lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

シュレーバー、あるいは無意識の殉教者:セミネール『精神病』

*『諸々の精神病』(Le Séminaire livre III ; Les psychoses, Seuil, 1981)

 

 ラカンによればフロイトシュレーバー症例は『夢解釈』よりも画期的である。『夢解釈』には先駆者がいたが、シュレーバー症例においてフロイトは未曾有の領域を切り開いた。

 

 とはいえ、フロイトは「精神病の構造」を解明せずに終わった。フロイトのテクストの価値は問いを開いたままにしていることだ。そのいみで精神病への問いはフロイト的である。(「フロイト的もの」以来、ラカンは格言的な言い回しにハマっている。)

 

 精神病においては無意識が意識されているという見解は正しくない。精神病者には無意識がないのではない。「精神病において無意識はそこにある。ただし機能していない」。

 

 そのいみで精神病者は「無意識の殉教者」であり、無意識の「開かれた証言者」である(神経症者の「証言」は閉じられ、解読を必要とする)。

 

 神経症の症状が隠された真理であるのにたいして、精神病における妄想は露になり、「理論化」されてさえいる真理である(シュレーバーの妄想はいわばメタ=シニフィアン理論である)。

 

 妄想は治癒の「努力」であるとか同性愛への「防衛」であるという見解も、「努力」「防衛」の主体が自我と想定されているかぎりで正しくない。

 

 そもそもシュレーバーに同性愛とか女性化を帰したのはフロイトの冒した「飛躍」である。じゅうらいのシュレーバー解釈が無視していたのは「去勢」ということである。シュレーバーにおいて問題なのは「同性愛」でも「女性化」でもなく「父」性である。

 

 フロイトがナルシシズム概念を導入したのはシュレーバー症例であるが、想像界の領域しかカバーしないナルシシズムという概念に依拠したことはフロイトの限界である。

 

 「象徴的次元において拒絶されたものが現実界にふたたび現れる」。この場合、拒絶されたものとは「父というシニフィアン」ということになるわけだが、神経症においては抑圧されたものが「その同じ場所に」(in loco)「仮面をつけて」現れる(「抑圧と抑圧されたものの回帰とは同じである」)のにたいし、精神病において「抑圧」(要するに「外部」に「排除」)されたものは「想像界」(要するに「現実界」)という「別の場所に」(in altero)「仮面をつけずに」現れる。

 

 シュレーバーにあっては<他者>が「除名」(exclure)され(存在していないということではない)、他性が想像的次元に一元化される。シュレーバーの言う「魂の殺害」という事態をラカンは想像的な他者に向けられた殺意(攻撃性)に送付している。

 

 シュレーバーにとって「彼」は失われ、「唯一のパートナー」たる「汝」に吸収されている。

 

 この「汝」はシュレーバーにとっては「異物」として感じられるメッセージ(妄想)としてシュレーバーの「我」を占拠し、タルチュフのように主人たるかれを“我が家”から追い出す。

 

 「精神病のもっとも本質的な現象の一つ」は「ça が語る」ということである。つまり、主体が語るのではなく「ça」が語るということであり、精神病者にとって「ça」は[妄想という]パロールとして現れるということである。

 

 シュレーバーパラノイア患者がいっさいを自分に関係づけるとするクレペリンの指摘を取り上げ、じぶんはそのかぎりではないのでパラノイア患者ではないと主張する(『回想録』原書309頁)。そのかわりにシュレーバーはいっさいを“他者”に関係づける。

 

 フリース宛書簡においてフロイトはいみじくも書いている。精神病者は「自分自身を愛するように自分の妄想を愛している」と。ラカンはこの一節を「汝自身を愛するごとくに汝の隣人を愛せ」という聖書の一節に送り返す。

 

 とはいえシュレーバーの妄想に宗教的なところはない。シュレーバーの「神」は神秘主義的な熱狂の対象ではない。シュレーバーは一貫して客観的な証言者である。

 

 ちなみにラカンは上のフロイトの一節を中世の騎士道的恋愛に送付してもいる。

 

