lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

裂け目としての主体、あるいは倒錯者における欲望の構造:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その18)

 

 第XXIII講(03/06/1959)

 

 <存在>と<一者>について。「存在」とは象徴界のレベルに現れるかぎりでの現実界のことである。「純粋な存在」は間隙、切断に位置し、それゆえもっともシニフィアンならざるものである。切断が象徴界において「存在」を現前化させる。いかなる主体も「一者」ではない。<一>は一義的な観念ではない。1は数そのものの成立にたいして二次的に生じる。人間存在は数え、また、数えられる(se compter)。斜線を引かれた主体は pas un として現れる。欲望のレベルにおいて、主体はみずからを数え手として数え入れる。

 欲望の対象がもっとも成熟した欲望(性器的欲望)であるなら、分裂は問題にならない。実際には対象は愛の対象(そこにおいてひとは単一性としてのみずからを他者に捧げる)である一方で欲望の道具である。これは宗教における受苦的(肉体的)愛と愛徳(l’amour de charité)との区別に相当する。欲望についての唯一の理論は三位一体という宗教的ドグマにある。道徳的、社会的なレベルにおける万人の満足とは欲求の満足であろうか。マルクス主義における万人の自由とはみずからの欲望を自由にすることであろうか。欲望の満足はポスト革命的な問いである。欲望の問題は権力の最大の関心事である。問題は文化における居心地のわるさを和らげることだ。文化における居心地のわるさとは、すべからく欲望の居心地のわるさである。欲望を「実現する」とは?最後の審判がそれであろうか?それは善をなすことであろうか?

 「対象は主体がもはやみずからを名指すことができない地点をしるしざすという機能をもつ。そこにおいては羞恥(pudeur)が、症状において恥(honte)や嫌悪に換金されるものの王道の形態となる」。

 喜劇は「人間にたいして世界におけるみずからの状況のスペクトル的解体を可能にするかぎりでの舞台(scène)のメカニズム」を如実に示している。喜劇は羞恥の彼方へ赴く。たいして悲劇は主人公の名、主人公の同定で終わる。ハムレット(この名は父の名でもある)はみずからの欲望のなかで最終的に廃棄される。たいして喜劇は欲望の罠(attrape-désir)である。欲望の罠が機能するたびに喜劇が起きる。喜劇においては欲望が予期せぬところに現れる。滑稽な父親、偽善的な信心家、姦通の誘惑に引っかかる有徳者など。欲望がそれと名乗ることなく現れて、その仮面を剥がされる。欲望が侮辱され、罰されるが、喜劇の主人公は無傷のままである。喜劇において欲望は仮面を剥がされるが、反駁されることはない。欲望は幻想においてその「尻尾をつかまれる」(ピカソ)。主体はみずからが欲望するその場所にいないが、幻想のなかのどこかに隠れている。解釈がそれを明らかにする。

 治療における過渡的倒錯(perversion transitoire)の症例における「殺虫剤の噴霧器=破壊的ファルス」という喜劇的幻想。分析家はこの幻想を「現実」という観点からファリックマザーとして解釈した。とはいえ事は欠如している父親のイマージュに関わっていた。主体は欲望を固定させるために父のイマージュを召喚した。患者は切断をモンタージュすることで欠如した人物を創造した。

 Fort-da における糸巻きがウィニコット的な移行対象(objet transitoire)と規定される。これはみずからの消失においてみずからを把握する幻想である。ジョーンズが去勢複合を欲望の消失への恐れに帰すことで述べているのはそのことである。ジョーンズは了解の必要からそのように述べているが、ラカンは了解しようとしない点で現象学者ではない。欲望の消失への恐怖は、じぶんが欲望することを欲望していることを前提している。神経症者の欲望はこうしたものである。

 神経症者の欲望についてはあとまわしにされ、まず倒錯者の幻想がとりあげられる。露出症の幻想はdonner à voir (ポール・エリュアール)という「贈与」の一形態を示す。

 ここで動物の主体性についての脱線。動物(トゲウオ)の性的擬態における富の贈与においては、この贈与が「返答」を「予期」するというかたちで「時間的投射」が起こっている。動物も「約束」する。

 露出症者において見せることは<他者>の共犯的欲望と関係している。欲望の罠としての亀裂(rupture)が<他者>のうちに察知される。露出症者の快は公共の場所をひつようとする。露出症的な欲望の満足は<他者>との特権的なコミュニケーションをひつようとする。存在とレエルの顕現としての露出は象徴界の枠組みをひつようとする。それゆえに公共の場所がひつようとなる。露出症者は対象に接近することをおそれるとされているが、露出症者の欲望の満足は最高度の危険を条件とする。不意を打たれた<他者>が羞恥を乗り越えて共犯的に関与させられることがひつよう。露出症者は剥き出しにする以上に隠す。かれが見せる勃起は欲望の器械とは別ものである。この器械は見てとられたものを見てとられないもの(開閉するズボン)に関係づける。それは欲望における裂け目(fente)である。勃起は裂け目そのものを補填しない。対象によって埋めるべきものとして主体がみずからのうちに示す(se désigner)のはこの裂け目である。窃視欲動において本質的な要素である「裂け目」は通常見落とされている。窃視者にとって裂け目は不可欠であるが、見てとられるものと見てとられないものとの両項の関係は露出症者の場合とは異なる。窃視者の享楽は、見られている人が、窃視者(「不可視のスチュワード」)に身を捧げるそぶりをみせるとき最大化する。『天使の反抗』(アナトール・フランス)における、欲望と、捉えることができないがつねに想定されている潜在的な目との弁証法。見られる者が秘密をもっている身ぶりで捉えられるとき、窃視者の快は最大化する。露出症者においても窃視者においても主体は裂け目という策略(artifice)に還元される。この策略が主体の場所を占める。幻想において主体は裂け目である。女性器の裂け目は象徴的にもっとも耐えがたいものである。主体という裂け目と女性器という裂け目の関係は如何?

