lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

現代文明の居心地わるさ:「精神分析における攻撃性」

*「精神分析における攻撃性」(L'agressivité en psychanalyse, 1948)

 

 

 『エクリ』所収のこの論文の狙いは、攻撃性という考え方を科学的な使用に耐える概念として確立することである。つまり、諸事実を客観化し、変数として扱うことで比較可能になるような次元を確立することである。

 

 われわれはひとつの技法、一連の概念からなる体系に基づいたひとつの経験を共有している。その経験にたいしてわれわれが忠実である理由は、この経験へと至るあらゆる道をわれわれのために切り開いてきた体系[フロイト的概念]によって練り上げられたからであると同時に、この練り上げの諸過程のなまなましい刻印がそこに刻み込まれているからでもある。つまり、われわれに向けられる独我論という批判とは反対に、この体系はいまだ完成途上にあり、各概念の関係づけも十分になされていないということがわれわれにはわかっている。

 こうした隙間[hiatus]は、フロイトが死の本能というかたちでおしだした謎めいた意味作用において接合されるようにおもわれる。

 死の本能とは、フロイトが生物学の用語で人間の経験を概念化するというかつてなく深遠な試みのなかでつきあたったアポリアである。というわけで、攻撃性という観念は、まずもって死の欲動へと送り返される……。

 

 

 ラカンは攻撃性についての5つのテーゼを提出している。

 

 

(テーゼ1)攻撃性は主観的な経験である。

 

 「精神分析的行為は、言語的コミュニケーション、つまり意味の弁証法的把握において、またそれによって展開する。それゆえ、精神分析的行為は他者にむけてそのようなものとして現れるひとつの主体を前提する」。このようないみでの主観性[主体]は、物理学的ないみでの客観化からは脱落する(caduque)。ことばは何かをいみする以前にだれかにたいしていみしている、というれいのテーゼ。「ある意味を理解することができるのはひとりの主体だけである。ぎゃくにいえば、いかなる意味の現象もひとりの主体を前提している」。それゆえ、内省や投影的意図[といった主観的な事象は、心理学がそうみなしてきたように理解不可能などではない。それでは、そのような主観性は実証科学の対象たりうるか。然り、分析技法(中立性)の習得をとおして可能である。そのような習得は一対一での秘伝的な道 (voie initiatique)をつうじて伝達される。そもそもそのような二極的な伝達こそ、あらゆる主観性の構造である。ラカンは人類学的な相対主義を援用してその根拠としている。

 

 

 (テーゼ2)攻撃性は身体の解体(dislocation)という心像として現れる。

 

 分析において患者が分析家に攻撃的な意図をむけてくることがある(陰性転移、陰性治療反応)。心像の探究は精神分析をもって嚆矢とする。寸断された身体の心像は原始社会においては入れ墨や割礼というかたちで観察される普遍的な契機である。子供が人形を解体する遊びやボッシュの絵や夢、それももっとも分析が進んだ段階での夢をみよ(ラカンはスケルトン状の魚に追いかけられるという患者の夢を紹介している)。行動主義はこのような主観性を無視するがゆえに退けられる。

 

 

 (テーゼ3)攻撃性にたいしては分析技術が必要である。

 

 対話は攻撃性の放棄である。哲学が追求しながらも失敗に帰してきた(トラシュマコスの狂気……)理性的な方法の勝利を精神分析は実現する。「分析は対話によって癒す」。しかも哲学が統御できなかったのと同じくらいのさまざまな狂気を。これが精神分析最大の徳である。

 ヒステリーの陰性転移においては、じぶんをかまってくれない父親のイマーゴが分析家に重ね合わされている。他方、強迫神経症においては、攻撃的意図が変装、置き換え、否認、分割、弱化を被る。それは防衛機制によって階段状(redan)あるいはジグザグ状(chicane)に解体される(une décomposition défensive)。対して恐怖症において攻撃的意図は顕在化している。分析においては、分析家の「自我」にむけられたこのような意図を実現させてはならない。

