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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

死の本能と生の奇跡:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(了)

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十四講(29/06/1955)

 

 

 講演の成功で自信をとりもどしたラカンが質問者たちに逆襲を試みる。

 

X:聖書には宇宙(「すべてを論理的に繋げるような固定され決定された法」)もしくはプラトン的な「ロゴス」の概念がないので「はじめに言葉ありき」の「言葉」はランガージュではない。

ラカン:ランガージュのもうひとつの意味(「不在と現前の連続」)を想起すべし。「はじめに」あったのは「0/1」という「原初的背反」である。

X:ランガージュがパロールを可能にするという定義は曖昧だ。

 

 

ヴァラブルガ:サイバネティクスは三角性[ゲシュタルト]を認識できない。つまり三角性は想像的次元に属するのか?

ラカン:三角性は機械の構造そのものである。0/1の意味は後続する第三項をまってはじめて生まれる。

ヴァラブルガ:あなたは三角性と三項性を混同している。

リゲ:三角形とはあるしゅの関係であり、自然には存在しないから象徴的次元にある……

 

 

ラカン:われわれは受肉した存在であり、つねになんらかの想像的なものを介して考える。想像的媒介によって象徴的媒体が阻害され、混乱させられる。

マノーニ:想像的な裏打ちがないとランガージュはもはや人間でない何かになってしまう。

ラカン:感傷はよしなさい。機械は人間ではない。ただし人間がそれほど「人間的」であるかどうかは疑わしい。象徴的次元が人間的経験とよばれているものに還元できないことに驚く必要はない。

 

 

 『快原則の彼岸』三章冒頭のコメント。

 症状とは意味作用であり、「形をとった(mise en forme)真理」である。それはシニフィアンシニフィエとして構造化されており、自然の印(indice)とは異なる。症状は「言説の裏面」である……。

 局所論的分割線は意識と無意識ではなく、パロールと自我の間に引かれるべきだ……。

 

 

 生物はその存続に不必要なものは受容しない。人間だけがその彼岸に向かう。「動物という機械」はそのことについて「何も知りたくない」。

 

 

 最後にL図がふたたびコメントされる。

 「分析家は接近がもっとも困難であるといういみで大他者の根源的性質を帯びる」。

 

 

 「分析的経験は意味作用の経験である」。分析が主体に明かすのはかれの「真理」「運命」の意味作用である。自我は目指すべき上位の審級ではない。フロイトはそのような「進歩」への傾向を退けている。「生のあらゆる形態はそれじたいじゅうぶんに驚くべきもの、奇跡的なものであり、より上位の形態への傾向など存在しない。この点において[どの点において??]われわれは象徴的次元に至る」。