 「私はじぶんがみるのをみていた」(「若きパルク」)。このような完全な自閉、完全な自足はいかなる欲望においても実現しない。露出症者も窃視者も「私はじぶんを見ていた」の位置を占める。いっぽう<他者>はかれの「私はじぶんを見ていた」を見ていない。倒錯者の享楽は意識されない。倒錯者はいわば第三者によって斬首されている。窃視者のまえで<他者>は見られる態勢にあることを知らない。露出症者のまえで、<他者>はじぶんが目にしているものによって動揺している事実がなにをいみしているのかを知らない。この対象が<他者>に効果をおよぼすのは<他者>が実際に露出症者の欲望の対象であり、みずからはそれを知らないかぎりにおいてである。二重の無知を区別すべし。<他者>はじぶんを晒す、もしくはじぶんを見る者の心の中で知られている(réaliser)と想定されることを知らず(réaliser)、じぶんが欲望の顕示であることを知らない。逆に、露出症者あるいは窃視者は、みずからの欲望における切断の機能を知らない。かれは切断が目につかない(clandestin)自動運動においてかれを廃棄することを知らない。行為においてそのものとして言われていることは、現前しているが宙吊りにされていて、知られることがない状態において絶頂にある。切断が示すのはそのことである。いっぽうで主体のほうは、かれを殴打にさらす恥ずべき動物のこの斜に構えた作業しか知らない(?)。ブラインド、望遠鏡、スクリーンといったいかなるかたちのもとにあらわれようと、裂け目は倒錯的主体を<他者>の欲望に参入させる。この裂け目は解明すべき、より深いある神秘の象徴的裂け目である。倒錯者を無意識のどこに位置づけるべきか。倒錯者が狙いをつけるのは、みずからの欲望の構造を再生産する<他者>の欲望である。<他者>の欲望をめがけ、そこにひとつの対象を見ると信じるのだ。

 

ハムレットのアナモルフォーズ:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その17)

 

 第XXII講(27/05/1959)

 

 グラフにおいて幻想は上段と下段の交点に位置づけられる。下段の線(個々の主体を越えて連綿と続く「具体的な言説」)は意識にたいして完全に透明であるが、こうした透明性はそもそも幻影である。意識とは直接与件ではなく、なによりも同類のイマージュとして与えられる。一方、上段は意識に達しない連鎖である。

 シニフィアン連鎖にかんして論理的時間における「選択」が「欲動の[周期的]構造」にしたがうものであることが確認される。無意識は際限なき反復として提示される。

 幻想において対象aは切断の関係の想像的支えとして主体を支える。

 「具体的言説」は現実(réalité)の領野を包括する。話す人間が「具体的言説」にビルトインされていることがマルクス的疎外に送付される。

 現実界は不透明な連続性ではなく、切断からなる。言語による切断とどうように。プラトンは哲学者を腕のよい料理人になぞらえた。関節の切れ目に沿って包丁を入れる術を心得た料理人である。問題になっているのは現実界の切断と言語による切断の関係である。ある切断のシステムをもうひとつの切断のシステムに重ね合わせることだ。科学はここから一歩を踏み出す。科学の冒険(量子力学)は物質概念を解体することで純然たる「認識」という観念を問いに付す。いっこの「大いなる全体」としての現実界じたいに切断はなく、[認識が]そこに切れ目を入れることで新たなものが創り出されるのだ。主体のレエルな「存在」は切れ目であり、象徴化されない。幻想がそれを「指し示す」(désigner)機能を果たす。そのかぎりで欲望は存在の換喩である。「人間」なるものがすでに象徴化され、その歴史をとおして同一のものと再認されるものであるかぎりで、幻想において指し示される(s’indiquer)主体は「人間」と同一視されず、「ヒューマニズム」とは関係がない。「存在」の「尊厳」は、あらゆるバックグラウンド(とりわけ去勢的なそれ)から「切り離されている」ことにあるのでもなければ、罪責性を負っている(coupable)ことにあるのでもなく、「切断」そのものに由来する。

