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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

行為としてのコギト:セミネール第9巻『同一化』(その2)

 

 第2講(22/11/1961)

 

 精神分析家にとって同一化とはシニフィアンの同一化である。

 

 ラカンヤコブソンの亜流であると言われているが、主体の実現におけるシニフィアンの機能の優位を指摘したのはラカンである[らしい]。

 

 ソシュールによれば、たとえ日によって別の車両を使用していても8時45分(ラカンは10時15分としている)パリ発ジュネーヴ行き急行は時刻表という差異の体系中ではつねに「同一」である。この例においてはシニフィアンの組成の連鎖が話す主体をとおして現実界に参入する。これはシニフィアンの同一化としての同一化の法則である。

 

 想像的同一化は鏡面上のイマージュへの同一化である。その変態にあたってサバクトビバッタは分身のイマージュの「いくつかの特徴(trait)」に同一化する。たいして象徴的同一化は唯一の特徴への同一化であるということらしい。

 

 通時性と共時性共時性とはコードのなんらかの想定された主体における潜在的な同時性であるというだけではじゅうぶんではない。それは「知を想定された主体」のひとつの形である。

 

 主体に絶対知を想定すること(ヘーゲル)はできない。分析家はこのような主体をいつも避けねばならない。

 

 コギトが「かれはじぶんが死んでいるのを知らなかった」の夢に送付される。ことは言表行為の主体にかかわっている。一人称によって言表行為の主体にアプローチすることはできるが、そのとき主体は消失する。「わたしはわたしが死すべき存在として生きていることを知らなかった」。これがくだんのフレーズの一人称ヴァージョンである[らしい]が、このことによって「われわれはわれわれの生にとって異質(étranger)」ということにもなる[らしい]。

 

 これはもっとも現代的な哲学的問いの基盤である。ハイデガーにおける死へと向かう存在が想起させられる。

 

 現代的哲学的省察が応えようとしているこうした空虚は精神分析的経験における知らないものとして構成される主体と響き合う。

 

 このような主体はデカルトに遡る。「われ思う、ゆえにわれあり」は隘路ひいては不可能へとたどりつく。この不可能なものによってこそコギトは「重きをなす」(penser と peser は語源を同じくする)。「わたしが何を考えているか」は「わたしがどこから考えているか」を覆い隠す。われわれがそこにみずからを基礎づけるべき純粋な「われおもう」という特権的な地点があるのだろうか。

 

 「われおもう、ゆえにわれあり」は、存在をみずからに保証するためにたえず考えていなければならないことを含意する。とはいえそもそも、「存在すると考える pense être」だけで「考える存在 être pensant」にたどりつくことができるのか?

 

 être pensant とは êtrepenser なる動詞の現在分詞であろうとラカンは洒落をとばす。je pensetre は夢以上の一貫性をもたない。pensetrer  は s’empetrer に帰着させられる。

 

 「ゆえにわれあり」という結論には「われ」が密輸されている。誇張的懐疑はこの「われ」を根本的な揺らぎにゆだねる。

 

 この揺らぎはふたとおりに説明できる。1)トマス=ブレンターノ心理学。すなわち、存在は考えるものとしての自身を交代的に(忘却→想起)しか把握しない。いかなる瞬間にもこの思考に確実性はともなわない。2)デカルトはこの「わたし」に消失的な性質を帰す。「われおもう、ゆえにわれあらず」。ラカンはしばしこれをフランス語の形態論によって説明しようと試み、c’est moi(≠je)、j’sais pas.(無音化)、 je ne sais.(ne は savoir にではなく je にかかる)……そこにはシニフィアンへの主体の関係が関与しているとほのめかす。

 

 分析家はヘーゲル的な絶対知という幻影(知の観念という物質化された虚無。それはあるしゅのSFである)にたいする警戒心が人一倍強い。

 

 デカルト的主題系が論理学的に正当化不可能であるとしても、それは非合理的ということではない。欲望は分節化された事実であるという理由によって分節化不可能であるが、だからといって非合理的でないのとおなじである。

 

 デカルト的懐疑は懐疑主義における懐疑とは異なる。デカルトによれば、懐疑主義的な懐疑は現実界のレベルでなされている。現実界を問いに付すことなくすべてを現実界の枠組みのなかで考えている。そこで問いに付されているのは感覚にすぎない。ヘーゲルの『精神現象学』(知のじぶんさがし)もこの枠組みを出ていない。

 

 しかるにデカルトは主体そのものを問いに付す。デカルト自身はそれを知らないが、そこで問題になっているのは「知を想定された主体」である。精神に可能なもののうちにみずからを認めることが問題なのではない。創設的な行為としての主体そのものが問題なのだ。デカルトの常軌を逸した歩みは「行為への移行」である。

 

 つまりコギトは思考の外へと踏み出し、思考の外部にみずからの立脚点を仰ぐ。かくしてデカルトは神の存在証明へと赴く。そこで導入されるのはいっさいの真理を保証する神である。つまり、神がそう「望めば」(ことは欲望にかかわっている)真理が別様であり得たような神。いっさいの思考(シニフィアン連鎖)をその外部から支えるこの一点をラカンは唯一の痕跡(線 trait unaire)と呼ぶだろう。

 

 消失する主体についてのデカルト的経験の限界においてみいだされるのはこのような保証の必要性だ。それは「もっとも単純な構造の trait」である。それは絶対的に非人格化されたものであり、いっさいの主観的な内容をともなわないばかりか、一なるものであることいがいのいっさいの属性を欠いている。

 

 これこそ自我理想の内実である。伝統的な哲学における理想化された主体にこのような「理想」の機能をとって代えること。根源的なシニフィアンへの主体の原初的同一化。それはプロティノス的な一者とはちがう。唯一の痕跡そのものである。そこに知らないものとしての主体が基づく。