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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

美人局と密輸品:「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」

*「治療の方向づけとその影響力についての諸原則」(La direction de la cure et les principes de son  pouvoir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 これまでのラカンの治療論の概要を提示した論文と位置づけられる。「治療の方向づけ(direction)」という言い回しそのものはセミネール『無意識の形成物』の終盤にたびたび登場している。セミネール終了から一週間後にロワイヨーモンで行われたコロックでの発表がもとになっているが、論文のかたちで公にされたのは1961年。ブルース・フィンクは同年開講のセミネール『転移』との並行性を指摘している。

 

 自我心理学(発生論)、対象関係論(目的論)、フェレンツィ&Co.(分析的状況の双数性)がまとめて批判の対象になる。逆転移が鏡の比喩に帰され、転移の解釈、分析家への同一化(分析家を「現実」=規範とする立場)が退けられる(同一化とはシニフィアンへのそれである)。エルンスト・クリスが分析している剽窃衝動の患者(症例の発表者マーガレット・リトル本人)、長身コンプレックスの露出症患者、「肉屋の女房」(「われらが霊的なる spirituel ヒステリー者」)といった、これまでにとりあげられた症例が回顧されるのにくわえて、ラカン自身による強迫神経症の症例が紹介される。

 剽窃衝動について、クリスは幼児期の窃盗の反復というじゅうらいの解釈をしりぞけ、剽窃が事実でないことをつきとめたうえで衝動は欲動への防衛であるとしている。ラカンによれば、患者は何も盗んでいないのではなく、「無」を盗んでいるのであり、この着眼においてクリスは拒食症(無を食する)の認識を先駆けている。「肉屋の女房」(ファルス=魚)に即して夢は欲望の隠喩であり、キャビアへの欲望が「存在欠如の換喩」であることが確認され、分析家たちが欲望を要求に還元していることが批判される(分析家は患者の要求に応えてはならない。たとえ治療への要求であっても。分析家は要求を受けとめ、これを欲求不満の状態に置く。愛というもっていないものさえ分析家はあたえない。この無は分析家にたいして支払われねばならない。それもなるべく高値で)。

 ラカン強迫神経症患者(愛人に他の男と寝ることを要求する性的不能者)のケースにおいて、愛人の夢(夢のなかでかのじょはファルスをそなえている)は患者の要求ではなくその彼方にある欲望に応えている。愛人が患者に[分析家にたいするように]夢を語るということが重要だ(「欲望を文字どおりに à la lettre とらなければならない」、つまり欲望は言語的に分節されている)。ブルース・フィンクによれば、欲望とは<他者>の欲望ゆえ、愛人の夢における欲望は患者の欲望と同じである。ラカンは言う。夢の中でファルスをもっていることが愛人に性的魅力をあたえるのではない。患者の欲望はファルスをもつことではなく、ファルスであることだから。愛人の欲望は、じぶんがもっていないものを患者に見せることで患者の欲望に一歩を譲る[ファルスを譲る](le céder)。愛人は夢の中でファルスをもっていても依然としてファルスを欲望している。このことが患者の存在欠如を照らし出す。欲望の困難?否、むしろ「欲望というものが困難そのものに由来している」。夢の中で愛人がファルスをもっているので患者はファルスをとりあげられる心配がないとするのは的外れな見方である(そのことは完全に保障されているので何の保障にもならない)。強迫症者の欲望の条件はその対象が密輸品(contrebande。フィンクによれば bander にひっかけてある)であることだ。密輸とは「その本性(nature)の否認によってしか思い描かれることのない特異な恩恵の様態」である。つねに面会待ちの状態であり、それにあずかるのはその恩恵を厄介払いすることによってでしかない。

 

 分析においては分析家もまた支払いをする。言葉(mots)[解釈]によって。その人格(personne)によって。そしてなによりもその「存在」によって。つまり「最深部の判断におけるもっとも本質的なもの」としての(Kern unseres Wesens)。「分析家が介入すべきなのは(prendre son niveau opératoire)存在への関係においてである」。「分析家の存在」についての問いはフェレンツィに遡る。フェレンツィが取り込みの対象とみなした分析家のひとがら(personne)とは、幻想としての人格ではなく、分析家の「現前」ぜんたいをカバーしている。分析家の存在への同一化(「存在への情熱」)は存在欠如を隠蔽し、「存在の不幸」を招く。もっとも、精神分析によって患者に幸福をもたらそうと考えることはそれじたい間違ってはいない。現代は幸福の定義そのものがむずかしい時代だから。

 「抵抗とは分析家の抵抗である」ことが想起させられ、分析家の情熱(愛、憎悪、無知)が語られ、「分析家の欲望」概念が提示され、さらに欲望の「倫理」の必要性が説かれる(これは、欲望の不合理性が現実界の特性に送付されているくだりどうよう『倫理』のセミネールを経て加筆された部分だろう)。