 切断は象徴界そのものの究極的な構造的性質である。死の本能はそこに帰される。

 クルト・アイスラーの論文「芸術作品における細部の機能」がコメントされる。フェルディナント・ライムントの作品における、「スープ皿の中の髪の毛」のようなしっくりこない(relevant)細部がある。劇中で不意に五年の年月が流れるが、これはライムントが執筆の五年前に親にたいするごとき性的同一化を果たしていた人物を亡くしていたことの反映であるということらしい。アイスラーは、このような細部が症状とおなじ機能を果たしているとする。症状が患者にとって「しっくりこない」要素として現れ、分析家は解釈によってそれを解消させるのにたいし、目下のケースでは、不調和な細部が問題の所在を明かす。芸術作品においてはタッチのミス(不連続)だけが分析家にとって意味ふかいものとなる。芸術作品は切断を導入し、そこに無意識の主体のレエルが現れる。この切断への主体の関係を主体は知ることができないが、幻想というかたちのもとに経験する。幻想の経験は作品に織り上げられている。『ハムレット』にもさまざまな「しっくりこない細部」がある。『ハムレット』におけるしっくりこない細部群の「織物」もしくは「建築」は、切断そのものにたいする語る主体の関係を表している。それゆえ『ハムレット』の悲劇は真理にたいする主体の関係を示している。それ以前のハムレット神話とは異なり、シェイクスピアにあって父の殺害を知っているのは亡霊である父と息子だけである。亡霊が告げるのは妻の絶対的裏切りという事実である。亡霊の言葉は真理がないこと、非-真理を保証している。一般に死者は嘘をつかないとされている。ラカンはここにある「不連続」を読みとる。父による暴露はハムレットの耳に「毒」のように注ぎ込まれる。ハムレットは芸術作品(芝居)によってこのダメージから回復する。クローディアスは毒殺場面を見ても平然としている。ということは幽霊は嘘をついたのであろうか?

 

 

対象(a)入門:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その16)

 

 第XXI講(20/05/1959)

 

 前講で提示されたシェマは、division (割り算)の商(quotient)と余りによって要求における主体の分裂(Spaltung)を表している。欲求(besoin)を十全に満足させると想定される全能者としての現実的主体(Sr=母)は、言語を通した要求(demande)の主体となることによって分裂し、斜線を引かれる(商)。この無を示す「余り」を自前で支払うのは主体じしんである。

 対象aは欲望の対象であるかもしれないが、欲望に適合しないという条件のもとにそうなのである。対象は幻想という「複合」において作用する。『続・精神分析入門』の Wo Es war, soll Ich werden.が召喚され、そこにおけるIchが das Ich (自我)ではなく、シフターとしての「私」であることが確認される。分析という「干拓事業」の終了において、この「私」が到来する。対象は欲望を方向づける指標(index)である。無意識がはじまるところに主体は消失する。これは意識の「剥奪」をいみしない。じぶんが誰でどこにいるのかを知らない意識とは別の領域に参入するのだ。この停泊地点はどうじに指標(index)でもある。目の前の対象が魅惑する。対象の機能は主体をその消失(syncope)の前に、実存のまったき抹消の前に引き止める(retenir)ことである。これが幻想の構造をなす。

 みずからが誰であるかという神経症的な問いに際し、主体はロゴスの威力(virulence)に攫われて「疎外」を被る。人間とは世界におけるロゴスの活動をみずからのレエルによって支えるべく存在する。現代における認識[論]の危機の指摘とともにレエルが定義される。アリストテレスにおいて、知るとは知られる存在への同一化をいみしている。「フロイト的心理学」において、主体のレエルの相関項は認識ではなく欲望である。主体のレエルは認識の主体として位置づけられない。主体におけるなにものかが認識の彼方に分節されるのだ。言説としての主体を支えるこのなにものかをラカンは「存在」と呼ぶ。レエルとは、サンボリックにおいて記載されるかぎりでの存在と定義される。存在は切れ目の間隙にしか存在しない。対象aは主体がその問いかけの果てに出会われる切れ目として、間隙のようなものである。主体は斜線を引かれた主体としてみずからを問うとき、幻想における対象aというひと連なりの諸項によって支えられる。

 

 対象aが三つのカテゴリーに分類される(その機能は同一である)。

 (1)前性器的対象(2)ファルス(3)妄想

 

 (3)にかんして、「かれらはじぶんじしんのようにじぶんの妄想を愛する」というフロイトの一節が想起させられる。妄想とは無意識的連鎖のレベルでのシニフィアンの不在、穴を支えるために主体がみずからの実質(substance)から引き出す諸シニフィアンのことである。

 

 (1)は離乳(切れ目)の対象である。みずからより排出し、みずからより切断する対象である。口唇的レベルでは乳首であり、肛門的レベルでは糞便に相当する。これらは「切れ目の構造」をもつ。

 呼吸は切断の要素をもたない。呼吸はリズムであり、拍動であり、生の交替である。それゆえ想像的な平面で間隙・切断を象徴化する機能はもたない。とはいえ発声は切断であり、スカンションである。妄想における声は対象である。ここで「屁」にたいする一瞥。

 

 (2)去勢複合において対象はもぎとり(mutilation)というかたちをとる。主体はみずからの一部を切り離すことで切断に関わる。民族学上の通過犠牲におけるもぎとりやしるしづけ(stigmatisation)が想起される。そうしたしるし(marque)は異次元に移行したことのシニフィアンである。去勢複合においてはしるしをつけられ、シニフィアンとなるのはファルスである。とはいえ、割礼におけるしるしづけを去勢複合におけるファルスの否定化(négativation)としての摘出(extripation)と混同するべきではない。主体における性質(nature)の変化(主体の自然的欲望の意味の変化)という点で通過儀礼は対象と関わる。もぎとりはサンボリックの彼方(=「存在」)で実現されるものの指標(index)となるかぎりで欲望の方向付けに寄与する。「もぎとりは主体における存在の実現の指標である」。

 ここでファルス的突起をめぐりメーヌ・ドゥ・ビランの「努力」概念と神経症者の「疲労」症状が引き合いに出される。それらは切断のしるしをもたず、シニフィアン化する(signifiantiser)努力の痕跡である……(?)。

 

