lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

純粋なシニフィアンとしての基本概念:「精神分析とその教育」

*「精神分析とその教育」(La psychanalys et son enseignement, in Ecrits, Seuil, 1966)

 

 フランス哲学協会での講演を基にその紀要に発表された。前年の「1956年における精神分析の状況と分析家の養成」にひきつづき哲学屋さんに向けての一文。しかも分析家の養成というテーマも一緒である。

 

 冒頭、哲学協会という場で話をする必然性が明記される。

 

 「無意識、それは深層[profond]というよりも意識的な掘り下げ[approfondissement]が到達できないところにあるわけだが、その無意識において、それが話す:ひとつの主体が、主体のなかで、主体をこえたところで、『夢の科学』以来、哲学者に問いかけている」。

 

  「ローマ講演」以来のラカンの所論を圧縮した文体で通覧した散漫な構成の論文。かんじんの「教育」という主題についてはつぎのような問いが投げかけられる。

 

 「精神分析がわれわれに教えることをいかに教えるか?」

 

 精神分析の教育は教育の主体への問いからはじまるというわけだ。

 

 さらに、聴衆の哲学徒らをおおいに意識しつつ、

 

 「分析がわれわれに教える、分析に固有な(propre)もの、もしくはもっとも固有なもの、真に(vraiment)固有なもの、もっとも真に固有なもの、もっとも真なるものはなんであろうか?」

 

 この問いにたいするひとつの回答。

 

 「実用的(fonctionnel)ひいては観念的(notionnel)な職業訓練において、視野の狭い教育学は個人(individu)のランガージュへの諸関係を端折ろうとしてきた」

 

 前年の論文に引き続き、国際精神分析協会が槍玉に挙がる。

 

 精神分析の逸脱(心理学化)が「フロイトがみずからの発見と方法の伝達を保持するために設立した」ほかならぬその協会によって「囲われ、守られ、餌をあたえられている」。協会はその権威主義(「<他者>の残酷な擬人化」)によってフロイトの精神的な(spirituel)後継者に道徳的矯正(direction spirituelle)を課している。

 

 フロイトの権威化は、逆説的なことに「みずからのメッセージの純粋に形式的な保存」というフロイトの願いを実現した(ただしそのメッセージのいみあいは著しく歪められている)。

 

 かくてフロイトの「基本概念」は揺らぎのないままである。理解されなかったことによって、ぎゃくにシニフィアンとして伝達されることに成功した。

 

 ここには「基本概念」という特異なフロイト的観念についてのラカンの鋭い洞察がある。

 

 「フロイトは、かれの諸概念、わたしはそれらが他の人文諸科学をはるかに先駆けていたことをすでに示したわけであるが、その諸概念が、柔軟な、とはいえそれらの結び目を解くことなしに損なうことが不可能な――三重否定!――配列[処方]において認知され得る日がくるまではこのよう[理解されないこと]であってほしいと願っていたとおもう」

 

 現在の無理解(「聞く耳もたぬどうしの言説」「不協和音」)は、フロイトの諸基本概念を「媒体」(vehicule)とする真理を抑圧してくれている。「抑圧されたものの回帰」としての真理の「はずかしげな顕現」をうちに隠している。

 

 そして結末の名高い一文がくる。

 

 「その名にあたいする教育に素材を提供するフロイトへの回帰はどんなものであろうと、もっとも隠された真理が文化の革命において顕現する道をとおって起こる。この道はわれわれにつづく者らに伝達するにあたいする唯一の教育(formation)である。それは style と呼ばれる」

 

 ラカンじしんの「文体」がここに根拠をもつ。

 

 「道」(voie)とはフロイトが好んだ比喩である。文中にはつぎのようにもよめる。

 

 「この道はフロイトによってわれわれのためにたんに切り開かれた(tracé)だけではない。この道は端から端までもっとも莫大でもっとも恒常的でもっともみまちがえようのない主張によって敷き詰められている。そのどの頁をでも開いて読んでみるがいい。この王道(route royale)のなりたち(appareil)がみつかるだろう」

 

 文中、真理という語が大盤振る舞いされる。「真理はそこ[想像的なものたち]においてみずからの虚構[として]の構造をあらわれさせる」「かくも真なる(véridique)虚構の構造」。『盗まれた手紙』論に遡るこうした言い回しはもちろん同時期のセミネール『対象関係』で分析されたハンスの「個人的神話」において問題になっていたことでもある。

 

 「真理がそこから現実界に入る間主観性の作用」。「現実界」の定義についてはやはり『対象関係』において着手されたが、いまだその用法には揺れがある。

 

 「真理によって描かれたこの場所は、描かれた場所の真理の序曲となる」。「フロイト的もの」以来すっかりおなじみのキアスム的警句。ここで言われている「場所」とは<他者>のことである。『対象関係』には<他者>を「パロールの場」と定義するくだりがみえる。

 

 『対象関係』における所論はここでもくりかえされる。フロイトは対象の運命を偶然性に委ねたが、今日の精神分析家たちはこの偶然性を環境による決定論に回収してしまう。もしくは発達段階論が「プレハブ式の対象選択」と揶揄される。クラインの「悪い対象」が聖書の「酸っぱいブドウ」になぞらえられているのはケッサクだ。

 

 「シニョレッリ」への言及は次年度のセミネールのかっこうの予告編。