 分析家たちはアクティング・アウトをネガティブにとらえ、「羞恥」の対象としているが、ラカンは幻想と連続的にとらえている(いずれも演技、演出に関わる)。『無意識の形成物』でも確認されたごとく、幻想は想像的な囚われのランガージュによる演出であり主体化であって、それゆえ幻想を想像力に帰すクライン的な観点は退けられる。言語的構築物であることについては症状についてもおなじである。フロイトは症状が重層決定されているとくりかえし述べているが、「重層決定とはランガージュの構造においてしか想定されない」のであってみれば、これはあるいみで同語反復であるといことになろう。

 本論文を締め括る語は”Rien”である。フロイトはその死(『終わりなき分析』)に際して「存在」の場にこの「無」を置いた。

 主体がロゴス(Logos)によって分節される分裂(Spaltung)に際しては、生が支払う血まみれの肉片がシニフィアンのなかのシニフィアンとなる。

 

強迫神経症あるいはファルスの言語的破壊:『無意識の形成物』(了)

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 第XXII講(14/05/1958)〜第XXVIII講(02/07/1958)

 

 セミネールの残りの四分の一においては、主として強迫神経症についてのモーリス・ブーヴェの諸論文にそくしてファルスが考察される。

 ヒステリー者が理想への同一化という「迂回」を経るのにたいし、強迫症者は要求の彼方の欲望それじたいを[ダイレクトに]めがける。ヒステリー者とどうよう、強迫症者は満足させられない欲望を必要とする。強迫症者は欲望を<他者>によって禁じられたものと位置づけることでこの<他者>に欲望を支えさせる。ヒステリー者は想像的な他者への同一化によって<他者>の欲望を維持しようとするが、強迫症者はじぶんの欲望を守るためにそれが基づいている<他者>の欲望を「否定」する。「<他者>の欲望は分節化され、象徴化されているが、Non という記号を付されている」。強迫症者において問題になのは欲望の維持ではなくその取り消し(annulation)である。想像的な他者のファルスを破壊することである。ところで「取り消しについて語ることができるためにはシニフィアンが問題になっているのでなければならない」。強迫症者が想像的な競争相手のうちに「破壊」しようとするのはシニフィアン=ファルスである。「おまえなんかナプキンだ……」という幼き鼠男の呪詛の言葉は、シニフィアンを無生物的な対象へと失墜させる(強迫症において問題になるのは[父という]卓越したシニフィアンの失墜である)。強迫症者の取り消す要求は[<他者>への]「死の要求」である。強迫症者の欲望は[対象に接近するにつれて]消尽する欲望という逆説的なものである。フロイトが強迫症者に帰した欲動分離(Entbindung)とは、<他者>の欲望の維持と破壊の配分のさじ加減を説明する概念であると考えてよいだろう。

 ブーヴェは強迫症者における「対象との距離」の取り方を問題にしているが、正しくは「みずからの欲望への距離」と言うべきである。「神経症は対象ではなく、主体の行為とふるまいのなかにある分析的な構造である」。神経症の構造によって主体の「人格」全体が規定される。「人格」とは「行動のなか、<他者>や他者たちとの関係のなかにつねに同じであるのが見出されるある種の運動、一つの区切り」であり、「強迫あるいはヒステリー的な行動の総体は一つのランガージュとして構造化されている」。

 ウィニコットは幼児にとっての問題が欲求不満から脱することではなく欲求の満足から脱することであることに気づいている(ようするに移行対象がシニフィアン・ファルスであることに)。

 

 アクティング・アウトの無動機性は非心理学的であり、そこにはシニフィアン的な要素がある。そのかぎりでアクティング・アウトは幻想に通じる。幻想とは「シニフィアンのある一定の使用のうちに捉え込まれた想像的なもの」である。

 

 症状はシニフィエである。「生命はみずからをおそるべき統覚のうちで、その全体的なよそよそしさ、その不透明な乱暴さにおいて受け止めるなかでじぶんじしんを、生命自身によってたえがたいようなある存在(existence)の純粋なシニフィアンとして把握する」。症状とは「純粋状態のシニフィアンとして生命にたいして生命から現れてくるもの」である。

 

 Wo Es war, soll Ich werden の意味が、「私はファルスである」ではなく「私はシニフィアン的分節においてファルスが占めている場所にいる」ということであると解釈される。

 

 最終回の講義の調子は翌々年の『精神分析の倫理』を先取りしている。「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」が「Tu es celui qui me … tu (tues) es celui qui me…」に送付される。

 

シミュラクルもしくは魚としてのファルス:「ファルスの意味作用」

*「ファルスの意味作用」(La signification du phallus / Die Bedeutung des Phallus, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 ミュンヘンのマックス・プランク研究所においてドイツ語で行われた講演を「変更を加えずに」筆記したものとされるが、ラカンのこういう但し書きはたいしてあてにならない。原稿を読み上げるかたちで講演したのだとしてもかならずあとで手を入れているのではないか。たとえばあくまで一例だが、688頁最終段落で調子がきゅうに書き言葉ふうに変わっているような気がする。あやしい。