 (3)妄想における声。声の機能は言説に主体の威厳(poids)、レエルな重みを介入させる。たとえば太い声は<他者>そのもののレエルな具現となることで超自我の形成に寄与する。妄想者の声は電話におけるような切り離された声である(コクトーは『人間の声』でそれを示そうとした)。とはいえ、電話における声に典型的な事務的にして歓迎的ならざる「反主人(contremaître)」の虚ろな声ではなく、妄想において純粋に分節化された声である。伝達される内容は聞き逃され、声の一貫性と実在そのものが確実なものとして立ち現れる。それは声の純粋な現れであり、妄想者に有無を言わせず差し向けられる(s’imposer)。シュレーバーにおける「切断」の性格をもつ声(中断されたフレーズ)が想起させられる。主体は声に関心を呼び起こされ(intéresser)、それが強いる意味作用のうちに呑み込まれて消失する。声の「切断」が対象として主体を魅了し、そこに固定され、みずからの無意識の存在を支える。

 

 現在のわれわれが読むといつも以上に明晰な語り口であるとおもわれるが、列席者がよほど首をひねっていたと見え、ラカンは「いままででもっとも難解な講義のひとつになってしまった」と弁解に努めている(未曾有の概念が定義される瞬間というのは得てしてこうしたものであろう)。初出席者らに配慮し、問題になっている対象が現実世界ではなく幻想の領域で(「存在」のレベルで)作用することが最後に確認される。

 

 

無を“死蔵”する対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その15)

 

 第XX講(13/05/1959)

 

 「フロイト的事象」の特異性。フロイト的「もの」とは欲望である。これまでの分析理論において欲望は軽視されてきた。分析において、欲望は障害(trouble)として現れる。欲望は対象の知覚を乱す(troubler)。欲望は対象を貶め、その秩序を乱し、貧困化し、揺るがし、その主体を溶解させる。欲望は盲目的であり、当初、現実の構築とは逆行する。欲望の誤りや逸脱は「善」の追求におけるアクシデントとみなされてきた。フロイトにいたって人間の理論の原則は快楽主義的原則に矛盾することが明らかになる。欲望と世界の領野は予定調和的ではない。

 欲望の解釈とは際限のない送付であり(=欲望の“対象”は永久に特定不可能)、そのかぎりで共時態のメカニズムに則る。主体とシニフィアンとは共時的な関係にある。分析の実践は、[現実的な]世界の経験に主体を存在論的に適応させることにはない。

 グローヴァーの「クライン期」の論文「倒錯の形成が現実の意味の発達にたいしてもつ関係」が参照される。そこでは現実が客観性の観念に送り返され、対象は本能の充足に帰される。グローヴァーによれば、倒錯的関係とは一貫した現実の破れ目を繕うものである。倒錯的機能の偏在性という見解は独創的として評価される。<精神病→薬物依存症→神経症……>という編年的な序列を想定した欲望の「成熟」図式には疑義が呈される。客観性によって定義されるハートマン的な既存の「現実」が「アメリカの弁護士」なる比喩で形容される。

 哲学において欲望(知ることへの欲望)は認識の犠牲にされてきた。対象は「無私」を旨とする客観性によって規定される認識の対象に帰されてきた。

 「根本的幻想」(S barré ◇ a )は、欲望の支えにとって最小限の構造であり、そこにおいて aによる主体の引き受け(assomption)が起こる。対象aは主体が―「確実性」のうちに―消失する(défaillir)かぎりにおける支えとなる。<他者>には主体が同一化できるシニフィアンが欠けているので、みずからを指し示すために対象aを使用する(employer)。対象a は「現実的主体」の自腹で(à ses dépens)、[つまり血と肉によって]支払われる。対象aにおいては、想像的な関係において把捉されたレエルななにものかがシニフィアンの機能に送付される。

 フロイトによれば、欲望が明確に現れると去勢がある。主体のシニフィアンへの共示的な関係において、主体はそのものとして指し示されず、名指されない。主体はこの欠如をみずからのにんげん(personne)によって支払って埋めなければならない。aは象徴ではなく主体のレエルな一要素であり、欲望の審級において主体がみずからを指し示すために消失する(共示的な)瞬間の支えとなるべく介入する。aは去勢の効果であり、去勢の対象ではない。去勢の対象はファルスである。分析においては人工的なファロス顕現が起きる。

 ここで1920年代のフェリックス・ベーム以来の同性愛者の分析の歴史が振り返られる。同性愛者を本能の固着や逸脱に帰すことはできない。ベームもエラ・シャープも膣の外部化としてのファルス的突起の幻想を観察している。この幻想はファルスの機能を根源的に示す。つまり主体の想像的な内部にあるものを外部に示すことがそれである。それは身体の内部からほとんど切り離された、ただしいまだ切り離されていないものの象徴であり、自己イメージの統一性を脅かすものである。

 主体が欲望であるかぎり主体は去勢的関係に瀕している。対象への関係は去勢に瀕している主体のポジションの身代金である。

 以下のシェマが提示される。

 

A(<他者>)                   D(要求) 

Sr                    D barré

A barré              S

a                      S barré

 

 これは共示的関係を示しており、左右の項は◇、つまりdivision(分割=除法)という関係によって繋がっている。この弁証法(A÷D)の「余り」がaであり、それは欠如を象徴する。

