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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

エロスの未来:セミネール第9巻『同一化』(その10)

 

 第XIII講(14/03/1962)

 

 キリスト教(gentils 異教徒)におけるエロス的なものの困難。キリスト教は「ウェヌスとのトラブル」を抱えている。

 

 キリスト教の根本はパウロ的顕現、つまり、父への諸関係におけるある重要な一歩にあり、父への愛の関係はこの重要な一歩である。この関係はセム的伝統が創始した偉大な伝統の乗り越えである。フロイトの思想は父へのこの根本的な関係、原初的な幸運(baraka)に(矛盾した、呪われたかたちでではあれ)結びついている。

 

 エディプスへの参照はともかく、フロイトモーセについての論文によって生涯を締めくくったという事実は、キリスト教的な顕現の根底が、パウロが<法>によって継承させた<恩寵>への関係であることを示している。

 

 わからないのはつぎのことだ。つまり、キリスト教徒はこの顕現に達しえないこと(それにはもっともな理由がある)。そしてそれにもかかわらず、キリスト教徒は、高度に世俗化された形態に還元されてさえ、その権利上の原則がこのパウロ的顕現と無関係ではない公教要理から直接由来しているような社会に生きている。

 

 とはいえ、神秘体 Corps mystique の省察は各自の手のとどくところにないので、亀裂が口を開いており、それゆえにほとんど、キリスト教徒は、セックスをするよりほかに現実的に享楽そのものに近づく術をもはやもたないことによって、正常ならざる、根本的ならざる状態に置かれている。わたしが「ウェヌスとの諍い」と呼ぶ状態だ。というのも、キリスト教徒をこのような状態に置くものとそれ(ça)はかなり折り合いが悪いから。

 

 キリスト教に同化した地域、つまりキリスト教に改宗させられた地域ではなく、キリスト教的な社会の影響を被った地域に入るとそれはとても顕著だ。1947年にエジプトのガイドとした会話を思い出す。その言説にはエロス的問題が前景化していたが、女性におけるエロス的なものは口にされず、女性という対象は満足をあたえないものとされていた。伝統の諸規範ゆえに。

 

 

 

 エロティックなものにとってのこうした規範をいかに考えるべきか。たとえば、現代社会における結婚制度の持続を正当化する必要があるか。その正当化のためにはヴェステールマルク[『人類における結婚の起源』の著者]がしているような議論は不要だ。結婚制度は現にあるその持続によって正当化されている。[生産]諸関係を問い直した気になっている共産主義社会において結婚制度はプチブル的特徴を刻印されている。革命は結婚の必要性を微塵も変えなかった。

 

 結婚の必要はわれわれの生存の本質的に社会的な特徴である。結婚の帰結である不満足の問題はまったく解決されていない。人間主体は、人間であるというただそれだけのことによって、結婚の法則によって恒常的な葛藤を強いられる。神経症の存在がそれを証言している。

 

 神経症とは何か。神経症の威厳とは何か。人間的な弱さをそこに帰す見解は安易である。社会組織そのものの弱さが神経症者に帰され、神経症者は「不適応者」とされるのだ。われわれが神経症者から学ぶべきことに由来する権利、威厳は、神経症の構造である。神経症者の欲望はわれわれの欲望と同じである。神経症者の威厳は知ることを欲していることだ。神経症精神分析を導入したのだ。精神分析の発明者はフロイトではなくアンナOであり、その背後にはわれわれ全員がいる。神経症者は何を知ることを欲しているのか。神経症者が知ることを欲しているのは神経症者が被っているもの(passion)におけるレエルなものだ。すなわちシニフィアンの効果におけるレエルなものだ。人間における欲望はシニフィアンとそこに書き込まれる諸効果との関係において以外に思考不可能である。

 

 神経症者はそのポジションによってこのシニフィアンである。生ける神経症として。神経症という暗号が神経症者を一つのシニフィアン以上のなにものでもないものにする。というのも神経症者が奉仕している主体は他所にあるから。つまり無意識である。それゆえに神経症者は、神経症として、一つのシニフィアンなのだ。つまり神経症者は隠された主体を代理表象している。しかし何に向けてか?いまひとつのシニフィアンに向けてだ。神経症者をそのものとして正当化するもの、分析において神経症者を「価値づける」(ラガーシュ)ものは、かれの神経症がエロス的なものについての言説の到来をを促すかぎりにおいてである。神経症者はそれについて何も知らず、知ろうともしない。われわれはエロス的なものをめぐって精神分析の意味作用について解明しよう……。未来のエロス的なものについては詩人たちの探求に待つべし。その先駆はアルノー・ダニエルらの宮廷風恋愛にあるかもしれない。これは昇華に関係がある。

 

 フロイトの言説における昇華はひとつの矛盾と不可分。つまり、享楽の目標は、あるいみで昇華のはたらきのうちに実現している。享楽には抑圧がなく、消去(effacement)がなく、妥協さえもない。逆説があり、迂回がある。享楽が獲得されるのはいっけん享楽に矛盾する諸方途によってである。

 

 享楽のメディウムシニフィアンであり、それゆえに享楽の根底である<もの>への到達が可能となる。宮廷風恋愛における貴婦人の奇妙な側面がここに由来する。われわれはもはやそれほどまでにひとつの生身の主体をひとつのシニフィアンに同一視できないので、この側面を信じることがもはやできない。ダンテにとってベアトリーチェという人物は叡智そのものであった。ダンテがベアトリーチェとじっさいに寝ていたとしても事態はなんら変わらない。

 

 ここでふたたび問う。何が神経症者を定義するのか。

 

 神経症者はかれがその効果を被っている奇妙な再変容に身を委ねている。つまるところ神経症者は無知(innocent)である。神経症者は知ることを欲している。

 

 知ろうとすることで神経症者は罠にかかる。神経症者はシニフィアンを、かれじしんがその記号であるものへと再変容させることを欲する。神経症者がそれなりの理由で知らないことがある。じぶんが主体としてある事態を生ぜしめることを。つまり、シニフィアンとしてのシニフィアンの到来は、ものの主要な消去 effaçon であるという事態をだ。主体こそがもののあらゆる特徴 trait を消去することでシニフィアンをつくるのだ。

 

 神経症者はこの消去を消去することを欲する。神経症者が欲するのは、それが起こらなかったという事態だ。これこそたとえば強迫神経症者の典型的なふるまいのもっとも深い意味である。神経症者がつねにたちもどる(その効果を廃棄することができないまま。というのは、それを廃棄しようとするかれの努力のいちいちはそれを強めることにしかならないから)ことは、シニフィアンの機能へのこの到来が起こらなかったことだ。起源にレエルなものを再発見することだ。つまり、こうしたことすべてがその記号であるところのレエルなものを。

 

 分析はエロス的なもののもっとも終末論的な目標においてしか構想されない。もっとも正常な(normal)人たちにあってさえ諸規範(norme)が正常に機能していないという事実と折り合いをつけねばならない。ラ・ロシュフーコーは言った。「よき結婚あれども味わいふかき結婚なし」。その後、事態は悪化し、よい結婚さえ存在しない。つまり、欲望という観点から言えば。

 前回終えたところから再開しよう。「剥奪」についてだったね……。(続く)