 パラノイアにとってそもそも「迫害者」は「迫害」(妄想)の影にすぎない(“父親に売り渡される”とのドラの“迫害”幻想との違い)。

 

 ラカンシュレーバー的な神を超自我になぞらえている。

 

 シュレーバーは意味作用をなさない「中断された文」を聞き、虫食いになっている「……」に適切な言葉を補填することを強いられる。言葉が際限なく浮かんでくるが、どれも適切な言葉ではありえない。

 

 ラカンシュレーバーの「中断された文」が相似性(共時態)の障害であるヴェルニケ失語を思わせると述べている。シュレーバー隠喩を使っていないこと、的なところがないことはそのひとつの証左である。

 

 正常者はこうした際限のない「内的ディスクール」に耳を傾けないが、精神病者にあってはシニフィアンシニフィエの「クッションの綴じ目」が外れており、「シニフィアンが独力で歌い語りはじめる」。「内的ディスクール」の際限のなさについてはシュレーバー『回想録』原書309頁以下のくだりが一度ならず引用される。

 

 「神経症の構造は問いであり、それゆえに神経症はわれわれにとって長らく純然たる問いでありつづけた」。

 

 主体はシニフィアンの連鎖をたどってみずからのアイデンティティを確認する。とはいえシニフィアンによっては表し得ないことがある。生殖(procréation)、言い換えれば生と死という事実である。ある個人が別の個人から個別化すること、言い換えれば、ある個人が誕生するためには別の個人が死ななければならないということは、シニフィアンによっては説明されない。そのかぎりでシニフィアンによっては「主体という奇妙な実在」を表すことはできない。

 

 神経症者の問いはこのような「主体」の「存在」への問いである。そしてヒステリー者の問いにおいて優位にあるのは「ファルスという中心」である。いわく「女である[=女性器をもつ]とはどういうことか?」(男性ヒステリーにおいても同じ問いが問われる。)

 

 一方、シュレーバーはこの神経症的な問いを「生きた状態で」(à l’état vivant)提示する。いわく「女になって性交されたらどんなにいいだろう?」

 

 「シュレーバーには父であるというシニフィアンが欠けている」。それによって、神経症者が象徴的行為(擬娩、父への同一化)によってこの問いを問おうとするのにたいし、精神病では生殖の現実的機能が問題になっている(「シュレーバーの身体は女への同一化というイマージュによって侵害される」)。 

 

 「『盗まれた手紙』についてのセミネール」「フロイト的もの」をつうじて主題となっていた「真理」は、本セミネールにおいてはフロイトが『モーセ一神教』で問うた「霊的」真理としての「父」へと送付される。

 

 「父の名」は、同時代の分析理論の潮流であった対象関係論(次年度のセミネールのテーマ)における母子関係の過度の重視を背景に導入された概念である。シュレーバーが神の実体とする「基本語」はこの「父の名」のいわばまがいものであるわけだ。

 

 妄想はシニフィアンであるが、意味作用を生じさせないシニフィアンである。「基本語」は原始語どうよう相矛盾することがらを同時に言い表すがこれはシニフィアンにおいてはあり得ない事態である。

 

 「男から男への子孫関係が語り始められるときにはじめて世代の差異という切れ目が導入される」。シュレーバーの発病は、早すぎる出世による「世代間の混乱」が「父であること」への問いを活性化したことの結果である。

 

 エディプス複合は<ファルス-母-子>という三項図式であり、父は「三者を一体として保持する輪」として位置づけられる。

 

 セミネール開講中ラカンハイデガーの論文「ロゴス」の翻訳を公にしている。<父の名>の概念が“集め置きとしてのロゴスがすべてを<一>に保持する”というヘラクレイトス的ヴィジョンと響き合うのは偶然ではない。さらにヘラクレイトスはこのことを“私にではなくロゴスそのものに”たずねよと述べている。

 

 翻訳者としてハイデガーの口調が伝染してしまったものか、講義ではハイデガー的な物言いがところどころで目につく。たとえばセミネール終盤の「街道」の比喩?