  一行目の Srとは要求が差し向けられる現実的な主体(Sujet réel)即ち母親としての<他者>である。分析の過程でこれがやがて二行目の「斜線を引かれた<他者>」つまり言説の主体にとって代わられ、最終的に三行目の aを手にするという過程が図式化されている。

 ヴェーユが述べた『守銭奴』の宝石箱(金庫)がふたたび引き合いに出される。宝石箱は「無」の容れ物である。守銭奴は宝石箱のなかに「死蔵された」(mortifié)対象を慈しむのだ。つまり、「無」を慈しむことができないので、守銭奴はそれを隠していると想定される宝石箱を慈しむということであろう。これはレアティーズのfoilたろうとしたハムレットから翌々年のセミネール『転移』における「アガルマ」へと繋がるモチーフである。「箱のなかにあるものは生の循環の外にあり、そこから差し引かれ、無の影として保存され、そのかぎりで守銭奴の対象となる」。対象aという「無」の彼方に主体は最初に失われた生の影を探し求める。ファルスの喪とは、[宝石箱のなかに]隠された対象としてのファルスを慈しむことである。

 

なぜヒトラーを殺せなかったか?:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その14)

 

 第XIX講(29/04/1959)

 

 『ハムレット』読解の最終回。

 

 『ハムレット』がその全篇にわたり語っているのは喪という主題である。「経済、経済!」と現代社会。使用価値と交換価値の分離による物質世界(le monde de l’objet)の搾取を説くマルクス主義的分析は、「儀式的価値」を無視している。喪とは「巨大な象徴的裂開(béance symbolique majeure)」「象徴的欠如」(「夢の臍」はその心理学的対応物)に呼応する。『ハムレット』においてはあらゆる喪の儀式が省略され、非合法化されている(父のそれのみならず、ポローニアス、オフィーリアのそれ)。

 欲望と対象との「出会い」(rendez-vous)はたんなる appointment ではない。ハムレットにおいてもエディプスにおいても喪の根底は犯罪。後続する幾多の喪はあるいみで原初的な喪の帰結でありその継続である。分析家にとって『ハムレット』は起源についての省察であり、エディプスの犯罪は主体と<他者>(=法が記載される場)との関係の本質に関わる。フロイトは『トーテムとタブー』でそれを神話として表象した。

 エディプスとハムレットの非対称性。エディプスにおいて、犯罪は主人公の世代において起こる。たいしてハムレットにおいては先行世代において起きている。エディプスにおいて主人公は罪を知らず、運命に導かれる。たいしてハムレットにおいて罪は意志的に行われる。ハムレットにおいて罪は犠牲者を不意打ちする。エディプスはわれわれが夢において反復するように劇を生きるが、ハムレットにおいて父はみずからの思惑とは相容れない仕方で不意打ちされる(「罪の花咲くなかで」)。そこには謎がある。主体にとっておよそ異質な犯罪の侵入は、主体が知っているという事実によって補われている。ハムレットは父から知らされる。『ハムレット』は『エディプス王』とはぎゃくに、「何が起こっているのか?」「罪はどこか?」「犯人はどこか?」から出発しない。主体の耳に入れられた罪の告発(暴露)から出発する。この暴露は、無意識のメッセージS(A barré)のシニフィアンという形式の下になされる。エディプスの正常な形式においては、このシニフィアンは父の人物像において受肉される。法の作者(真理の真理)であるかぎりでの父による<他者>の場の認定(sanction)が期待されている。しかし、父は罪を被る者であり、誰にもましてそれを保障できない。かれじしんも現実的な父であるかぎりで斜線を引かれており、それゆえ去勢された父であるから。

 『ハムレット』のオープニングでは事情が異なる。父のメッセージにおいて、<他者>は斜線を引かれたものとしてすがたをあらわす。父は贖えない負債を背負っている。エディプスはみずから罪を贖うことによって悲劇の主人公となる。フロイトは現代人が歪められたかたちでしかエディプス的状況を生きられないという「世紀末的」な見解を提示している。「この世の関節がはずれてしまった。ああ、いやなことだ(The time is out of joint. O cursed spite.)」。spite は悔しさ(dépit)と訳されるべきである。エリザベス朝において悔しさは客観と主観のはざまにある。ハムレットにおけるエディプスの頽落的(décadent)形態(不完全な Untergang)。これはフロイトが論文「エディプス複合の没落(Untergang)」において個人の生にみたものと区別しにくい。

 フロイトによれば、エディプスの謎はかれが父を殺し、母と交わったことそのものではなく、それらが無意識になされたことだ。「エディプス複合の没落」によれば、エディプス的な三角関係において、子は父に同一化しても母に同一化しても去勢を被る(女性はもともと去勢されているから)。ファルスという「もの」にたいする子の選択肢は閉じられており、子は要求の主体から欲望の主体へとシフトすることを強いられる。ファルスが「もの」であるのは、それが現実的ななにかであり、いまだ象徴化されず、潜在的に象徴化されているなにか(シニフィアン)であるかぎりにおいて。かくしてファルスはエディプスの「没落」の鍵である。主体は「ファルスの喪」に付さねばなければならない。エディプスの「没落」は喪をめぐって起こる。