 自我はフロイト超心理学における知覚-意識系においてではなく、否定(Verneinung)において典型的なかたちをとる現象学的な本質として規定される。自我は人間主体において「情熱的な体験」(へつらい、悪意etc,)を構造化する審級であり、現実の主体の無視に基づいている。分析においては、分析家の自我への転移を「方向づけされたパラノイア」へと誘導しなければならない。クラインはそれを、内なる悪い対象の投影と呼んでいる。パラノイア的機制ではあるが、「十分に組織され、いわばフィルターにかけられ、適度に封じ込められたパラノイア」。これによって分析家という「純粋な鏡」の表面に立ち上がる「想像的空間」のなかに、症状が孤島化ないし暗点化ないし寄生生物として浮き上がる。この空間という「カテゴリー」に対応するのは時間的次元であり、「不安」にかかわる。

 

 

 (テーゼ4)攻撃性はナルシシズム的同一化の様態である。

 

 ここでラカンはリビドーの観念を導入することによって、主観的意図の現象学的研究から攻撃性についての超心理学的研究へと赴く。戦闘での直接的な暴力行為から「解釈的な示威行動」である冷戦に至るまで、攻撃性はパラノイア的な「有害さの転嫁」である。「自我のパラノイア的構造」。鏡像段階ゲシュタルトへの熱情的な同一化である。みずからの存在をかたちづくる無秩序を世界のうえに投射する「人間嫌い」の妄想。自我がひとつの他者なのであってみれば、「私は人間である」という言明は「私はインコである」というそれと同じくらい非論理的である……。アウグスティヌスが見てとった幼児における嫉妬の根源的攻撃性。根源的マゾヒズム。人間にとって本質的な裂開……。エディプス複合における「昇華」は、「自我のリビドー的規範性と文化的規範性との結合」(『トーテムとタブー』における父親的トーテムへの同一化)による攻撃性の超越である。ナルシシズム的な構造は還元不可能であり、それは方向性を変えることができだけである。ラ・ロシュフーコーが洞察していたように、愛他主義は方向を変えたナルシシズムである……。自我を形成するのは身体のイマーゴであり、[神経症における]器質的な異常はここに由来する可能性がある。古代における「体育」の意義……。

 

 

 (テーゼ5)空間のカテゴリーに攻撃性を位置づけることで、現代的な神経症や文明病における攻撃性の機能がわかる。

 

 文明(現代)においては攻撃性が優位にあるために、通俗的な道徳観においては攻撃性が力の徳と混同されているほどである。ダーウィン自然淘汰の理論は、ヴィクトリア朝における経済的競争を正当化するものであった。ダーウィン以前に、現代における攻撃性の優位を予言するようなかたちで、ヘーゲルが主人と奴隷の葛藤として人間存在にとって本質的な攻撃性の契機を説明していた。文明(現代)におけるこういうリバタリアニズム(?)が人間を原初の精神的孤立状態につれもどしている。しかし、機械の発達は主人と奴隷の葛藤を解消しないだろう。現代における戦争の必然性はここに理由がある。攻撃性は主観的に投影された想像的空間に向けられ、それが事後的に現実の空間の征服に重ね合わされる(動物行動学においても実証されている)。戦争は神経症の発生について多くのことを教えている。文明人はいやましに攻撃性を発揮すべく強制されている。文明の居心地悪さにおける空間的な「主観的緊張」(攻撃性)と時間的な緊張である不安(キェルケゴール)との交差する地点で、人間はみずからの原初的な分裂を受諾する(assomption)。この受諾をつうじて「人間はたえずみずからの自殺によってみずからの世界をつくる」のであり、このことにたいしてフロイトは「死の本能」という名をあたえたのだ。「現代社会から“自由になった”人間にあっては、この分裂が存在の根底にまでいたるみずからの巨大な亀裂を明かしている」。「無の存在(être de néant)」となり、「社会的なガレー船」に逃げ込んだ現代人がくるしんでいるのが「自罰神経症」なのである。「自殺」とは、このようなマゾヒズム的な状況を指すものであろう。エメ症例において自罰パラノイア超自我の病とされていたことを想起しよう。

 

 戦争の記憶もなまなましい時期にものされた暴力論。文明は神経症を必然化し、エディプス複合は失敗を運命づけられている。狂気が人間存在にとって本質的であるとのそれまでの認識が、自我のパラノイア的構造という観念に結実している。最後のパートにはラカン的な文体の開花が認められる。