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倒錯者のビー玉、あるいは<他者>の内奥の対象:セミネール第6巻『欲望とその解釈』(その21)

 

 第XXVI講(24/06/2107)

 

 欲動の部分的な性質ゆえ、対象への関係は部分欲動の組み合わせを以ってする。しかるに本能の観念は対象を求心的に捉える。

 倒錯的幻想は倒錯ではない。倒錯を「理解」しようとしてもその構造の再構成には至らない。『ロリータ』におけるi(a)のイマージュの象徴的機能は、作品の構成そのものに表れている。第一部と第二部の強烈なコントラストにおいて。主人公の旺盛な欲望が第二部では減退する。ここには神経症的な幻想にたいする主体の関係が読みとれる。倒錯的欲望は主人公ではなくその脅迫者に現れている。主人公の欲望が他人においてしか生きられないかのようだ。この置き換えは作品に明確に読みとられる。この他人は倒錯者である。対象との関係は主人公のこのようなネガ的人物に委ねられる。倒錯的構造を実現することができるのは外挿法によってだけである。欲望の倒錯的ポジションのうちもっとも根源的なのはマゾヒスムである。マゾヒスム的享楽はその責め苦において一定の限界を超えないことを要請する。この享楽の特徴のいくつかがこの享楽の媒体について明らかにする。そこに<他者>の言説への主体の関係がみとめられる。

 マゾヒストはかれの頭を通り越したところで周囲の人たちがかれの思惑にかかわりなくかれの運命をきめるという受動的な状況をおもいえがくことで享楽する。かれを主題(sujet)とする言説は幻想において明らかになる。この言説においてマゾヒストは無に帰される。これを第一歩として、いっぽうで死の本能、他方で切断(coupure)という支え、その両者の関係が描き出される。このうちの後者は非-存在の支えであり、あらゆる象徴化の根源そのものである。象徴化にとくゆうの機能は切断である。切断は原初的なエネルギーの流れが一連の選択肢に捉えられる「基礎的マシーン」を導入する。このマシーンはスキゾフレニーの原則にしたがって、切り離されたものとして(détaché)、じゃまものをとりはらわれたものとして(dégagé)現れる。そこにおいて主体は生の流れにたいするこのマシーンの不調和そのものに同一化する。

 ここには排除(Verwerfung)の典型的な現れがみられる。切断は言説の一部であると同時に言説の外部にもあるので、主体は切断に同一化するかぎりで排除されている(verworfen)。この切断を主体は恐れ、レエルなものとして知覚する。 

 これはデカルトとは別ヴァージョンの「われおもう、ゆえにわれあり」である。とはいえ、デカルトとまったく切れてはいない。デカルトを越えている点は、主体がかかわる言説が主体を逃れ、主体がそれと知ることなく二者であることだ。主体はこの言説の切断であるかぎりで至上の「われあり」である。この「われあり」の特異性は、言説に区切りを入れる可能性のうちに主体はみずからをとらえるという点にある。主体の本質的な存在はこの特性に宿る。「というのも、主体が世界のなかに根源的に導き入れる唯一のレエルなものの闖入(intrusion)は主体を主体としてはそこから排除するから」。

 神経症は父の隠喩、つまり対象を独占的に(paisible)享楽する父というフィクションを経由する。それゆえに倒錯的なものを犠牲にする。父の隠喩はある換喩の仮面である。法の主体としての、享楽の独占的な保持者としての父の隠喩の背後に去勢の換喩が隠れている。

 息子の去勢は父の去勢の継続であり等価物にすぎない。フロイト的な父の神話の背後に控えるあらゆる原始的な神話がそれを示す。天上の王国に到達するまえに、クロノスはウラノスを去勢し、ゼウスはクロノスを去勢する。

 くだんの換喩のいみは、ただひとつのファルスしか問題でないということだ。神経症的構造においてこれは知られてはならないことだ。神経症者は<他者>の名においてしかファルスたりえない。神経症者はファルスをもたない。これが去勢複合の謂である。それゆえファルスをもっているだれかがいるのだ。神経症者の存在はそのだれかに依存している。

 神経症者の欲望はシニフィアンの善意(bonne foi)に依存している。神経症者はこの神話的な保証人に繋ぎとめられることで平常心をたもって生きていられる。神経症者の欲望は神がいない時代において生まれる。

 神経症者は発つことのない旅の荷造りに没頭している。

 倒錯者においても亀裂が問題になっている。倒錯者の主体も切断においてみずからの存在を表象する。ギレスピー論文「フェティシズム論」「性的倒錯の分析についての覚書」「倒錯の一般理論」の参照が促される。そのsplittingの観念は、亀裂あるいは切断への主体の同一化ということを視野に入れている。ふたつめの論文中のフェティシズムの症例においては、患者が犯した母親がけむくじゃらのゴリラのようないきものとなって歯で患者を二つに裂くという幻想が報告される。生き物の切っ先は患者のそなえている女性の乳首を切り取り、肛門と直腸を足蹴によって引き裂く。この幻想における解体と再構築にギレスピーは去勢不安をみる。母親の原初的な要請、および女性器と裂け目のクライン的同一視。ギレスピーはフロイトの遺稿にインスパイアされ、ここにsplit ego および split object に関係した幻想をみてとる。「女性器は典型的な split object ではないか? split ego の幻想はそれへの同一化に発していまいか」。