 

 「クッションの縫い目」の事例として注釈される『アタリー』における「神への畏怖」は、他のあらゆるものへの恐怖を浄化するものであるかぎりで父の名につうじている。

 

 ユーゴーの「麦束」は換喩ではなく、文の主語に位置する語の「置き換え」であるかぎりで「隠喩」とされる。ヤコブソンフロイト的な「圧縮」を隠喩に、「置き換え」を隠喩に送付するが、ラカンによれば「圧縮」も「置き換え」も換喩ということになるようだ。

 

 ピションの問題意識を継承した“Tu es celui qui me suivra[s]. をめぐるバロック的な考察は、本セミネールでラカンがたびたびケチをつけているシュレーバー症例フロイト的方程式(「私は彼を愛する」の変奏)に刺激されてはじめたふしがある。

 

 suivre が二人称、三人称のいずれで活用されているかは耳で聞くかぎりでは区別できない。それゆえ文の完成は聞き手に委ねられている(言い換えると、「ユダヤ=キリスト教的伝統の精神的基盤」たる「 je は tu を支えきれない」)。ラカンはそれゆえに“Tu es celui qui me…”をシュレーバー的な「中断された文」の典型とみなしている。ラカンは suivras (「信頼」)の方が suivra (「確認」)よりも tu との結びつきが「緩く」、それゆえ従わない自由を許容するとしている。

 

 ラカンシュレーバーの妄想が17世紀のプレスューズたちの言葉遣いに似ていると述べている。たとえば「魂の殺害」という言い回しはプレスューズが恋愛を語る際に使ったとしても不思議ではない。プレスューズ的な言葉遣いは「ランガージュが現実的なものの直接の理解に基づいていない」ことを示している。

 

 ラカンによれば、現代において支配的な「自由のディスクール」(「個人的存在」の自律性を要求する言説。革命の言説)は妄想のディスクールの一つである。より正確に言えば、両者は「同じものではないが同じ場所に位置する」。そして精神分析ディスクールは「自由のディスクール」ではない。

 

 フロイトにおける自体愛の観念と母子関係における原初的対象の観念は矛盾するようにみえる。この矛盾は autre と Autre を区別することによって解消する。

 

 「前エディプス的」関係というクライン的概念は「正当で豊かな考え」である。

 

 クレランボー的な精神自動症がアリストテレス的なアウトマトン概念に送付される。

 

 フロイト的 Verwerfung の訳語 forclusion は、もったいぶったすえに最終回の講義でお告げのように厳かにお披露目となる。

 

 周知のとおりフロイトシュレーバー症例にたいしては父シュレーバー(ダニエル・ゴットリープ・モーリッツ)の影響を過小評価しているという批判が諸家によってなされている。父シュレーバーについてはラカンもほとんど言及していない。れいの体操教則本に性行為の体位の指南のくだりを探し当てようとしたが徒労だったなどととぼけたことを述べているくらい。

 

お喋りな演台:「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」

*「フロイト的もの、あるいは精神分析におけるフロイトへの回帰の<意味>」(1955年、『エクリ』所収)

 

 「鏡像段階」論、「ローマ講演」、「セミネール1巻」「同2巻」(L図、"Wo Es war...")、「『盗まれた手紙』論」(真理)のおさらいにして「セミネール3巻」(シュレーバー)「文字の審級」(ソシュール)を予告する論文。

 

 フロイトによるコペルニクス的「革命」が切り開いた道が、精神分析運動史のなかで逸脱してきたことが確認され、「フロイトへの回帰」が唱えられる。そして「フロイトへの回帰の意味はフロイトの意味への回帰」、つまりフロイト精神分析にあたえた第一義的な意味への回帰である。フロイトがかれの時代の問題にたいしてあたえた回答はなおアクチュアルである。

 

 本論文はこれに先立つ「『盗まれた手紙』についてのセミネール」から「真理」という主題を継承している。ポーの寓話におけるおのずから人物たちのあいだを循環する手紙は、顕現としての真理がおのずから明かされるがごとくである。そこにはあるしゅの「擬人法」(prosopopée)がある。「私は真理であり、私は語る」。

 

 「幕間」というセクションを挟む13のセクションからなる本論文は、いわば「真理」を主役とする劇ないし「寓話」仕立てになっている。『盗まれた手紙』におけるように「真理がフィクションの存在そのものを可能にする」?

