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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

2016-01-01から1年間の記事一覧

イルマのお告げ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第12〜13講

第十二講(02/03/1955) 「夢見る人は、じぶんの夢の欲望にたいする態度においては、内なる共同(une intime communauté)によって結び合わされた二人の人物でできているかのようにみえる」(『夢解釈』第7章「夢事象の心理学」)。ここに読まれる「主体の脱…

イギリス人は斬首される夢を見る:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第10講、第11講

第10講(09/02/1955) フロイト理論の進展の四段階(「草稿」、『夢解釈』、ナルシシズム論、「彼岸」)において、つねに同じ矛盾が持続するのは、この進展が否定弁証法の一形態であるから。「人間存在や人間経験に一貫性と自律的経済を付す象徴の次元」、「…

フロイト思想の誕生:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第8〜9講

第8講(26/01/1955) 「基本概念」としての「欲動」。心身症と対象関係との関係を扱ったペリエの発表へのコメント。対象関係という観念はその前提となる自我と他者のナルシシズム的関係を覆い隠す。「神経症はつねにナルシシズム的な構造によって枠どられて…

メルロ=ポンティからキェルケゴールへ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第7講

第7講(19/01/1955) 前夜のメルロ=ポンティ講演「哲学と精神分析」は、ポンティと精神分析の隔たりを明らかにした。ポンティのゲシュタルト主義は、「了解」「理解」を前提している。これは人間の相互理解の必要性というポンティの政治的関心と関係してい…

ヘーゲルの時代とフロイトの時代の間に起きたこと:『ル・セミネール』第2巻(第5〜6講)

第5講(15/12/1954) イメージしたいという欲求に負けて、主体を実体化するべからず。 「ぼくには三人の兄弟がいる。ポールとエルネストとぼくだ」のようにじぶんじしんを数え入れるかどうかが人間の精神年齢の測定の基準とされている。ところで「主体とし…

機械にできないたった一つのこと:『フロイト理論と精神分析技法における自我』第4講

第Ⅳ講(06/12/1954) 「すべてを創ることによって至上の者は何を創るのか――自らを。しかし、すべてを創る前に彼は何を創るのか――私を」(シェプコ)。 フロイトの「組織立った矛盾」。フロイトの思考の「動き」は完成されることがなく、けっして教義的決定版…

機械論の復権:『フロイト理論と精神分析技法における自我』(第Ⅱ〜Ⅲ講)

第Ⅱ講(24/11/1954) コイレとの会見を踏まえ、メノンが一般に考えられているのとはちがって被分析者というより分析家であるとされる。形式性、一貫性を事とする知であるエピステーメは人間の経験の全領域をカバーするものではない。完全な、人間の経験のア…

自我の発生:『フロイト理論および精神分析の技法における自我』(その1)

* Le Séminaire livre II : Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse, Seuil, 1978. Ⅰ(17/11/1954) 自我についてのフロイト的概念は、コペルニクス的転回を画した。フロイト理論の一般心理学への吸収が告発される。「分…

「存在」のピラミッド:『フロイトの技法論』(了)

XXI(30/07/1954) 「真理は記号の外側に、記号とは別のところにある」。「真理として現れない誤りはない」。「誤りこそが真理の具現化した通常の姿」。「真理はすべて暴かれることはない」がゆえに「誤りというかたちで伝えられるというのが真理の本性であ…

概念と時間:『フロイトの技法論』第19〜20講

XIX(16/06/1954) 「意味作用は意味作用そのものへしか、つまり他の意味作用にしかけっして回付されない」。 キルケーによって豚に変身させられたオデュッセウスの部下のエピソードが召喚され、「豚の鳴き声がパロールになるのは、その鳴き声が何を信じさせ…

言語の存在論:『フロイトの技法論』第18講

XVIII(09/06/1954) 倒錯とは何か? 倒錯とは、スピノザのいう人間的受苦(passion humaine)を純粋化する経験、つまり、「想像的な鏡像関係を構造化する自分自身との分割」へと開かれるという経験である。この「分割」「裂け目」ゆえに、人間の欲望は他者…

サルトルを読め!:『フロイトの技法論』XVII章

XVII(02/06/1954) 母子関係には「裂け目」がない(バリント)。この定義はフロイト的な自体愛の段階を否定している。ウィーン学派は幼児には「対象」が存在しないとするが、経験的にそうでないことは明らかである。対象の概念を、生物と環界との関係という…

個人的な法としての超自我:『フロイトの技法論』XV〜XVI章

XV(19/05/1954) 狼男に即して、外傷の想像的「刻印」(Prägung)の事後的な抑圧によって過去が「象徴」「歴史」へと再統合されるプロセスが確認される。抑圧と抑圧されたものの回帰は同じだから、この過程は分析において生じていることと並行的である。 ハ…

ドラのシーソー:『フロイトの技法論』XIII〜XIV章

XIII(05/05/1954) 人はみずからの欲望について知らない。「無知」は「真理」との相関において理解すべき「弁証法的」概念である。動物の知が生得的(「環界」への「想像的接合」)であるのに対し、人間の基本的欲望は無政府状態にある。……人間は自身を身体…

正常性の脱構築へ:『フロイトの技法論』XI〜XII章

XI(31/03/1954) ルクレールによる『ナルシシズムの導入のために』第二部についての発表。これは自我理想と理想自我との区別がはじめてなされ、昇華と理想化の区別が唯一明示されたテクストである。ルクレールは自我理想が「フォルム」と見なされている点を…

リビドー理論のパラドクス:『フロイトの技法論』IX〜X章

IX(17/03/1954) 「他者に充実した仕方で語るごとに転移がある」。従来、想像的なレベルでの現象であり、分析の障害であると見なされてきた転移がパロールとの関係においてこそ定義されるべきことを確認すべく、ラカンは『ナルシシズムの導入のために』につ…

狼少年たちに花束を:『フロイトの技法論』V~VIII章

V(10/02/1954) この日の講義はジャン・イッポリットの発表に時間が割かれる。『エクリ』所収論文「フロイトの《否定》にかんするジャン・イッポリットの見解への序と回答」はこれを受けたもの。 否定(Verneinung)とは、判断における否定というより、前言…

「自我と他人」:『フロイトの技法論』Ⅳ章

*セミネール第1巻『フロイトの技法論』Ⅳ(1954年2月3日の講義) ラカンはフロイトの論文「転移の力動性について」において抵抗に関し本質的なことが言われているとかんがえる。仏訳には致命的な誤訳が含まれている。そのひとつは、コンプレクスそのものの…