lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

女性性の本質化に抗して:『無意識の形成物』第XV講〜第XXI講

 

 女児のエディプス複合にかんし、ペニス羨望は三つの局面について想定しうることが確認される。(1)クリトリスがペニスであってほしい。(2)父のペニス。(3)父の子供。(1)は「去勢」、(2)は「フラストレーション」、(3)は「剥奪」に相当する。ジョーンズ「女性のセクシュアリティの初期の発達」(1927年)が検討され、女性性は作られるのではなく生来のものであるとする本質主義および女性器官固有の満足がエディプスに関与しているとする「自然主義」が批判される。ジョーンズはペニス羨望を恐怖症のいっしゅに帰し、女性の「ファルス的態勢」は「迂回」にすぎず、女性はこれを通過した後、生来の口唇的態勢へと復帰し、ここから膣的態勢へと入るとする。ラカンによればジョーンズは男性性もまたエディプスの隘路をとおして「作られる」ことを理解していない。「女性にとって重要なのは始原的にあたえられた女性的態勢を現実化することではなく、ある一定の交換の弁証法のなかに入ることである」。「男性はエディプスの関係を構成するあらゆる禁止がシニフィアン的に存在するという事実によってその弁証法から遠ざけられているが、女性は交換の対象となるという資格において婚姻と親族関係の交換のサイクルのなかに書き込まれる」(第XV講)。

 同一化という主題への着手が予告される。ファルスはエディプス複合よりも広い範囲を包括することが確認される(クライン的な前エディプス期においてもファルスが機能している)。エディプスの出口となる自我理想の形成にかんして、自我理想が自我の同一化(理想自我)ではないことが確認される。フロイトは『ナルシシズムの導入にむけて』においてきわめてわかりにくいかたちでではあるが、これを指摘している。自我理想は主体にとって攻撃的であったり抑鬱的であったりするものへの同一化であり得る(『集団心理学と自我の分析』)。自我理想は亡命者にとっての祖国のようなものである。それは外的な対象ではなくて主体じしんのなかの余分な要素である。自我理想は超自我でもない。自我理想はシニフィアン的要素(insignes。“記章”)への同一化であるとされる。たとえば「父のような咳」への同一化である。四年後のセミネールで導入される「唯一の特徴」(trait unaire)の概念の祖型がここにある。

 ドイッチュの「The Significance of Masochism in the Mental Life of Women」(1930)およびホーナイの「On the Genesis of the Castration-Complex in Women」(1924)が参照される。ラカンがドイッチュによみとるのは「女性の態勢の重心や主要な満足の要素は、性器的関係それじたいの彼方にみいだされる」、ようするに女性の満足は性器的な満足に限定されないということである。女性は「クリトリスによる享楽の剥奪そのもののなかで確固たるものとなる享楽の態勢から満足をみいだす」。一方、ホーナイは「去勢複合と女性同性愛の連続性」というかたちで男根期を本質的なものとみなしている。ドイッチュもホーナイもジョーンズ的な本質主義を免れている(第XVI講)。

 『トーテムとタブー』が参照され、「父殺しが隠しているのは死とシニフィアンの出現とのあいだにある密接な絆(lien)」であることが確認される。「一つの死が記憶されるためにはある絆がシニフィアンとされており、その死が現実のなかで、生の充溢のなかで別な仕方で存在するようになっているのでなければならない。死の実存というのはない。あるのは死者たちであり、それがすべて」。「欲望とシニフィアンを[有機的に]結びつける(conjuguer)」ことで、フロイトは「[有機的な]結びつき(conjugaison)というカテゴリー」そのものを導入した。

 主体は欲望するということにあずかる(jouir de désirer)。これが享楽の本質的次元である。こうした認識はサルトル実存主義によって部分的に先駆けられている。

 ジョーンズは去勢複合をアファニシスというより包括的なカテゴリーのひとつのあらわれに帰そうとしている。

 「人間主体は切り離されたものとしてのみずからの存在そのものにたいする関係のうちにある」。問題は[現実的な]対象にたいする関係ではなく欲望にたいする関係である。対象(a) 概念を先駆けるような指摘だ(第XVII講)。

 「症状」とは「分析可能なもの」すべてを指す。

 「欲望が分節化可能ではないからといってそれが分節化されていないことの理由にはならない。欲望はそれじたい分節化されている。だからといってそのことは欲望が分節化可能であることをいみしてはいない」として欲望と要求の差異が確認される(第XVIII講)。両者の分裂(Spaltung)はつづく第XIX講において詳述される。

 「肉屋の女房の夢」が参照され、満たされない欲望にたいする欲望のうちに欲望と欲求の「裂け目」が確認される。患者は愛を要求し、キャヴィアをもらわないことを欲望している。かくして欲望は他のものの欲望である。このことがドラ症例において確認される(第XX講)。

 ファルスはその美によって魅了する形態ではない。ファルスは欲望のシニフィアンであり、重要なのはその「意味作用」である。「静かな水の夢」においては、欲望それじたいのシニフィアンであるファルスが現前している。そこではファルスがアスパラガスを「もたない」(Das ist nicht mehr zu haben.)というかたちで登場している。ファルスは欲望の対象ではなく欲望のシニフィアンである。すなわち「もう手に入らない」は現実的対象の「拒否」(frustration)として経験されるのではなく、ひとつの「意味作用」である。「対象欠如そのもののシニフィアン的分節」である。ファルスで問題になるのは[夢における言葉のように]ランガージュのレベルで分節化される。この同じ患者は「無邪気な夢」において、じぶんがそれであるもの(ファルス)であろうとしないと欲することによって、ヴェール(仮面)の向こう側にファルスというシニフィアンを欲望している(第XXI講)。

 そしてこの二日後の五月九日、ミュンヘンにおいて「ファルスの意味作用」と題された講演が行われる。