 

 この劇はまずもって「演台」を狂言回しとする「喜劇」として開幕する。「話す演台」とは運動史を逸脱させた元凶である自我の「対象化=物体化」を揶揄したもの("chosisme")。そこでは自我は演台という「道具」であり、それを「製造」し、「操作」("opé-ra-tion-nel")するのは分析家であるとみなされている。話しているのは言うまでもなく講演者であって、演台そのものではない。

 

 返す刀で、自我は物ではなく物への意識であるとする現象学が退けられる。現象学者は「じぶんが言葉を話す演台であるという夢」を見ているのだ。演台の意識なるものは演台を製造したわれわれのそれにすぎない。「葦」に「思考」を帰したパスカルも同根。自我が物の反映であるとしても、自我は"directeur de conscience"(「魂の導き手」)を任ずるヤスパースの言うように、この反映についての意識などではない。

 

 「自我の健康な部分との同盟」を治療の原理とする見解は、自我を物体化の運命から部分的に免れさせているようにみえるが、患者の自我を分析家の自我のコピーに仕立てようとしているだけである。

 

 この「寓話」はアクタイオーンの悲劇の再演で幕を閉じる(クロソフスキーの『ディアーナの水浴』は同年)。光のなかに神々しく肢体をさらす美女という伝統的な真理の寓意とはちがい、フロイトにとって真理は現れる間もなく身を隠す女の謎である。ディアーナがアクタイオーンを誘う洞窟の「不潔で悪臭漂う」「湿った影」が真理の隠れ場所になぞらえられる(『盗まれた手紙』についてのセミネール」において女性の属性は「影」に帰されていた)。そこでアクタイオーンは切り刻まれ、コロノスのオイディプスのように「真理のとき」を見つけることになるのであるらしい。

 

 いずれにしても精神分析における真理が「大いなる欺き手」であり、「本質的にもっとも真実らしくないとみなされているもののなかを彷徨う(vagabonder)」ことはたしかである。失錯行為しかり夢しかり機知しかり。

 

 Adœquatio rei et intellectus.(ものの一致と判断)。これは真理のひとつの定義である。このうちの rei が reus (負債者)の属格と同型であることをもって、ラカンは「象徴的負債」についての議論へ大跳躍を試みている。

 

 本論文の脇役:「クレオパトラの話す鼻」「思考の犬」(?)「思考の鷲」(?)「心霊主義者の葦」「猟犬」「鳩」(?)「牛」「白子の黒人」「暗殺者」「屍体」「公証人」「鼠人間」「犬と狼のあいだ」「淫猥で獰猛な人物」「狡智をはたらかせる理性」その他。

 

 

「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(『エクリ』ヴァージョン)

*「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(1957年)

 

 講義ヴァージョンがシニフィアン概念に引きつけてまとめなおされる。

 「lettre は殺し、esprit は生かす」のであるとすれば、それは「シニフィアンは死の審級を物質化する」かぎりにおいてだ。シニフィアンの物質性についてはすでに「ローマ講演」で触れられていたが、これは分割不可能という性質をもつことにおいてきわめて特殊な物質性である。手紙を破っても手紙(lettre)はそのままであり、そのかぎりで手紙はゲシュタルト的な「全体」をなすものではない。手紙(lettre)は不加算であり、de la lettre のように部分冠詞をつけられない(ことほどさようにシニフィアンとはひとつの「単位」である)。

 シニフィアンは「不在の象徴」であり、ほんらいの位置に欠けているかぎりでしか存在しない。しかるに現実界はセミネール第二巻で確認されているごとく「つねに同じ場所にある」。「リアリスト」たる警察は、空間を「細分化」して現実界のレベルに手紙を探し出すことに急で、目の前に置かれている手紙が目に入らない。

 