 

 冒頭、去勢複合が nœud の機能(函数)によって定義される。

 第一に、「症状」として分析可能な「結び目」であるといういみにおいて(『無意識の形成物』で述べられていたように症状とは分析可能なものすべてをいみする。ラカンは症状という観念を神経症に限定せず、倒錯と精神病にも拡大している)。すこしあとのくだりでは、症状の構造の分析にはトポロジーが不可欠であるとされている。

 第二に、性の引き受けにおける「節目」であるといういみにおいて。

 

 ファルスの現れの四つの局面が整理される。(1)女児が奪われているものとして(2)母に具わっているものとして(3)母が奪われているものとして(4)クリトリスとして(男根期)。

 ついでに男根期を特殊事例に格下げし、ファルスの優位を否定するジョーンズらが批判される。とはいえジョーンズのアファニシス概念は、去勢と欲望の関係を問うていることにおいて意義がある。

 

 フロイトの発見の意義がシニフィアンの優位にあることが確認される。

 意味しうるもの(signifiable)は、シニフィアンの能動的な(actif)機能によって印(marque)を刻印され、この受難=受動(passion)によってシニフィエとなる。この「シニフィアンによる受難」が「人間の条件の新たな次元」(「人間のなかで ça が語る」という次元)を特徴づける。 

 

 そのうえでファルスがシニフィアンとして定義される。ファルス(La phallus)は機能である。ファルス(le phallus)は幻想でも現実的対象(クライン)でも器官でもなく、ルクレティウス的なシミュラクルである。690頁あたまの la については諸説あるようだ(ジェーン・ギャロップ『ラカンを読む』)。

 

 「分析の主体内のエコノミーにおいてファルスの機能は神秘劇(les mystères)においてかぶっていたヴェールをとる。というのはファルスはシニフィエの諸効果全体を指し示すためのシニフィアンであるから」(Ecrits, p. 690)。

 

 じつにわかりにくい。ヴェール(voile)は本論文のキーワードであり、このくだりでとつぜんでてくる。もっと先のくだりでは(692頁)、「ファルスはヴェールをかぶった状態においてしか機能しない」と言われているからややこしい。後者のくだりはファルスをレエルな男根のイマジネールな形態によって理解しようとする見方への警告であるが、とりあえずファルスはその「機能」に還元されていること、また去勢複合のなかでその現前によってではなく欠如において問題になる何かであることを確認しておこう。

 

 また、ラカンシニフィアンについてしか語らないという印象があるが、本論文および『無意識の形成物』ではけっこうシニフィエという言葉がでてくる。「シニフィアンの効果」ならまだしも「シニフィエの効果」というのははて如何に?

 とおもったら、案の定これより五日後のセミネールにつぎのようなくだりがみつかる。「ファルスはとくしゅなシニフィアンであり、それはシニフィアンの塊(corps)において、シニフィエにたいするシニフィアンの諸効果それじたいを全体として指し示すことに特化している(spécialisé)」。これならわかる。たとえ言い間違いでないとしても、とんでもなく圧縮された表現と言わざるを得ない。

 

  とりあえず、ファルスが“ヴェールをかぶっている”とは、欲求が要求によって歪められることに関係しているらしい。この事態が「原抑圧」と同一視されている。そしてそのあとに「蘖」(rejeton)として残るのが欲望(Begehren)である。「蘖」の原語はフロイト読者にはおなじみの Abkömmling であろうか。また désir に相当する語として Wunsch ではなく Begehren が使われているのはドイツ語話者の受講者からの示唆によるようだ(『無意識の形成物』参照)。

 かくして「純粋な喪失の権能」たる欲望は、要求の「無条件性(inconditionné)」を「『絶対的』条件」に変える。

 

 <他者>としての主体は「欲望の原因」の場を占める(tenir lieu=代理する)。「ジッドの青春」につづいて、ここにも対象(a)の観念の萌芽がみてとれる。

 

 「ファルスは[シニフィアンにたいする主体の関係が刻み込む]痕 marque の特権的なシニフィアンであり、そこにおいて理性(logos)の取り分(part)が欲望の到来と結びつく」。

 

 「ロゴス」は幕切れの一節にも登場する。「[フロイトは深遠な直観にしたがってリビドーにはひとつしかなく、それは男性的なリビドーであると述べたが、]ファルス的シニフィアンの機能[函数]はここでそのもっとも深遠な関係へと至りつく。古代人がそれによって Noυs と Λoγos を受肉化していた関係である」。

 シニフィアンとしてのファルスはまた「欲望の raison(比率)」をあたえるものであるとも定義されている。ラカンハイデガーに倣ってΛoγos をシニフィアンと理解していることはすでに確認した。Noυs はここでΛoγos と同一物と理解してよいのであろうか。