 セミネール『対象関係』における去勢、欲求不満、剥奪の図式が召喚される。

 ヘーゲルにおける否定性および実存主義における無が去勢(ーφ)に帰される。フロイトによればこれはロゴスへの関係が人間に穿つ刻印である。

 「欲望の対象aはみずからがそれでないものにたいする主体の関係を支える対象である」。

 父の理想化はハムレットから「声を奪い」、単にどこにでもいる「男」としか形容できなくする。たいしてクローディアスへの侮蔑はどうみても「否定」(dénégation)である。ハムレットの悲劇においては、エディプスのそれとは異なり、父の殺害後もファルスが依然として現前している。クローディアスがそれを具現している(「現実的ファルス」)。ファルスがエディプス的なポジションからの転位を被っている(ectopique)。現実的ファルスはクローディアスが奪い取った父の機能そのものではない。目の前にあるものは討つべきものの「影」にすぎない。ハムレットが行為に至れないのはそのためである。ヒトラーもまたこのような「潜在性のシニフィアンそのものの[現実界における]謎めいた顕現」であり、その暗殺が不可能であったのも同じ理由からであるとラカンは『群集心理学と自我の分析』を引き合いに出しつつほのめかす。

 「屍体は王とともにあるが、王は屍体とともにはない」。「屍体」の原語が body であり、corpse でないことにラカンは注意を促し、さらに「王」を「ファルス」と置き換えてみよと述べて自説の根拠とする。それにつづく台詞には「王という代物(thing)は……取るに足らぬ物(of nothing)」とある。ファルスの顕現(phallophanie)が起こるのはその喪の瞬間においてだけである。

 

 

 

 

喪と現実界における穴:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その13)

 

 第XVIII講(22/04/1959)

 

 ハムレットにとって出会いはいつも早すぎ、かれは出会いを遅らせる。それにたいし、行動するとき、ハムレットはいつも性急である(ポローニアス殺し)。ここには神経症の生の現象学がみられる。ハムレットはつねに<他者>の時にいる。この時は幻影にすぎない。<他者>の<他者>は存在しない(シニフィアンシニフィアンによる真理の保障をもたない)から。ハムレットにとってのみずからの時はみずからの喪失の時である。悲劇はこの「時」へのハムレットの不可避的な道程に宿っている。

 対象aは欲望「における dans」対象(≠ objet du désir)。「幻想の一般構造」が、「主体がみずからの疎外のシニフィアンそのものの価値をもつにいたったなにか(=ファルス)を剥奪されているかぎりで、主体がみずからをシニフィアンに繋ぎ止めるものの価値をもつにいたったことによって主体の生そのものに強く結びついているなにものかを剥奪されているかぎりで、特定の対象が欲望の対象(objet de désir)になる」と定義される。欲望の対象はいかなる欲求の対象でもない。欲望における対象の時間的存続は、主体に隠されたままのもの、すなわち主体がシニフィアンとの関係に入るために犠牲にした肉体の断片の地位(place)を占めにやってくる。なにものかがそれ(ça)の地位を占めにやってくるがゆえに、そのなにものかが欲望における対象となる。ここでは隠されたもの(caché)、隠匿されたもの(occulté)への謎めいた関係が問題になっている。「生とはゼロが非合理(irrationnel)な数(無理数)である計算として定義されうる」。対象と隠れた要素(主体の生きた支えであり、シニフィアンとして主体化されることはない)との関係が虚数(√-1)になぞらえられる。虚数はいかなる現実へも送付されない。対象についても同じ。対象は、隠されたものとしての斜線を引かれた主体にたいするあり得る諸関係を経巡ることをその本質的な機能とする。『ハムレット』はこの機能を雄弁に示している。

 幕切れの行為における「出会い(rendez-vous)の時」。この行為をハムレットは為すと同時に被る。貴重な「収集品」一式を道具立てとする「決闘」という「虚構的」な枠組みをもつこの行為は幻想的構造にしたがう。そこではレアチーズとハムレットが鏡像的関係に置かれる(ハムレットによるレアティーズの「パロディー」)。ハムレットの欲望は決闘という「罠」(piège)「幻影」(mirage)「見せかけ」(parade)のレベルにおいてではなく、その彼方において成就される。その彼方にはファルスがある。分身レアティーズ(l’autre)との邂逅をつうじてハムレットは運命的なシニフィアン(ファルス)に同一化する。「I will be your foil(フォイル=引き立て役=宝石箱)」なるハムレットの台詞に着目すべし。かれはレアティーズの「夜空の星のような光輝」を際立たせることで致命的なファルスに同一化する。地口(ダブル・ミーニング、曖昧さ)はハムレットのキャラクターと不可分である。「シニフィアンの遊戯(作用)はハムレットのテクスチャーそのものに属している」。ハムレット=道化説。道化はその本分であるシニフィアンの置き換えによって人のもっとも隠された動機を暴く。ハムレット=狂人=道化=言葉の作り手。本作の劇的緊張は「曖昧さ」によって支えられている。

 ハムレットが狂人を演じるのも「機知」jeu d’esprit なのだ。それはシニフィアンのレベルで、意味の次元においてなされる(そこに作品の esprit がある)。ハムレットの周囲のみならず観客も惑わされる。そこが作品の妙でもある。ハムレットにとってレアチーズはじぶんじしんよりもすばらしい分身であり、これは欲望の対象との対峙の帰結である(そのきっかけではなく)。この対象にファルスの現前が内在的である。ファルスは主体自身の消滅とともにはじめてその絶対的な(formel)機能を果たす。

 墓地の場面でレアチーズはオフィーリアへの喪をひけらかす。ハムレットはこの「見せかけ」(parade)の喪に嫉妬する。ここにレアチーズとハムレットの分身的関係のさいしょのあらわれが確認される。欲望における対象の構築(すなわち幻想)と喪との関係はいかなるものか?