 ポーの寓話は原光景の反復によって進行する。原光景とその反復とのあいだで、いっけん何も変化していないかのようにみえる。ただしそこには「商」「残余」もしくは「滓」(ジョイス的”littre”)が残る。これが「純粋なシニフィアン」としての手紙である。

 

 人物たちは手紙を「所有する」(手紙とはせいぜい留め置くこと détenir しかできないものである)のではなく、ぎゃくに手紙によって posséder(この語の二重のいみにおいて)される。大臣ついでデュパンが王妃のポジションを占めにやってきて「女性化」することは、言語の法に従属するといういみにおける”去勢”(ラカンはこんな言葉は使っていないが)という事態をあらわしていよう。

 

 以下、107段落から112段落のパラフレーズ

 

 王妃に想像的同一化を遂げることで、大臣は女性と影の属性(attributs)を身に帯びる。女性は「影」という特性によって隠すことに向いている。「影」であることにおいて女性の「存在」と「記号」は分離している。[手紙を盗まれたことにたいする]「女性の怒り」を無視することで男性は女性の記号の呪いを身に被る。女性はこの記号においてみずからの「存在」を「法の外に」基礎づける。この「存在」が、シニフィアンひいてはフェティッシュのポジションに女性を捉える。みずからの「影」にとどまり無為(non-agir)のみせかけを演じることで女性はこの「記号」の力を行使する。このみせかけを見抜くとき、大臣は女性の記号の囚われになっている。王妃は大臣が手紙を[政治目的に]使用しないことによって名誉を保つ。大臣は手紙の威力を知っているがために手紙を使用できない(手紙を使用することは大臣じしんの破滅をもいみする)。この「記号」はアンタッチャブル(noli me tangere)である。その囚われとなった大臣は無為(inaction)という女性的ポジションを強いられる。

 

 以上。「女性の特性(attributs)はシニフィアンの謎に多くを負っている」。女性を特徴づける「影」とはファルスの不在に関係していよう(マントルピースに「ぶらさげられた」手紙をめぐる失錯行為によってそれを察知していた仏訳者のボードレールは、くだんの女性化には気づいていない)。デュパンが大臣の政務室に入ったとき、手紙は地図上の巨大な文字ならぬ「女性の巨大な身体のように」目のまえに横たわっており、あとはその「服を脱がせる」だけでよかった……。「かくも不吉な企みは……」というデュパンの一撃は大臣(=シェヘラザード)にたいするかれの「女性的な怒り」に発している。

 ついでに運命(fortune)=死との邂逅をめぐって『四基本概念』で取り上げなおされるテュケーとオートマトンというアリストテレス的図式が援用される。

 

 

 

ラカンによるフェレンツィおよびライヒ讃:「治療-類型の諸変種」

*「治療-類型の諸変種」(Variantes de la cure-type, 1955)

 

 セミネール『フロイト理論と精神分析の技法における自我』開講中に『外科医学百科 精神医学篇』のために執筆された論文で、のちに『エクリ』に収録された。セミネール第一巻、第二巻における技法論をめぐる考察の要約的な論考。

 

 アンナ・フロイトらの主導する「抵抗の分析」は、抵抗が自我を主体とするものと想定しているかぎりで自我と主体をとりちがえている。ラカンによれば、抵抗は自我だけではなくエスにも超自我にもかかわるというのがフロイトの第二局所論の教えであった。

 

 対象関係論における分析家の自我(よい対象)の取り込みという観点も、分析的状況を自我のレベルに還元してしまっている。

 

 それにたいしてフェレンツィおよびライヒが評価される。

 

 フェレンツィは分析家自身の心的過程における「メタサイコロジー」の必要を説き、分析家の自己愛と「エゴイズム」にたいする注意を喚起している。教育分析の必要性および分析の終了の重要性についての問いもそこから発している。

 

 「能動的分析」の主導者であったフェレンツィは、その一方で分析家の「非-知」にたいする認識において評価されねばならないというわけだ。

 