 

  「ファルスがその役割を果たすのはもっぱらヴェールをかぶってのことである」なるくだりを先に引いた。そのつづきはこうである。「つまり、どんな意味可能なもの signifiable もこうむっている潜在性のしるし signe そのものとして。ファルスがシニフィアンの機能へと高められる(aufgehoben)ときからそうなるのだ。ファルスはその消失によって切り開くことになる(inaugurer, 括弧して initier とも添えてある)Aufhebung そのもののシニフィアンなのだ」。

 

 つづけてこうある。「それゆえに古代の神秘劇(mystère)でファルスがヴェールをとられるまさにそのときに Aιδωs(羞恥) のダイモンが現れるのだ(cf. ポンペイの Villa の名画)」。つまり間一髪ファルスはヴェールをとらずにすむ。

 

 ファルスは「ある」と「もつ」の弁証法によって規定される。母親のファルスで「ある」ことで母親の欲望を満たそうとする。現実的なファルスを「もつ」に至っていないので、もっていないものをあたえようとする、云々。

 ここまではよいとして、「性関係」の「構造」においては、「ある」がファルスというシニフィアンにおいて主体に「現実」をもたらすのにたいし、「もつ」は relations à signifier を「非現実化」するという。これは「みせかけ paraître」が「もつ」にとって代わり、[男性において?]ファルスを保護すると同時に[女性において?]ファルスの欠如を隠すことに寄与するからであるらしい。これが男女両性における挙措の理想的・類型的発現を促す効果を生む。それは「喜劇」において確認される。この理想において欲望が愛にとって代わられている。

 『無意識の形成物』において愛は「新喜劇」(『女房学校』がその頂点)の領分であるとされていた。女性の仮装(mascarade)は、ファルスになることで女性性を放棄していることを隠すことにやくだっているのだろうか(『無意識の形成物』で扱われたジョアン・リヴィエール論文によればそうとれる)。このあと、フロイト「愛情生活のもっとも一般的な蔑視について」をふまえつつ、フェティッシュ、不感症、不能、同性愛といったトピックへの言及があり、男性は不実を本性とし、女性はみせかけを本性とするといったことが暗示される。

 

 ブルース・フィンクによる英訳書に、ラカンはよくファルスを魚に譬えるとの訳注あり(“Le poisson ne se laisse pas noyer...”)。

 

女性性の本質化に抗して:『無意識の形成物』第XV講〜第XXI講

 

 女児のエディプス複合にかんし、ペニス羨望は三つの局面について想定しうることが確認される。(1)クリトリスがペニスであってほしい。(2)父のペニス。(3)父の子供。(1)は「去勢」、(2)は「フラストレーション」、(3)は「剥奪」に相当する。ジョーンズ「女性のセクシュアリティの初期の発達」(1927年)が検討され、女性性は作られるのではなく生来のものであるとする本質主義および女性器官固有の満足がエディプスに関与しているとする「自然主義」が批判される。ジョーンズはペニス羨望を恐怖症のいっしゅに帰し、女性の「ファルス的態勢」は「迂回」にすぎず、女性はこれを通過した後、生来の口唇的態勢へと復帰し、ここから膣的態勢へと入るとする。ラカンによればジョーンズは男性性もまたエディプスの隘路をとおして「作られる」ことを理解していない。「女性にとって重要なのは始原的にあたえられた女性的態勢を現実化することではなく、ある一定の交換の弁証法のなかに入ることである」。「男性はエディプスの関係を構成するあらゆる禁止がシニフィアン的に存在するという事実によってその弁証法から遠ざけられているが、女性は交換の対象となるという資格において婚姻と親族関係の交換のサイクルのなかに書き込まれる」(第XV講)。

 同一化という主題への着手が予告される。ファルスはエディプス複合よりも広い範囲を包括することが確認される(クライン的な前エディプス期においてもファルスが機能している)。エディプスの出口となる自我理想の形成にかんして、自我理想が自我の同一化(理想自我)ではないことが確認される。フロイトは『ナルシシズムの導入にむけて』においてきわめてわかりにくいかたちでではあるが、これを指摘している。自我理想は主体にとって攻撃的であったり抑鬱的であったりするものへの同一化であり得る(『集団心理学と自我の分析』)。自我理想は亡命者にとっての祖国のようなものである。それは外的な対象ではなくて主体じしんのなかの余分な要素である。自我理想は超自我でもない。自我理想はシニフィアン的要素(insignes。“記章”)への同一化であるとされる。たとえば「父のような咳」への同一化である。四年後のセミネールで導入される「唯一の特徴」(trait unaire)の概念の祖型がここにある。

