機械論の復権:『フロイト理論と精神分析技法における自我』(第Ⅱ〜Ⅲ講)
第Ⅱ講(24/11/1954)
コイレとの会見を踏まえ、メノンが一般に考えられているのとはちがって被分析者というより分析家であるとされる。形式性、一貫性を事とする知であるエピステーメは人間の経験の全領域をカバーするものではない。完全な、人間の経験のアレテーを実現するものについての「エピステーメ」はない。対してオルトドクサは、知の連繫によってはとらえられない一片の真理である。メノンは奴隷に真理を語らせようとする。想起説に基づけば、奴隷でさえも前世の知識を持っているはずだが、無理数(直観的/象徴的要素)は解けない。想像的なものから象徴的なものへの移行に際しての裂け目を踏み越えられない。
「知は象徴的な活動の結晶化であり、知はいったん構成されるとじぶんを生んだ象徴的活動を忘れる」。それゆえあらゆる知のなかには誤謬の次元がある。知は発生期における真理の創造的機能(la fonction créatrice de la vérité sous sa forme naissante.)を忘却する。そして「分析家が露にするものは、オルトドクサの次元にある」。「分析において操作の対象になる一切は、知の構成に先立つもの」でありつつ、分析はひとつの知を構成する。「一般化可能でつねに真であるような知という形ではいかなる種類の真理も措定できない」。
読むべきものとして以下の文献が列挙される。『精神分析の誕生』。『夢解釈』中の「夢事象の心理学」。「快原則の彼岸」と『集団』および『自我とエス』。「神経症と精神病」および「神経症と精神病における現実の喪失」。『終わりのある分析と終わりのない分析』および『精神分析概説』。最後のものは、第一局所論と第二局所論の重なり合いが示唆される唯一のテクストであるとされる。「快原則の彼岸」ほど生の意味を深く問うている文献はない。生物学的/人文科学的領域の混同からこのテクストの問いそのものが生まれている。
第Ⅲ講(01/12/1954)
レヴィ=ストロース的な「基本構造」における「基本的」とは「原始的」といういみではなく、「複合的」の反対である(「複合的」を扱うのは精神分析である)。ラカンによれば、レヴィ=ストロース的な基本構造は、精神分析における無意識どうよう、人間において原初から象徴的なものの自律した宇宙が作用していることを含意する(レヴィ=ストロース自身はこの観点に懐疑的である。マノーニによれば、「象徴的な領域の自律性」という観念に超越性が忍び込むことをレヴィ=ストロースは恐れている)。これは機械論に関係している。「人間は機械であるかぎりでさまざまな選択が可能であり」、その点で動物と異なる。自然と文化の二元論は、「総称的」と「普遍的」の二元論に置き換えられるべきである。エディプス複合は純粋に象徴的なものであるかぎりで「普遍的かつ偶然的」である。
人間と動物における自我の機能の違い。人間においては生の統制の深い混乱や亀裂がある。フロイト的な死の欲動はそれに関係がある。フロイトの取り巻きたちが人間、自我、本能についての一元論的で自然主義的な立場に舞い戻り、無意識の発見の意味を忘れつつあったときにフロイトは二元論的な観点に立って死の欲動の概念を導入したとして、レヴィ=ストロース的な二元論が擁護される。