 一方、ライヒの「性格分析」は、「男根的=自己愛的」「マゾヒズム的」といった「性格」が、ヒステリーや強迫神経症といった症状(主体にたいして異物として構成される)と同じ「構造」的産物であることを想定している点において評価の対象となるが、それがオルガスムにたいする個体の防衛を機能とするという観点に限界がある。

 

 ライヒの過ちは一般に考えられているようにオルガスムという神秘主義的なエネルギー実体を想定したことではなく、むしろ個人を防衛の主体と前提していることにおいて自我心理学と同じ穴の狢であるということらしい。

 

 分析の実践に standard を設けようとする試みが多少とも神秘主義的な standing のそれへと陥る危険を孕むとする問題提起ではじめられた論文は、フロイトの提示する分析基準はフロイト個人にとっての基準であるにとどまるとする「分析家にたいする分析治療上の注意」の引用によってしめくくられる。その一節に読まれるべきは、分析家の「非-知」にたいする本質的な認識にほかならない。

 

 

死の本能と生の奇跡:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』(了)

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十四講(29/06/1955)

 

 

 講演の成功で自信をとりもどしたラカンが質問者たちに逆襲を試みる。

 

X:聖書には宇宙(「すべてを論理的に繋げるような固定され決定された法」)もしくはプラトン的な「ロゴス」の概念がないので「はじめに言葉ありき」の「言葉」はランガージュではない。

ラカン:ランガージュのもうひとつの意味(「不在と現前の連続」)を想起すべし。「はじめに」あったのは「0/1」という「原初的背反」である。

X:ランガージュがパロールを可能にするという定義は曖昧だ。

 

 

ヴァラブルガ:サイバネティクスは三角性[ゲシュタルト]を認識できない。つまり三角性は想像的次元に属するのか?

ラカン:三角性は機械の構造そのものである。0/1の意味は後続する第三項をまってはじめて生まれる。

ヴァラブルガ:あなたは三角性と三項性を混同している。

リゲ:三角形とはあるしゅの関係であり、自然には存在しないから象徴的次元にある……

 

 

ラカン:われわれは受肉した存在であり、つねになんらかの想像的なものを介して考える。想像的媒介によって象徴的媒体が阻害され、混乱させられる。

マノーニ:想像的な裏打ちがないとランガージュはもはや人間でない何かになってしまう。

ラカン:感傷はよしなさい。機械は人間ではない。ただし人間がそれほど「人間的」であるかどうかは疑わしい。象徴的次元が人間的経験とよばれているものに還元できないことに驚く必要はない。

 

 

 『快原則の彼岸』三章冒頭のコメント。

 症状とは意味作用であり、「形をとった(mise en forme)真理」である。それはシニフィアンシニフィエとして構造化されており、自然の印(indice)とは異なる。症状は「言説の裏面」である……。

 局所論的分割線は意識と無意識ではなく、パロールと自我の間に引かれるべきだ……。

 

 

 生物はその存続に不必要なものは受容しない。人間だけがその彼岸に向かう。「動物という機械」はそのことについて「何も知りたくない」。

 

 

 最後にL図がふたたびコメントされる。

 「分析家は接近がもっとも困難であるといういみで大他者の根源的性質を帯びる」。

 

 

 「分析的経験は意味作用の経験である」。分析が主体に明かすのはかれの「真理」「運命」の意味作用である。自我は目指すべき上位の審級ではない。フロイトはそのような「進歩」への傾向を退けている。「生のあらゆる形態はそれじたいじゅうぶんに驚くべきもの、奇跡的なものであり、より上位の形態への傾向など存在しない。この点において[どの点において??]われわれは象徴的次元に至る」。

 

 

 

サイバネティクスと精神分析の同時代性は「偶然」か?:『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十三講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 

 第二十三講(22/06/1955)

 

 

 セミネール番外編の講演「精神分析サイバネティクス

 

 サイバネティクス精神分析という二つの「技術」(あるいは「思考」もしくは「科学」)の同時代性を説明する鍵の一つが「ランガージュ」。

 

 機械とのゲームは偶然が存在しないことを示している。「偶然」という言葉が使われるとき、それは意図の不在もしくは法則の存在をいみしている(両者は別のことである)。精神分析においては自由連想における偶然性が重要である。サイバネティクスは偶然と決定論の関係に光をあててくれる。

 

 サイバネティクスの起源には偶然のいみという問題がある。サイバネティクスの前身は厳密科学に対置されるかぎりでの推測科学(人間の行為を問題にする科学)である。そのかぎりでサイバネティクスの先駆者としてコンドルセひいてはパスカルを挙げることができる。

 

 厳密科学は現実的なもの(われわれがそこにいてもいなくてもつねに同じ場所に見出されるもの)を扱うと言い得るか?

