとりかかってしまったことの許しを請う者である。私はじぶんに罪がないことを願う者である。というのもそれまで人間の活動に課せられてきた限界を踏み越えることはつねに罪だったからである……」。

 

 

イルマのお告げ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第12〜13講

第十二講(02/03/1955)

 

 「夢見る人は、じぶんの夢の欲望にたいする態度においては、内なる共同(une intime communauté)によって結び合わされた二人の人物でできているかのようにみえる」(『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」)。ここに読まれる「主体の脱中心化」という考え方はジャネによって先取りされているが、ジャネの心理学的関心においてはそれは逸話(historiolae)にとどまっていた(「二重人格」)。対象の「再発見」は想起という予定調和的なシナリオをたどるのではなく、対象の喪失を媒介とするというヴィジョンは、フロイトの著作の「形而上学的射程」を予見させる。それは「主体とは何か」という問いによって導かれる。

 

 『夢解釈』第7章・第2部(「退行」)の局所論的シェマにおける同と他、一と多のパルメニデス弁証法。心的装置は複数のシステムから成るが(P, S1, S2…)、個々のシステムのいみを特定しようとしてもむだである。問題は複数のシステムの連続性である。「心理学草稿」のシェマでは同一であった「知覚」と「意識」が、逆説的なことにここでは無意識の入り口と運動の出口とに隔てられている。晩年のフロイトは「自我の核」として両者をふたたび結びつけたが、これはじゅうぶんな解決策ではない。

 知覚(獲得)と記憶(集積)の乖離はマジック・メモというモデルによって説明されている。

 抵抗により意識に到達しない興奮(幻覚、夢)を説明する概念が「退行」。「退行」は多義的な使用によっていみがあいまいになっている。

 「フロイトが退行を導入せざるを得なかったのは、かれが心的経済における知覚機能を原始的でバラバラで要素的なものと考えていたから」。そのような要素的なものとしての知覚に意識を関係づけることの困難。

 行動主義における意識の還元は、意識への問題意識の隠蔽にすぎない。

 心的装置の「核」としての「エゴ」は知覚のレベルにはない。「心理学草稿」のシェマは『夢解釈』のシェマと重ならない。後者においては時間的次元が導入されている。時間的次元の導入によって「退行」概念が召喚されたが、「そのせいでフロイトは退行というものを時間的にのみならず、局所論的つまり空間的平面においても認めなければならなくなり、その平面で退行は収まりの悪いものとして現れる」。退行は逆説的な概念でありつづける。

 

 

第十三講(09/03/1955)

 

 イルマの夢。「われわれにとって重要なことは、フロイトの思索のさまざまな段階を同一平面に置こうとすることでも、それらの辻褄を合わせることでもない。重要なことは、かれのさまざまな段階の、矛盾をはらんだ思索のこの進歩が、どのような唯一不変の困難を反映していたかをみること」。この一節はハルトマンを標的にしている。文化的文脈を重視するエリクソンの文化学派も、「エゴ」の発達の諸段階を想定する心理主義(ハルトマン)と同じ穴の狢である。イルマの夢は、フロイトの「エゴ」の発達の一段階ではない。

 

 イルマの口(「裂け目」)の中にフロイトがみたものは「不安の視覚化、不安の同定、『お前はこれだ』という究極的な啓示、つまり『おまえはこれだ、つまりおまえからもっとも遠いもの、もっとも形のないもの』だというそれ」。ラカンはこれを「ダニエル書」の啓示 Mané, Thecel, Phares に送り返す。エリクソンはいみじくもフロイトがこのイメージを前にしてなぜ覚醒しなかったのかと問いかけている。エリクソンによれば、それは「エゴの退行」による。ところでフロイトによれば、エゴとは一連の発達段階によって定義されるものではなく、偶発的な同一化の総和である。自我とはいわば「小道具倉庫のガラクタの山から拝借してきた何枚もの上着の重ね着」。「心的因果性」論文の参照が促される。

 

 フロイトは年長の兄フィリップの存在のおかげで象徴的父との対峙を免れた。夢のなかの女性のトリオ(イルマ+妻+別の患者)と対をなす「道化のトリオ」の一角M博士は、そのような「想像的父」、「偽の父性のイメージ」である。神秘的な「三」(三人姉妹、三つの小箱……)の背後には「死」が潜む。神託のような三項図式からなるトリメチラミンの化学式が、くだんの「ダニエル書」の三語になぞらえられる。「その発せられ方、その謎めいた晦渋な特徴こそが、まさに夢の意味は何かという問いにたいする答えである」。「三」とは象徴的な第三項である。「至るところに見出されるこれらの三、まさにそこに、夢という形で、無意識つまりあらゆる主体の外にあるものが存在している」。無意識は夢を見ている人の「エゴ」ではない。この夢においてフロイトの自我は解体されてあらゆる要素に同一化し、「フロイト的群衆」もしくは「主体たちの干渉」(l’immixtion des sujets) がすがたをあらわす。ぎゃくにいえば、無意識とは「Nemoとしての主体」である。

 「象徴的なものという本質以外には夢の語はない」。「象徴は象徴という価値以外には何一つ価値をもっていない」。