lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

誤りとしての主体(承前):セミネール第9巻『同一化』(その9)

 

 第XII講(07/03/1962)

 

 前号の続き。 

 

 本日をもってわたしは「予知(pressentiment)の時代」の幕を開ける。しばらくのあいだ、誤りと正しさ(à tort ou à raison ならぬ à tort et à raison。もちろん tort は tores に掛けてある)の二重の側面からのアプローチをこころみたい。 

 

 トーラスをご存知だろう(ドーナツ状の図が板書される)。幾何学者にとってトーラスは回転(révolution)の図であり、軸の周囲の円周を回転することによって形成される。一周するとあなたはフラフープのようにトーラスの中にいる。幾何学的にはトーラスは回転の表面である。軸の周囲の円の回転の表面だ。閉じた表面である。

 

 これは主体の機能における表面にかかわるだけに重要である。そのことは講演「私の教えについて(De ce que j’enseigne)」で述べた。

 

 こんにちではさまざまな空間や無数のディメンションの理論が流行している。数学的観点からは無条件にそうしたものを信じるべきではない。

 

 哲学者の考えでは、現実界という観点からは、三次元にしてからが信憑性に欠ける(本講冒頭の議論参照)。主体にとっては二次元で十分である。

 

 深層心理学にたいするわたしの留保はここに由来する。トポロジー的な観点からは主体は無限に平らな存在である。

 

 フロイトが提示するかぎりでの同一化という事象に真の価値を与えたいなら、ここから出発すべきである。

 

 とはいえ、内部がなければ表面はあり得ない。

 

 球や平面にたいするトポロジーの独自性は前述の講演でのべた lacs (欠如 lacune)ということばにある。

 

 トーラスは球や平面とちがって lacs にかんして同質的でないという利点をもつ。

 

 表面に小さい輪をつくり、それを無、一点に帰すことができる。

 

 それゆえ超越論的感性論が存在する。ただしカントの超越論的感性論はよくない。それは空間ならざる空間の超越論的感性論であるから。また、表面記されたものが一点に還元され、円の規定する内包の総体が任意の一点の消失する単位に還元される可能性に基づいているから。すべてがすべてに重ね合わされる世界なのだ。すべてを手のひらにのせることができるような。言い換えれば、なにをそこに描こうとそこに落ち込み(collapse)ができる。シニフィアンの観点からはそれは同語反復である。すべてがすべてに帰され、その結果、ひとつの問いが提起される。純粋に分析的な構築(constructions)によって、数学どうよう現実界と競合する構築物(édifice)を生み出すことができるかという問いである。

 

 トポロジーの構造は主体の構造であり、そこには削除不可能な固有のlacs が含まれる。

 

 トーラスを輪切りにすると「充満した円」をいくつもつくることができる。その内部は直観に委ねられる。超越論的感性論は直観を根底とする。直観については数学者たちの論争がある。ポアンカレらは直観的要素を除去できないとする。公理主義者はトポロジー的直観は不要だとする。直観なしにトポロジーの科学はない。

 

 トーラスの構築についての基本的な真実がある。球や平面には地図が描ける。地図を塗り分けるには4色で済む。トーラスのばあい7色ひつようである。トーラスにはそれぞれの領域が別のすべての領域と接点をもつような六角形を7つ描くことができる(?)。

 

 (これは現実界の一貫性にかかわるらしい。)

 

 ドーナツ内部の空っぽの円がまんなかの穴をめぐっている。重要なのはこのような穴を穿たれた構造だ。それはハンス少年の小さなキリンのようにいくらでも歪めることができる。

 

 ドーナツのなかのコイル状の一連の周回は1なるものの反復である。回帰するものは反復強迫のシフニフィアン的関係において原初的主体を性格づける。

 

 かくして主体はいちれんの要求をへめぐるが、そのとき計算を1だけあやまつ。ここに無意識的な(-1)がふたたびすがたをあらわすのであるが、これは主体の構成要素である。主体が数え損ねる周回はトーラスの一周である。充満した円(=ドーナツの内部)と空虚な円(=まんなかの穴)というふたつの lacs のうち、後者は欲望の機能にかんけいしている。この穴が充満した要求の円のすべてを結びつけ、輪を形成させている。そのかぎりで換喩の対象a とかんけいがある。空虚な穴はこうした対象である。欲望がこれらの円によって象徴されているのではなく(ジョーンズの名がほのめかされる)、対象そのものが欲望に供されるのである。

 

 さいごに種明かしがなされる。トーラスの充満した円のひとつに沿って鋏を入れると両側に穴の空いた腸詰が得られる。ふたたび鋏を縦方向に入れて展開するとトーラスにひとしい平面を得る(『エクリ』553ページの「シェマR」)。向かい合う辺の各点が反対側の辺の点のひとつと繋がっている。

 

 というわけで、ただひとつの lacs にほかならないものが二度鋏を入れることでしかるべく切断されたトーラスのうえにあらわれる。斜めの線が円のみっつめの空間を定義するが、これが主体の構造である。一周しかしていないのにたしかに二周しているのである。充満した円を一周することで同時に空虚な円を一周しているのだ。算入されないこの一周こそ、主体が、無限に平面的であるという主体固有の表面の必然によって内包する一周であり、主体性が、ある迂回を経ることによってでなければ把握することのできない一周である。この迂回は<他者>という迂回である。

 

 以上をもって√-1についての受講者の質問にたいする回答があたえられた。