 ドイッチュの「The Significance of Masochism in the Mental Life of Women」(1930)およびホーナイの「On the Genesis of the Castration-Complex in Women」(1924)が参照される。ラカンがドイッチュによみとるのは「女性の態勢の重心や主要な満足の要素は、性器的関係それじたいの彼方にみいだされる」、ようするに女性の満足は性器的な満足に限定されないということである。女性は「クリトリスによる享楽の剥奪そのもののなかで確固たるものとなる享楽の態勢から満足をみいだす」。一方、ホーナイは「去勢複合と女性同性愛の連続性」というかたちで男根期を本質的なものとみなしている。ドイッチュもホーナイもジョーンズ的な本質主義を免れている(第XVI講)。

 『トーテムとタブー』が参照され、「父殺しが隠しているのは死とシニフィアンの出現とのあいだにある密接な絆(lien)」であることが確認される。「一つの死が記憶されるためにはある絆がシニフィアンとされており、その死が現実のなかで、生の充溢のなかで別な仕方で存在するようになっているのでなければならない。死の実存というのはない。あるのは死者たちであり、それがすべて」。「欲望とシニフィアンを[有機的に]結びつける(conjuguer)」ことで、フロイトは「[有機的な]結びつき(conjugaison)というカテゴリー」そのものを導入した。

 主体は欲望するということにあずかる(jouir de désirer)。これが享楽の本質的次元である。こうした認識はサルトル実存主義によって部分的に先駆けられている。

 ジョーンズは去勢複合をアファニシスというより包括的なカテゴリーのひとつのあらわれに帰そうとしている。

 「人間主体は切り離されたものとしてのみずからの存在そのものにたいする関係のうちにある」。問題は[現実的な]対象にたいする関係ではなく欲望にたいする関係である。対象(a) 概念を先駆けるような指摘だ(第XVII講)。

 「症状」とは「分析可能なもの」すべてを指す。

 「欲望が分節化可能ではないからといってそれが分節化されていないことの理由にはならない。欲望はそれじたい分節化されている。だからといってそのことは欲望が分節化可能であることをいみしてはいない」として欲望と要求の差異が確認される(第XVIII講)。両者の分裂(Spaltung)はつづく第XIX講において詳述される。

 「肉屋の女房の夢」が参照され、満たされない欲望にたいする欲望のうちに欲望と欲求の「裂け目」が確認される。患者は愛を要求し、キャヴィアをもらわないことを欲望している。かくして欲望は他のものの欲望である。このことがドラ症例において確認される(第XX講)。

 ファルスはその美によって魅了する形態ではない。ファルスは欲望のシニフィアンであり、重要なのはその「意味作用」である。「静かな水の夢」においては、欲望それじたいのシニフィアンであるファルスが現前している。そこではファルスがアスパラガスを「もたない」(Das ist nicht mehr zu haben.)というかたちで登場している。ファルスは欲望の対象ではなく欲望のシニフィアンである。すなわち「もう手に入らない」は現実的対象の「拒否」(frustration)として経験されるのではなく、ひとつの「意味作用」である。「対象欠如そのもののシニフィアン的分節」である。ファルスで問題になるのは[夢における言葉のように]ランガージュのレベルで分節化される。この同じ患者は「無邪気な夢」において、じぶんがそれであるもの(ファルス)であろうとしないと欲することによって、ヴェール(仮面)の向こう側にファルスというシニフィアンを欲望している(第XXI講)。

 そしてこの二日後の五月九日、ミュンヘンにおいて「ファルスの意味作用」と題された講演が行われる。

 

享楽の最初の一グラム:『無意識の形成物』第XIV講

 

 というわけで、セミネールは享楽と欲望の関係という問題の提起によって再開される(1958年3月5日)。

 クライン派ジョアン・リヴィエールの「仮装としてのフェミニティ」が俎上に載せられる。幻想における両親にたいする優位(父を去勢しそのペニスを奪ったこと)への[男性による]復讐をかわすために女性性(ペニスをもっていないこと)をひけらかす――みずからを性的に提供する――女性たちがいるとする興味深い論文。

 このケースにおいて、享楽は幻想における両親への優位にある。主体はこの享楽を承認させるべく<他者>へと訴え出る(procès)。これによって「存在はじぶんじしんの実存から引き裂かれる(se diviser)。人間主体の運命(sort)はじぶんの存在記号(signe d’être)との関係に由来している。この記号はあらゆるしゅるいの情念の対象であり、この訴訟において死を現前化させる。この記号との関係において、主体はじぶんじしんから引き離され、じぶんじしんの実存とのあいだに、創造行為において、みたところ唯一無二の関係をもつことができるようになる」。享楽(「存在」)をシニフィアンの篩にとおした結果できあがるのが欲望(「じぶんじしんの実存」)というふうに解釈すればよいのであろうか。つづきを引く。「この関係はマゾヒスムの最終的な形態である。マゾヒスムによって主体は実存することの苦痛を理解する(appréhender)」。享楽についての問いはとりあえずここでマゾヒスムという概念に至りつく(「カントとサド」への序曲)。