 ハムレットがオフィーリアにたいして残酷で軽蔑的(dévalorisant)な態度を見せることで、オフィーリアはハムレットの欲望の排斥(rejet)の象徴そのものとなっていた。その対象がここでとつぜんふたたび価値を帯びる(「おれはオフィーリアを愛していた」)。オフィーリアが不可能な対象となったとき、かのじょはふたたび欲望の対象となるのだ。不可能性は、強迫症者の欲望にかぎったことではなく、欲望の対象一般を規定している。これは欲望の構造そのものに根ざしている。

不可能であることは人間的欲望の一面でしかない。強迫症者を特徴づけるのは、この不可能性との出会いの強調だ。欲望の対象が不可能というシニフィアンを帯びるよう計らうのだ。

 フロイト以来、喪は対象との関係(対象への同一化、その体内化)において規定されている。喪における同一化が想像界象徴界現実界のいずれのレベルにおいてなされるかはこれまで定義されてこなかった。

 喪は人間にとって「現実界における穴」をひきおこす。これは象徴界において除去されたものが現実界に回帰する「排除」(Verwerfung)の文字どおり逆である。人間に耐えがたいのはみずからの死ではなく(だれもそれを経験できない)、重要な存在である他人の死だ。このような喪失があるしゅの「排除」(Verwerfung)、「穴」を構成するが、それは現実界においてである。「排除」のばあいどうよう、この穴は欠如したシニフィアンが投影される場(place)を提供する。それは<他者>の構造にとって本質的なシニフィアンである。その不在によって<他者>があなたに返答を与えられなくなるようなシニフィアンだ。このシニフィアンをひとはみずからの肉と血で支払わなければならない。本質的にそれは隠されたファルスである。このシニフィアンがここで場を見出す。と同時に見出すことができない。なぜなら<他者>のレベルでは表象され得ないシニフィアンだから。それゆえ、精神病におけるとどうよう、その代わりに(その場所に à la place)有象無象のイメージの群れが繁殖する(pulluler)。喪が精神病に近いのはそれゆえである。消失したものに儀式が施されないと特異な「現象=亡霊」(apparations) が現れる。葬儀は象徴的な作用(象徴的なものの戯れ)を総動員する(地獄から天国まで)。葬儀はマクロコスモス的な性質をもつ。シニフィアンを総動員する以外には、シニフィアンによって現実界の穴を塞ぐことのできるものは存在しない。喪の作業はロゴス(≠集団、共同体)のレベルでなされる。喪の作業はそもそも、実存に開けられた穴を塞ぐにはいかなるシニフィアン的要素でも不十分であるという無秩序への対処である。どんな喪にたいしてもシニフィアンのシステム全体が動員される。

 民間伝承が示すように、死者に負うところの満足が妨げられると、シニフィアン的儀式の不在によって空いた場所に亡霊が現れる。

 『ハムレット』は地下世界の悲劇である。亡霊は贖うことのできない侮辱によって現れる。オフィーリアはこの原初的な侮辱に捧げられた一犠牲にすぎない。ポローニアス殺害場面におけるハムレットジョーク(Hide fox, and all after.)はまっとうされない喪へのひやかしである。幻想と対象関係の逆説的な関係を喪が解明する。『ハムレット』への長い脱線が、卵を割らずにハムレット(omelette)は作れない(「ハムレット的レシピ」)と弁明される。

 

 

ファルスとしてのオフィーリア:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その12)

 

 第XIV講(11/03/1959)

 

 『ハムレット』が「欲望の悲劇」と規定される。初演された1601年の二年後に女王エリザベスが逝去している。時代の転換点に書かれたという事実は重要。

 分析プロパーではジョーンズがハムレットと女性的対象の関係を問うている。エラ・シャープはシェイクスピアの作品を攻撃性が外部に向かう躁的な作品と内向する鬱的な作品とに分けている。

 ハムレットが行為に至れない理由は、(1)ハムレットの心理に帰されるか(ゲーテ、コールリッジ)(2)外的条件に帰されるか、(3)行為そのものの困難に帰されてきた(ジョーンズ)。ラカンの解答は第XIX講で明らかにされるだろう。

 ハムレットの解釈は心理学的なそれから神話学的なそれへと移行してきた。

 以下のラカンによる解釈のポイントのいくつかが列挙される。父の幽霊が殺害者よりも「母の欲望」を告発すること。ハムレットの疑似狂気。上演場面(play scene)と「真理の偽装された次元」、「虚構の構造」。自殺の不可能性。上演場面のあとでの母との「演劇史上もっとも異常な場面」。「デンマークハムレットだ!」という台詞において抹消された主体が対象(オフィーリア)に同一化し、主人公がはじめて欲望を再発見すること。

 

 

 第XV講(18/03/1959)

 

 ハムレットに感情移入することの不可能性に関して、ジョーンズはハムレットの「非実在性」を指摘している。ハムレットが「幻影」であるとしても、これは空虚であることとは別である。ジョーンズの指摘によれば、作品が呼び起こす感動の源泉となる感情が意識されない。ハムレットの人物の非一貫性は、ハムレットが言説の一様態であることを示す。ジョーンズはハムレットの父殺しへの欲望の抑圧を確信犯的に社会的な抑圧(検閲)に帰している。

