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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ヘーゲル、科学、そしてフロイト:「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(その1)

 

*「フロイト的無意識における主体の覆しと欲望の弁証法」(Subversion du sujet et dialectique du désir dans l’inconscient freudien, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 

 いわずと知れたラカン的カノンのひとつ。注釈書にも事欠かない。以下、冒頭のパートを段落ごとに要約する。

 

 精神分析という実践はひとつの構造をもつ。哲学者はこれに無関心ではあり得ない。

 

 哲学者は万人がそれと知ることなくかかわっている(intéressé)ことに関心をもつ(s’intéresser)。この言葉のおもしろさ(intéressant)は、この言葉が当を得ているとしても、[万人がそれと知ることなくかかわっていることというのがなになのかを]決定できないことだ。万人が哲学者にならないかぎりは。

 

 ヘーゲルが<歴史>についてそういっている。

 

 主体を知とのひとつの関係によって位置づけること。

 

 この関係は曖昧である。

 

 現代世界における科学の諸効果(≒影響力)とおなじくあいまいである。

 

 科学をなりわいとする学者もまたひとりの主体である。科学はひとりでこの世に生まれ落ちたわけではない(生まれ落ちるまでに中絶とか早産を経験していた)。

 

 じぶんのしていることを知っているはずのこの主体は、科学の諸効果において万人にかかわるものがなにかを知らない。すくなくとも現代世界においてはそうだ。現代世界においては、万人がこの点について無知である。

 

 かくして「科学の主体」が認識論のテーマになる。

 

 分析の終了においては主体が問題になる。この主体はヘーゲル的主体を覆す。

 

 精神分析の実践がそうした主体をもたらす。分析の終了についての科学的理論はまだない。

 

 英米における逸脱をみよ。

 

 くだんの覆しを定義しよう。

 

 科学の条件は経験主義ではない。

 

 科学的と称する既成の心理学がある。

 

 フロイト的な主体の機能は心理学を退ける。

 

 心理学は主体の統一性とか生体と心理の重なりを想定している。

 

 主体は認識主体ではない。

 

 認識は現実の鏡ではない。

 

 ヘーゲルも現代科学もそうした見解はとらない。

 

 深層心理学はフロイト的ではない。

 

 フロイトはヒステリーを催眠状態の観察よりも患者の言説から理解しようとした。

 

 フロイトは認識のパラノイア的構造も見抜いた。

 

 無意識は問い返す。

 

 主体に解釈を強いる。

 

 無意識の論理はつかまえにくい。

 

 それは類型化できない。

 

 フロイトの踏み出したコペルニクス的一歩を見極めること。

 

 それはたんに地球が中心という特権を剥奪されたということなのか。進化論が人間を特権的な位置から追い出したように。

 

 ここには利得あるいは進歩があるのか?[太陽中心説という]別の真理が顕現したのか?黄道は真なるもの(vrai)のモデルである。

 

 人間が最高の種でないと自覚しているのはダーウィンのせいではない。

 

 上位の諸真理とはなんのことはない、楕円軌道(省略 ellipse)がそれである。革命とは端的に天体の公転(révolution)のことである。

 

 ここに宗教が退けられると同時に知の体制と真理の体制がより密接に絡み合う。

 

 コペルニクスにおいてはいまだ二重の真理の原則が隠れ蓑になっていた。

 

 科学は真理と知の境目をふたたび閉ざしてしまったようにみえる。

 

 精神分析がこの境目をふたたび揺るがせる。

 

 ヘーゲル現象学を援用しよう。永久的修正主義という理想的解決である。そこにおいて真理は、それじたいが知の実現に欠けている要素として、不協和な要素を恒常的に吸収=解消する(résorption)。スコラ的伝統において原理的なものとされていた二律背反はここでは想像的なものとみなされる。真理とは、知がみずからの無知を作動させることによってしかそれを知っていることをまなびしることができないものである。この現実的な危機において、想像的なものは新たな象徴的形式を生じさせる。この弁証法が収斂し、両者が連結する地点が絶対知である。この弁証法は象徴的なものともはやなにも期待できない現実的なもの(un réel)との連結でしかありえない。つまりみずからと同一である主体である(自己意識存在 Selbstbewusstsein)。

 

  とはいえギリシャ数学に発する科学はこうした内在説を退けている。多くの理論は弁証法に吸収されない。

 

 物理学上の変革もそれを証している。

 

 精神分析はそれが孕む理論的希望ゆえに科学の世界において恐れられている。

 

 社会心理学に偏向した精神分析のことではない。

 

 ヘーゲルの絶対的主体と科学の廃棄された主体をともども参照することによってフロイトのもたらした劇変の真意がわかる。すなわち、科学の領域への真理の復帰であり、実践の領域への真理の復帰である。抑圧されたものは回帰するのだ。

 

 ヘーゲルにおける不幸の意識(ひとつの知の宙吊り)とフロイトにおける文明におけるいごこちのわるさ(主体と性とのねじれた関係)とを隔てる距離は明白である。

 

 心理学の「司法的占星術」とも「質」と「強度」の現象学的観念論ともフロイトは無関係である。フロイトにおいて無意識は意識のネガ(トマス)ではないし、情動は原初的な感情ではない。

 

 フロイト以来、無意識はシニフィアンの連鎖である。この連鎖は「別の舞台」のうえで反復され、しつようにあらわれて(insister)、効果的な言説がもたらす切れ目と[無意識に]固有の思考(cogitation)に影響をおよぼす。