 人間はむかしからそのような変わらない場所があると考えていたが、[儀礼・祈祷などの]人間の行為(「真のいみでの行為とはパロールの行為」)がその場所に秩序をもたらすとも考えていた。「人間は法則をつくろうとしていたのではなく、法則の永続のためにじぶんが不可欠であろうとした」。じっさい「法則こそが現実的なものの存在の厳密さを維持している」。とはいえ、そうした行為の無意味さに気づいたことが厳密科学に道を開いた。人間がいなくとも自然の大時計はひとりでに時を刻む。自然は約束の時間を違えない。自然の時間と人間の時間が分離する。厳密なのはそのいずれか? 厳密さは両者の時間を一致させることにある。ホイヘンスの振り子時計によって「正確さの宇宙」(コイレ)がはじまる。

 

 パスカルが賭けにおける運を計算すべく発明した「算術的三角形という最初の機械」によって、「たんなる場所としての場所の組み合わせの科学」が「同じ場所に見出されるものの科学」にとって代わる。それはスカンシオン(一回一回の勝負)の概念を前提する。サイバネティクスが発明される条件は、すべてを現前と不在の二進法によって記述できることに加えて、それがあらゆる主観性から独立して可能になることである。

 その可能性は門によってもたらされる。門において問題なのは現実的なものではなく開/閉の関係そのものであり、開/閉の運動が生み出す振動(スカンシオン)である。

 

 サイバネティクスにおける「メッセージ」は意味をもつものではなく記号の連続である。sens をもつとすれば、それは記号の連続の向かう「方向」という語義においてである。機械を規定するのはそのような「方向」である。

 

 システムの基礎は確率(賭け)の概念の中にある。それはある期待を前提している。サイバネティクスは象徴的次元と想像的次元の違いを示している。想像的なものの「慣性」ゆえに、主体の言説は「不純」な言説である。精神分析弁証法は言説から「想像的混乱」を除去し、ほんらいの意味を解放する。

 

 「意味」とは何か?「人間存在が原初的で起源的なランガージュの主人ではない」ということである。「人間はランガージュの中に投げ込まれ、巻き込まれ、その歯車にとらわれている」(序数より基数が先に発見された逆説)。「人間はその存在全体が、数の行列のなかに、原始的象徴体系のなかに組み込まれている」(「基本構造」)。

 

 機械においては時間に遅れてくるものはもともと存在しないが、人間においては抑圧ゆえにスカンションの遅れがある。抑圧されたものは執拗に存在へと至ろうとする。象徴的過程とはこうした非存在の存在への到来である。

 

ランガージュへの集中砲火:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第二十二講

*『フロイト理論と精神分析の技法における自我』

 

 第二十二講(15/06/1955)

 

 サイバネティクスにおけるメッセージ概念。「ランガージュはメッセージのためにあるが、コードではない。ランガージュは本質的に曖昧であり、意義素はつねに多義的で、シニフィアンはつねにさまざまな意味、ときにはきわめてちぐはぐな意味を帯びる」。

 

 ウェルズの譬え話。火星語?のメッセージを三人の学者たちが別様に解釈する。「ランガージュの代用物」に基づいて学者たちは「パロール」を受け取るが、「コード」はない。譬え話の教訓は「各自がじぶんにむけて顕現した呼びかけや天命を理解するのはランガージュの世界においてである」ということ。

 