 このあと前号でとりあげたジッドのケースがコメントされ(グリブーユへの同一化に「実存の苦痛」のあらわれがみてとられる)、ジッドの「喜劇」が、刊行されたばかりのジャン・ジュネ『バルコン』の分析へと繋げられる。

 まず「悲劇の本質」が定義される。「古代ギリシャにおいて、悲劇はパロールにたいする人間の関係を表していた。この関係が人間を宿命のうちにとらえる。この宿命は人間をシニフィアンの法に結びつけている連鎖が、家族の水準と共同体の水準とで異なるために葛藤を生じさせる」。喜劇においては「主体のパロールにたいする関係」が別のあらわれ方をする。喜劇は悲劇という「聖体拝領」(その栄養 substance)のおこぼれにあずかる(jouir)。喜劇は「陪餐のあとの出し物」である(じっさい、喜劇はながらく悲劇のいっしゅの口直しとして演じられてきた)。つまり喜劇は悲劇[の残り物]を“享楽する”。喜劇は「主体の主体じしんのシニフィエへの関係を表に出す(manifester)」。主体のシニフィエとはつまりファルスである。

 『バルコン』を「喜劇の傑作群のきわめて特異で常軌を逸した(extraordinaire)再生」たらしめているのは、とりあえず舞台上にころがる革命の闘士の去勢された男根というかたちで現前するファルスである。『バルコン』においては、人間主体を疎外する象徴的な諸機能(教会、司法、軍事、警察)が「突如として喜劇の法[則]に身を委ねる」。問われているのは、こうした機能の「恩恵にあずかる=享楽する」(jouir)ことのいみである。かくしてジュネは司祭と裁判官と将軍と警視総監をすぐれて享楽の場たる娼館に集わせる。娼館の外では革命の嵐が渦巻いている。この騒乱(bordel)のさなかにあっては逆説的に娼館(bordel)のなかでだけ秩序が保たれている。また革命という状況は、治安維持を機能とする警視総監に権力を集中させる。笑いは、欲望の人であるロジェが享楽の人である警視総監の権力を(コスプレによって)奪取し損ねることから生まれる。ロジェは警視総監の「象徴」つまり機能と、警視総監の「制服」つまりとりはずし可能な「イメージ」とをとりちがえた。ようするに「シニフィアン」と「ファルス」をとりちがえた。

 時間が押していたこともあり、ラカンのコメントは圧縮的でわかりづらいが、一応このように要約しておく。ラカンの自負するごとく「欲望と享楽という重大な問題の手がかり」になりましたでしょうか?

 

 前々号で引いた<他なるもの>(Autre Chose)についての“妄想的”なくだりはどうやら『バルコン』の読書中に生まれたものらしい。

 

 

燃やされた手紙:「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」

*「ジッドの青春 あるいは文字と欲望」(Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 開講中のセミネール『無意識の形成物』の中休み期間(1958年2月)に執筆され、セミネールの後援者でもあったジャン・ドレによる浩瀚な精神医学的伝記の書評として「クリティック」誌に掲載された。媒体を意識したか、ラカンの文体はどこかよそゆきの美文調(la crique qui le craque… あるいは、courtoise / Courteline といった機知ゆたかな頭韻)。

 ジッドは十一歳で父を亡くし、母親の独占的な愛に閉じこめられた。母親は厳格で性的に潔癖な人であり、ジッドも母親にたいしていっしゅの昇華された愛(宮廷風恋愛にも似たそれ)を捧げていた。こうしたジッドにとって、伯母に「誘惑」された経験がトラウマとなった。母親にとっての「欲望された子供」(enfant désiré)であったことのなかったジッドは、伯母の「誘惑」によって遅まきに、かつ「非合法(clandestin)に」「欲望された子供」の位置を占めることになる。こうしたいわば“母”の二重化によって、ジッドは「愛の母」(実母)と「欲望の母」(伯母)とのはざまで引き裂かれる(”Spaltung”)。「欲望を人間化(humaniser)」してくれるはずの父の不在ゆえジッドはこのダブル・バインドの状況から抜け出せない(これまでのラカンの関心がもっぱら“父”の二重化にあったことを想起しよう)。十三歳のとき、年長の従姉マドレーヌ(「大人の侵入[immixtion de l'adulte]」)に泣きながら伯母の不倫について訴えられたジッドは、「愛と憐憫、感激、徳などの入り交じった感情に陶酔し」(『狭き門』)、マドレーヌを守るために自己を捧げんというあるしゅの宗教的な啓示を得る。愛とはじぶんがもっていないものをあたえることである。母親の性的抑圧のせいでオナニスト神経症になっていたジッドは、じぶんが女性にあたえることのできないファルスをマドレーヌにあたえようとする。ドレによれば、この純愛は母親にたいする昇華された愛の再生である(ジッドはマドレーヌが「モレラ」であるとヴァレリーに吐露している)。その根拠のひとつとして、ドレは『狭き門』におけるアリサとジェロームの母親との類似を指摘している。一方、『無意識の形成物』のラカンによれば、ジッドはじっさいに伯母の「欲望された子供」であったマドレーヌに「同一化」することで、じぶんが受け入れることができずにいた伯母の欲望と折り合いをつけようとしているのだ。一方、マドレーヌはマドレーヌで父への無条件の愛を保持するために「白い結婚」に同意する(マドレーヌとの結婚は、ジッドがマドレーヌ=アリアドネの手引きでその父=ミノタウロスを殺すテセウスになることをいみする)。ドレによれば、同性愛はマドレーヌへの「angélisme の裏面」ということになる。ラカンによれば、かくして引き受けられた伯母の欲望によって、ジッドはじぶんが伯母にとってそうであった「欲望された子供」としての少年たちを愛するようになる(ジッドがまさに新婚旅行中に少年愛にふけっていたという事実は象徴的である)。ジャック=アラン・ミレールによれば、ジッドは男性として愛し、女性として欲望(享楽)しているということになる。

