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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

革命と退屈と引きこもりの哲学:『無意識の形成物』第Ⅷ〜第XIII講

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 精神病についてのギゼラ・パンコフの談話中で紹介されたベイトソンダブル・バインド概念が、母子の想像的関係にみられる根本的ジレンマの認識に照らして評価される。ちなみに「精神病のあらゆる治療の前提となるひとつの問いについて」では、「パパがすき?それともママがすき?」と子供に問う子供っぽい親の話に触れられていた。

 パンコフは同じ談話においてパロールを主体の行為として基礎づける(ようするにパロールの真実性を保障する)パロールはないとし、この審級を「人格」に求めたが、ラカンはこのような「人格主義」を退け、この審級を「法」ようするにシニフィアンとしての「法律の文面」に帰す。法の文面を認可する(autoriser)するものはそれじたいシニフィアンである<父の名>である。<父の名>は「法の座であるかぎりでの<他者>のなかで<他者>を表象するシニフィアン」、つまり<他者>の<他者>、<他者>という「主体」(<他者>は「場」であるだけではない)にとっての<他者>である。

 精神病における Verwerfung がシニフィアン連鎖という「組み版」(typographie)において欠けている文字になぞらえられる。「シニフィアンの空間、無意識の空間は typographie の空間」であり、「トポロジーの諸法則」にしたがっている。

 欲望は他者(「コード」)によって屈折させられる。そのかぎりで欲望は cocu である。「とゆーか、欲望にシニフィアンと褥を共にされたといういみでは主体じしんが cocu なのだ」。

 歴史上のエディプス問題の変遷が回顧され、分類される。(1)エディプスに規範化の機能があるのならば、正常者にもエディプスはあるのか?また、エディプスなき神経症(「母性的超自我」)はあるか?(2)前エディプス期はあるか?(エディプス以前に遡れば遡るほどエディプスを再発見するクラインの逆説)。(3)エディプスは性器段階への到達をいみするか?(エディプスは性の引き受けの規範となるかぎりでの自我理想の形成にかかわる)。

 しかるのち、去勢/剥奪/欲求不満の三項図式および欲望のグラフに即してエディプスの三段階が示される。(1)母の欲望の対象で「有るべきか有らざるべきか?」(2)母の剥奪者としての父の介入(3)[母の欲望を満たす能力を]「持てる者」としての父の自我理想化。

 ここからの帰結。男性は「じぶんじしんの隠喩」であり、女性性は「不在証明」である。男性はすこし滑稽(ridicule)であり、女性はすこし迷子(égarée)である。 同性愛者においては母が父にたいする法となっている(“逆エディプス”)。「メッセージ」と「コード」を繋ぐ父が「排除」されている精神病においては「父が法として介入せず、母から子へのメッセージにたいする“否” というメッセージのなまの介入がある」。

 母親的対象による原初的満足という対象関係論的観点が退けられる。「欲求の幻覚的な満足と、母が子にもたらすものとのあいだには根本的な不一致がある。この裂け目のおかげで子供は対象についての最初の認識を得る」。問題は対象ではなくその欠如であるということだろう。ウィニコット的な「主体の精神病的構築」がアングロサクソン的ユーモア(wishful thinking)に帰される。

 「男根期」論文のジョーンズにはファルスがシニフィアンであることがわかっていない。

 

 「父の隠喩」と題された講義の末尾でラカンはとつじょ妄想モードに入る。哲学者は <他のもの> Autre chose の次元を生み出してこなかった。<他のもの>の例として、ニーチェ的な「日の出前」、「引きこもり(claustration)」、「退屈(ennui)」が挙げられる。フロイトシュレーバー症例で言及した「日の出前」の章には理性と狂気の反転が述べられている。恐怖症は不安への防衛として恐怖という安心に閉じこもる。そして仕事はその規則性が完全に退屈になったときはじめて真剣なものになる。「ひとがどこかにたどりつくと監獄と娼館を建てる。つまり真に欲望がある場所を。そしてなにごとかを待つ。よりよい世界。来るべき世界。かれはそこにいて日の出を待ち望み、革命を待ち望む。とはいえゆめゆめ忘れるなかれ。ひとがどこかにたどりつくとあらゆる仕事から退屈が滲み出す……」。