lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

燃やされた手紙:「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」

*「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」(Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 開講中のセミネール『無意識の形成物』の中休み期間(1958年2月)に執筆され、セミネールの後援者でもあったジャン・ドレによる浩瀚な精神医学的伝記の書評として「クリティック」誌に掲載された。媒体を意識したか、ラカンの文体はどこかよそゆきの美文調(la crique qui le craque… あるいは、courtoise / Courteline といった機知ゆたかな頭韻)。

 ジッドは十一歳で父を亡くし、母親の独占的な愛に閉じこめられた。母親は厳格で性的に潔癖な人であり、ジッドも母親にたいしていっしゅの昇華された愛(宮廷風恋愛にも似たそれ)を捧げていた。こうしたジッドにとって、伯母に「誘惑」された経験がトラウマとなった。母親にとっての「欲望された子供」(enfant désiré)であったことのなかったジッドは、伯母の「誘惑」によって遅まきに、かつ「非合法(clandestin)に」「欲望された子供」の位置を占めることになる。こうしたいわば“母”の二重化によって、ジッドは「愛の母」(実母)と「欲望の母」(伯母)とのはざまで引き裂かれる(”Spaltung”)。「欲望を人間化(humaniser)」してくれるはずの父の不在ゆえジッドはこのダブル・バインドの状況から抜け出せない(これまでのラカンの関心がもっぱら“父”の二重化にあったことを想起しよう)。十三歳のとき、年長の従姉マドレーヌ(「大人の侵入[immixtion de l'adulte]」)に泣きながら伯母の不倫について訴えられたジッドは、「愛と憐憫、感激、徳などの入り交じった感情に陶酔し」(『狭き門』)、マドレーヌを守るために自己を捧げんというあるしゅの宗教的な啓示を得る。愛とはじぶんがもっていないものをあたえることである。母親の性的抑圧のせいでオナニスト神経症になっていたジッドは、じぶんが女性にあたえることのできないファルスをマドレーヌにあたえようとする。ドレによれば、この純愛は母親にたいする昇華された愛の再生である(ジッドはマドレーヌが「モレラ」であるとヴァレリーに吐露している)。その根拠のひとつとして、ドレは『狭き門』におけるアリサとジェロームの母親との類似を指摘している。一方、『無意識の形成物』のラカンによれば、ジッドはじっさいに伯母の「欲望された子供」であったマドレーヌに「同一化」することで、じぶんが受け入れることができずにいた伯母の欲望と折り合いをつけようとしているのだ。一方、マドレーヌはマドレーヌで父への無条件の愛を保持するために「白い結婚」に同意する(マドレーヌとの結婚は、ジッドがマドレーヌ=アリアドネの手引きでその父=ミノタウロスを殺すテセウスになることをいみする)。ドレによれば、同性愛はマドレーヌへの「angélisme の裏面」ということになる。ラカンによれば、かくして引き受けられた伯母の欲望によって、ジッドはじぶんが伯母にとってそうであった「欲望された子供」としての少年たちを愛するようになる(ジッドがまさに新婚旅行中に少年愛にふけっていたという事実は象徴的である)。ジャック=アラン・ミレールによれば、ジッドは男性として愛し、女性として欲望(享楽)しているということになる。

 同じく『無意識の形成物』によれば、ジッドの倒錯は自我理想の裏面である。ジッドにとって自我理想はジッドの自我によっていわば主体的に求められたものではなく、かれの「主体をその存在において原初的に構成しているシニフィアン」である「欲望された子供」というポジションを保持する出来事の継起を通じて形成された(この受動性が重要なのであろう)。「ジッドの倒錯は、かれがそうであった少年(=自我理想)しか欲望することができないという点にあるのではなく、従姉によって占められている場所に居座る(se faire valoir)者になるべくみずからに命令することによってしかじぶんを構成することができないという点にある。じぶんのもっていないものをあたえることで、かのじょにおいて、かのじょによって、かのじょにたいしてしか人格として構成されない者に、ということだ」。ここでマドレーヌ宛書簡が重要性をおびる。「文学的人間(hommo litterarius)」たるジッドは、マドレーヌへの手紙というかたちでこの真理を「フィクションの構造において」実現しようとした。「ジッドの青春」の冒頭で言われる「lettre にたいする人間の関係」とはこのことだ。

 マドレーヌは浮気なジッドへの復讐心からジッドからの書簡を焼却する。ジッドはマドレーヌへの手紙をまさに「じぶんの子供」と形容していた。マドレーヌは子供を殺すことで夫に復讐したメーディアのようにジッドに復讐するのである。これは「真の女性の行為」である。これによるジッドの落胆にひとは純愛のメロドラマを読みとってきたが、ラカンに言わせればこれは、じぶんが失いそうになっているのが娘ではなく金庫だと思いこむ「守銭奴」の叫び(「わたしの小箱!」)と同じくらいコミカルな光景である。マドレーヌとの人間関係は失われた手紙へと「物体化」されている(chosifié。岩波書店刊の邦訳では「具体化」というニュートラルな訳語があてられている)。「ジッドの青春」でジッドに「フェティシズム」が帰されているのはそれゆえである。ジッドによれば「同性愛者の愛がどういうものか理解できる者はいない」。それは「防腐処理を施された[時間に逆らって保存された]愛(amour embaumé contre le temps)」である。ここには死の臭いがする。そもそもジッドにとっての官能の目覚めは、三度にわたる “Shaudern” (ゲーテ)の経験に遡る。この存在論的な震撼においてジッドはすでに「死の声」(ラカン)を聞いている。

 マドレーヌへの自己犠牲的な純愛(ドレもラカンベアトリーチェへのダンテ的愛になぞらえている)は、[母による]「愛による包含(enveloppement)」から「享楽の放棄(abnégation)」を引き去る「象徴的減算」(soustraction symbolique)の「剰余」(résidu)であり、「欲望」が天使愛という否定的なかたちで現れたものだとラカンは言う。みられるとおり、当時のラカンにおいて愛と享楽と欲望の関係づけはいまだ厳密化されていない(とりあえずジッドの人生を決定づけているのは「最初の享楽のうちに口を開いた裂け目」である)。本論文執筆後のさいしょのセミネールにおいては欲望と享楽との区別をめぐる議論がなされている。

 ちなみにドレの伝記はマドレーヌとの結婚にいたるまでの時代を対象としており、燃やされた手紙についての言及はない。本論文はドレの伝記とほぼ同時期に刊行されたシュランベルジェの『ジッドとマドレーヌ』(ドレの伝記中に言及あり)を踏まえており、筆者は目を通していないが、このへんはほぼラカンのオリジナルな論点であろう。

 ながねんラカニアンたちに不当に軽視されてきた本論文の重要性を見抜いた(おそらくデリダについで)さいしょのひとりであるジャック=アラン・ミレールは、燃やされた手紙がくだんの「盗まれた手紙」どうよう、「ファルスの意味作用」において導入されることになる対象(a)の観念を先駆けていると指摘している。

 ラカンはドレの文章を讃えつつ、文体を主体(「人」homme)そのものに帰したビュフォン的警句をもじって「文体は対象である」と述べている。これは lettre にたいするジッドのポジションにこそあてはまる。

 ジッドはウージェニ・ソコルニスカの許で分析を受けはじめたがすぐに挫折した。ラカンによれば、ジッド著作になんらかの精神分析的認識が認められるとすれば、それは『コリドン』において直観的に提示されている「リビドー理論の驚くべき要約」を措いてない。