 同じく『無意識の形成物』によれば、ジッドの倒錯は自我理想の裏面である。ジッドにとって自我理想はジッドの自我によっていわば主体的に求められたものではなく、かれの「主体をその存在において原初的に構成しているシニフィアン」である「欲望された子供」というポジションを保持する出来事の継起を通じて形成された(この受動性が重要なのであろう)。「ジッドの倒錯は、かれがそうであった少年(=自我理想)しか欲望することができないという点にあるのではなく、従姉によって占められている場所に居座る(se faire valoir)者になるべくみずからに命令することによってしかじぶんを構成することができないという点にある。じぶんのもっていないものをあたえることで、かのじょにおいて、かのじょによって、かのじょにたいしてしか人格として構成されない者に、ということだ」。ここでマドレーヌ宛書簡が重要性をおびる。「文学的人間(hommo litterarius)」たるジッドは、マドレーヌへの手紙というかたちでこの真理を「フィクションの構造において」実現しようとした。「ジッドの青春」の冒頭で言われる「lettre にたいする人間の関係」とはこのことだ。

 マドレーヌは浮気なジッドへの復讐心からジッドからの書簡を焼却する。ジッドはマドレーヌへの手紙をまさに「じぶんの子供」と形容していた。マドレーヌは子供を殺すことで夫に復讐したメーディアのようにジッドに復讐するのである。これは「真の女性の行為」である。これによるジッドの落胆にひとは純愛のメロドラマを読みとってきたが、ラカンに言わせればこれは、じぶんが失いそうになっているのが娘ではなく金庫だと思いこむ「守銭奴」の叫び(「わたしの小箱!」)と同じくらいコミカルな光景である。マドレーヌとの人間関係は失われた手紙へと「物体化」されている(chosifié。岩波書店刊の邦訳では「具体化」というニュートラルな訳語があてられている)。「ジッドの青春」でジッドに「フェティシズム」が帰されているのはそれゆえである。ジッドによれば「同性愛者の愛がどういうものか理解できる者はいない」。それは「防腐処理を施された[時間に逆らって保存された]愛(amour embaumé contre le temps)」である。ここには死の臭いがする。そもそもジッドにとっての官能の目覚めは、三度にわたる “Shaudern” (ゲーテ)の経験に遡る。この存在論的な震撼においてジッドはすでに「死の声」(ラカン)を聞いている。

 マドレーヌへの自己犠牲的な純愛(ドレもラカンベアトリーチェへのダンテ的愛になぞらえている)は、[母による]「愛による包含(enveloppement)」から「享楽の放棄(abnégation)」を引き去る「象徴的減算」(soustraction symbolique)の「剰余」(résidu)であり、「欲望」が天使愛という否定的なかたちで現れたものだとラカンは言う。みられるとおり、当時のラカンにおいて愛と享楽と欲望の関係づけはいまだ厳密化されていない(とりあえずジッドの人生を決定づけているのは「最初の享楽のうちに口を開いた裂け目」である)。本論文執筆後のさいしょのセミネールにおいては欲望と享楽との区別をめぐる議論がなされている。

 ちなみにドレの伝記はマドレーヌとの結婚にいたるまでの時代を対象としており、燃やされた手紙についての言及はない。本論文はドレの伝記とほぼ同時期に刊行されたシュランベルジェの『ジッドとマドレーヌ』(ドレの伝記中に言及あり)を踏まえており、筆者は目を通していないが、このへんはほぼラカンのオリジナルな論点であろう。

 ながねんラカニアンたちに不当に軽視されてきた本論文の重要性を見抜いた(おそらくデリダについで)さいしょのひとりであるジャック=アラン・ミレールは、燃やされた手紙がくだんの「盗まれた手紙」どうよう、「ファルスの意味作用」において導入されることになる対象(a)の観念を先駆けていると指摘している。