 哲学者たちは誤謬をランガージュの存在に帰してきた。つまり、主体はランガージュにたいするじぶんのポジションを知る必要があることだ。精神分析の教えるところは主体が「ランガージュのようなもの」すなわち「普遍的言説」にすでに巻き込まれているということ。普遍的言説とは、有史以来、現実に言われたことを指す。「普遍的言説との関係において主体は主体として位置づけられ、普遍的言説に書き込まれ、普遍的言説によって決定される」。そして「主体の機能は、かれがこの言説を継続するというかぎりでこの言説のなかにみずからの位置を見つけることにある」。「主体は誕生以前から[……]具体的な言説の原子として位置づけられている。主体はこの言説のダンスの列のなかにいる。主体はかれじしんひとつのメッセージである。[……]かれの全体がメッセージの連鎖のなかに位置づけられる。そしてかれの行う選択のひとつひとつがかれのパロールである」。

 

 「はじめに言葉ありき」の「言葉」とはランガージュであり(通常そう解されているように)パロールではない。このあとで神は「光あれ」というパロールを発する。人間はパロールにs’intéresse(s’inter-esse)している。メッセージが「彷徨う記号」であるのにたいし、人間がそのなかに統合されている普遍的言説は動かない。

 

 ラカンの晦渋なランガージュ概念にたいして列席者の集中砲火が浴びせられる。

 

 リゲ:数学においてはランガージュはコード化によってのみ定義されるが、あなたはランガージュをコミュニケーションの基礎をなす普遍的ランガージュとして捉えている。

 ラカン:数学における形式化された象徴はランガージュが人間主体から独立して存在しているとみなしている(「数は絶対的に存在する」)。つまり「記号の世界が循環し、その世界にはいかなる意味作用もない」ような万能機械を想定している。意味作用はこの機械を止め、その循環に時間的切断(スカンシオン)を入れることでうまれる。

 リゲ:機械には人間と共通の象徴の宇宙はない。

 ラカン:しかし機械を作るのはわれわれ人間だ……。

 

 さらにマルシャン,ポンタリスの追い打ちがつづくが、ラカンは一貫してのらりくらりと攻撃をかわしていく。その途上で、個々の言語(国語)からは独立した「純粋状態のランガージュ」が口にされ、「ランガージュとは一つの具体的な宇宙」であり「完全な体系」であると定義される。

 

 列席者の猛追を強引に振り切るかたちで、ウェルズの譬え話を受けて「論理的時間」における三人の囚人の譬え話がふたたび引かれ、ランガージュとパロールの区別が確認される。

 ここにおいてランガージュは「黒が二つ……」という所与のなかにあり、この所与は「現実の外にある」。パロールは主体が「私は白だ」と確認する行動によって導入される(純粋に論理的なプロセスではない)。「急ぎ」は機械には属さない時間の次元であり、想像的(間主観的)推論の時間とは異なる。こうした「ランガージュの象徴的時間」「断言の時」がパロールに固有の時間性である。

 

 さいごに「はじめに言葉ありき」の「言葉」がランガージュであることがあらためて確認され(あいかわらず反論が続出する)、この一節が第四講で引かれた「すべてを創ることによって至上のものはなにを創るのか――みずからを。しかしすべてを創るまえにかれはなにを創るのか――わたしを」というシェプコのニ行詩に送り返され、ランガージュ(0/1)がプラトン的想起説が前提するように太古から人間とは独立に存在していたのではなく、「絶対的始まり」「創造」があると述べられる。ラカンによれば、こうした観点はプラトンフロイトを分かつためのひとつの方法である。

 「私」と考えているとき、この「私」は不滅である。ところが「私」と口にされるや否や、破壊が可能になるとともに創造がある。この創造が未来を可能にする。この未来が想像的なものにとどまらないのは「私」が先行するすべての言説に支えられているからである。ルビコン川を渡ることが「象徴的行為」たりえたのは、カエサルの過去の一切によってである。すべては過去の関数である。この過去はわれわれが認識しておらずとも太古からランガージュ(0/1)のなかに書き込まれている……と列席者を煙に巻いて講義は閉じられる。

 

 Restons-en là, c’est un peu rude aujourd’hui!