 ハムレットの行為の障害となるのはかれの欲望であり、この欲望の「不純な」性格ゆえである。ハムレットが行為を遂行し得ないのは、この行為がカント的な意味で「無私」のものではないからだ。

 ハムレットはヒステリー者にして強迫症者でもある。「欲望の座」を再発見することが問題であるかぎりで、あるいは「満足されない欲望」を創り出すことが問題であるかぎりでヒステリー的だが、「不可能な欲望」に支えを見出すという点においては強迫症的である。

 

 

 第XVI講(08/04/1959)

 

 ハムレットの真理は希望(贖い)なき真理である(実存哲学とは無関係)。<他者>は存在ではなくパロールの場であり、そこには一つのシニフィアンが欠けている。「精神分析の大いなる秘密は<他者>の<他者>がないことである」。「私は『私は存在する』と考える者とは別の者である」。「形象なき真理」、「閉じられた真理」、「全方位に折り畳み可能な真理」、すなわち「真理なき真理」。ファルスとは象徴的に供犠に付されたあなたのなかの一部分。オフィーリアは語源的にファルスに関係がある(ophallos 「膨らませる」)。

 

 

 第XVII講(15/04/1959)

 

 オフィーリアという「餌」(appaît)もしくは「罠」(piège)。オフィーリアを対象aとして造型したのはシェイクスピアのオリジナルである。「a は欲望の弁証法がそれをめぐる本質的対象である」。対象関係論は対象の弁証法を要求の弁証法と取り違えている。「守銭奴」にとっての金庫(ヴェーユ)が想起され、対象のフェティッシュ的性質が指摘される。マルクスシニフィアン(≠意味作用)によって商品のフェティッシュ化をとらえている。諸価値の関係はシニフィアンの関係としてあたえられ、主体性はシニフィアン弁証法のうちに記入される。倒錯においては、幻想(S barré ◇ a)におけるアクセントが想像的相関物の側(右側の項)に置かれる。倒錯的欲望は無私ではなく(intéressé)、[カント的ないみでの]「病理的なもの」と結びついている。「生存の苦痛」それじたいと結びついている。まったく純粋に生存することの苦痛。あるいは性的な項として生存することの苦痛。

 倒錯は神経症とどうよう分節されたものであり、分析可能である。とはいえ倒錯においては、存在にたいする主体の本質的な関係が想像的な諸要素に固着している。たいして神経症においては、強調は幻想における左側の項(=斜線を引かれた主体)に置かれている。

 神経症における幻想と倒錯における幻想の区別。倒錯における幻想は空間のうちにあり、「時間」への本質的関係を宙吊りにする。時間をもたない(atemporel)なのではなく時間の外にある(hors du temps 時宜を得ない)。神経症においては、時間にたいする主体の関係が幻想における対象への主体の諸関係の基礎にある。

 神経症においては、対象は「真理の時」の意味作用を担う。対象はそこにおいてつねに時間の前か後にある。強迫症者の一日延ばしは、予見するのがつねに遅すぎるという事実に基づいている。ヒステリー者はつねに外傷における時期尚早性、根本的な未熟性を反復する。

 対象において、主体はつねにその「時」を読もうとする。これが神経症的行動のもっとも一般的な基盤である。

 ハムレットがあらゆる神経症的態度(性格神経症を含めて)を示しているのは構造的必然である。<他者>の欲望への依存がその第一の理由だ。「ハムレットはつねに他人の時にぶらさがっている」。ハムレットは他人たちの時間において罪を宙吊りにしている。かれがイギリスへ発つのは義父の時においてであり、ローゼングランツとギルデンステルンを死に至らしめるのはかれらの時においてであり、物語が終わるのはオフィーリアの時(自殺)においてだ。ハムレットをレアティーズとの試合に引き入れるのは剣などの貴重な objet どもである(「収集家」としてのハムレット)。古代悲劇において狂人はいない。ハムレットが狂気を装うのは、じぶんがよわいと知っているから。サクソ・グラマティクス版、ベルフォレスト版でも狂気のふりをするが、シェイクスピア版においては行為に至るために狂気のふりが不可欠である。狂気のふりをすることは「現代的主人公の政治」の一次元である。

 ハムレットの「狂気」の原因は父ポローニアスの精神分析的叡智が見抜いたようにオフィーリアへの「恋」である。それまで至高の崇拝の対象であったものにたいして距離が置かれる。これが対象にたいするハムレットの関係の第一段階である。幻想におけるバランスの揺らぎが離人症的経験をもたらす。主体と対象との想像的な境界が変容を被る。ハムレットにとってオフィーリアは愛の対象としては失墜する(「一度はあなたを愛した」)。オフィーリアへの残酷な仕打ちは、幻想におけるアクセントが対象へと移行したことを示す(倒錯)。対象はすでに女性とみなされず、呪われた生の支えとなる。ここにおいて対象の破壊あるいは喪失が起こり、対象は自己愛的な枠組みに再統合される。主体にとって、対象は外部に(au-dehors)現れている。この対象は主体がみずからの存在のうちから犠牲に捧げた部分であるファルスである。オフィーリアは[呪われた]生のシニフィアン的象徴(尼寺=娼館)、主体が外部化し排出したファルスである。これが対象への関係の第二段階をなす。墓地の場面が対象への関係の第3段階。a の再統合が、運命と決着をつける可能性と結びつく。そこにおいて対象の機能は極まる。対象はそこにおいて喪と死を引き換えにしてしか獲得されない。