 ラカンはドレの文章を讃えつつ、文体を主体(「人」homme)そのものに帰したビュフォン的警句をもじって「文体は対象である」と述べている。これは lettre にたいするジッドのポジションにこそあてはまる。

 ジッドはウージェニ・ソコルニスカの許で分析を受けはじめたがすぐに挫折した。ラカンによれば、ジッド著作になんらかの精神分析的認識が認められるとすれば、それは『コリドン』において直観的に提示されている「リビドー理論の驚くべき要約」を措いてない。

 

革命と退屈と引きこもりの哲学:『無意識の形成物』第Ⅷ〜第XIII講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 精神病についてのギゼラ・パンコフの談話中で紹介されたベイトソンダブル・バインド概念が、母子の想像的関係にみられる根本的ジレンマの認識に照らして評価される。ちなみに「精神病のあらゆる治療の前提となるひとつの問いについて」では、「パパがすき?それともママがすき?」と子供に問う子供っぽい親の話に触れられていた。

 パンコフは同じ談話においてパロールを主体の行為として基礎づける(ようするにパロールの真実性を保障する)パロールはないとし、この審級を「人格」に求めたが、ラカンはこのような「人格主義」を退け、この審級を「法」ようするにシニフィアンとしての「法律の文面」に帰す。法の文面を認可する(autoriser)するものはそれじたいシニフィアンである<父の名>である。<父の名>は「法の座であるかぎりでの<他者>のなかで<他者>を表象するシニフィアン」、つまり<他者>の<他者>、<他者>という「主体」(<他者>は「場」であるだけではない)にとっての<他者>である。

 精神病における Verwerfung がシニフィアン連鎖という「組み版」(typographie)において欠けている文字になぞらえられる。「シニフィアンの空間、無意識の空間は typographie の空間」であり、「トポロジーの諸法則」にしたがっている。

 欲望は他者(「コード」)によって屈折させられる。そのかぎりで欲望は cocu である。「とゆーか、欲望にシニフィアンと褥を共にされたといういみでは主体じしんが cocu なのだ」。

 歴史上のエディプス問題の変遷が回顧され、分類される。(1)エディプスに規範化の機能があるのならば、正常者にもエディプスはあるのか?また、エディプスなき神経症(「母性的超自我」)はあるか?(2)前エディプス期はあるか?(エディプス以前に遡れば遡るほどエディプスを再発見するクラインの逆説)。(3)エディプスは性器段階への到達をいみするか?(エディプスは性の引き受けの規範となるかぎりでの自我理想の形成にかかわる)。

 しかるのち、去勢/剥奪/欲求不満の三項図式および欲望のグラフに即してエディプスの三段階が示される。(1)母の欲望の対象で「有るべきか有らざるべきか?」(2)母の剥奪者としての父の介入(3)[母の欲望を満たす能力を]「持てる者」としての父の自我理想化。

 ここからの帰結。男性は「じぶんじしんの隠喩」であり、女性性は「不在証明」である。男性はすこし滑稽(ridicule)であり、女性はすこし迷子(égarée)である。 同性愛者においては母が父にたいする法となっている(“逆エディプス”)。「メッセージ」と「コード」を繋ぐ父が「排除」されている精神病においては「父が法として介入せず、母から子へのメッセージにたいする“否” というメッセージのなまの介入がある」。

 母親的対象による原初的満足という対象関係論的観点が退けられる。「欲求の幻覚的な満足と、母が子にもたらすものとのあいだには根本的な不一致がある。この裂け目のおかげで子供は対象についての最初の認識を得る」。問題は対象ではなくその欠如であるということだろう。ウィニコット的な「主体の精神病的構築」がアングロサクソン的ユーモア(wishful thinking)に帰される。

 「男根期」論文のジョーンズにはファルスがシニフィアンであることがわかっていない。

 

 「父の隠喩」と題された講義の末尾でラカンはとつじょ妄想モードに入る。哲学者は <他のもの> Autre chose の次元を生み出してこなかった。<他のもの>の例として、ニーチェ的な「日の出前」、「引きこもり(claustration)」、「退屈(ennui)」が挙げられる。フロイトシュレーバー症例で言及した「日の出前」の章には理性と狂気の反転が述べられている。恐怖症は不安への防衛として恐怖という安心に閉じこもる。そして仕事はその規則性が完全に退屈になったときはじめて真剣なものになる。「ひとがどこかにたどりつくと監獄と娼館を建てる。つまり真に欲望がある場所を。そしてなにごとかを待つ。よりよい世界。来るべき世界。かれはそこにいて日の出を待ち望み、革命を待ち望む。とはいえゆめゆめ忘れるなかれ。ひとがどこかにたどりつくとあらゆる仕事から退屈が滲み出す……」。