 自我の分裂に関してジイドが再召喚される。ジイドにおいて splitting はじぶんじしんの自己愛的イマージュi(a)への同一化と母親への同一化の対立として現れる。ジイドの幻想においては欲望と手紙(lettre)の関係が問題になる。昇華の過程を欲望の象徴において表出される生産物への転換として位置づけること。この生産物は現実をシニフィアン的諸部分へと解体することからなる。「昇華は欲望の袋小路をシニフィアンの物質性へと転換することに存する」。ジイドの同性愛は分裂した対象への主体の関係に発している。一方では自己愛的な対象。これへの関係においてはファルス的属性の現前が重要である。他方で女性への極度に理想化された愛。ここでは母親への関係が関わっている。現実的な母親のみならず、ひとつの構造を隠しもつ母。そこにおいては悪い対象が重要である。

 ジードの二つの幻想が参照される。ひとつはジョルジュ・サンドの短編小説で、木に変身したグリブーユの物語。いまひとつはセギュール夫人の「マドモワゼル・ジュスティーヌの晩餐」で主人の留守に乗じて使用人らがごちそうにありつくエピソード。後者においては切断への主体の関係は性的イニシエーションに関わる。前者の幻想においては、切り離されたものへの主体の関係がファルスへの主体の同一化をあきらかにする。ファルスは母親の内的対象の幻想化である。

 神経症者の換喩においては、主体はファルスをもたないかぎりでファルスである。このことは明らかにされてはならないのだ。それゆえ分析が進むにつれ、去勢不安が高まる。

 いっぽう倒錯においては、証明の過程の逆転がある。神経症者において証明すべきこと(つまり欲望の残存)が倒錯においては証明のベースとなる。いわば背理法の称揚である。

 倒錯者はただひとつの項において「かれはファルスである」と「かれはファルスをもつ」を結びつける。そのためには<他者>へのきわめて特殊な同一化が可能にするわずかな開口部がひつようである。つまり、「かれはファルスである」はこのばあい「かのじょはファルスである」なのだ。この「かのじょ」は原初的な同一化の対象である。かれのほうはファルスを相手のなかにもっている。フェティッシュとしてであろうと、偶像としてであろうと。

 その結びつきは自然的な支持体のなかにうちたてられる。倒錯は切断の自然的擬態(simulation)として現れる。じぶんがもっていないものを主体は対象のなかにもつ。主体がそうでないところのものに、かれの理想的対象がなる。つまり、ある自然的な関係がこの主体的亀裂の素材としてとらえられる。倒錯においても神経症においても問題になっているのはそれを象徴化することだ。主体は母の内的対象としてのファルスであり、かれはそれをみずからの欲望の対象のなかにもつ。これが男性同性愛者のケース。女性同性愛者のばあいはどうか? フロイトの「女性同性愛者」も母親の内的対象としてのファルスである。飛び降りることで患者はこの母親の属性に同一化する。じぶんのもたないファルスという崇敬の対象を同性愛の相手にあたえることでこの相手を最大限に理想化するのだ。

 神経症者は自我を相手のイマージュに置き換えることでじぶんがファルスであることを証明するひつようがない(Φ◇i(a))。同性愛者においては、原初的な象徴的同一化と鏡像的な自己愛的同一化の関係が問題になっている。同性愛者においては、母への原初的関係への象徴的な同一化と最初の諸々の排除(Verwerfungen)とのあいだにすでに分裂(schize)がある。これは鏡像i(a)への想像的な第二の同一化において分節される。これを主体は幻想的関係においてみずからを書き込む項(亀裂)を象徴化するために利用する。

 神経症者においては、<他者>の欲望が主体を恐れさせる。同性愛者においてはぎゃくに、この欲望は母親から生じたファルスのなかにみずからの象徴を見出し、これを核として倒錯の構築のいっさいが組織される。それゆえ<他者>の欲望はなによりも近づきがたいものである。 

 ジイドは母親の人格をこえてその核心(cœur)に同一化する。神経症者においては欲望は際限のない要求の彼方にある。倒錯者にとって欲望はあらゆる要求の核心にある。『一粒の麦もし死なずば』には、くり抜かれた木の節のなかのビー玉をほじくりだすために一年間かけて小指の爪を伸ばすが、いざ取り出して見るとつまらぬ物体に変貌してしまい羞恥に駆られるというエピソードが紹介されている。このビー玉はSublimierung において廃棄された対象の典型であり、内的対象にたいする倒錯的主体の関係を端的に示す。それは<他者>の内奥にある。ここで本質的なのは<他者>(母)の欲望の想像的次元である。欲望のレベルにおいては、倒錯者はファルスの想像的形態に同一化している。