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メルロ=ポンティからキェルケゴールへ:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第7講

 

 第7講(19/01/1955)

 

 前夜のメルロ=ポンティ講演「哲学と精神分析」は、ポンティと精神分析の隔たりを明らかにした。ポンティのゲシュタルト主義は、「了解」「理解」を前提している。これは人間の相互理解の必要性というポンティの政治的関心と関係している。ポンティの「共産主義を理解しなければならない」という論文のタイトルは、逆説的なことに理解の不可能性を前提している。人間の均質さを想定する「理解」という観点に立つポンティは本質的に人間主義者である。ゲシュタルト概念は意識と[「よいゲシュタルト」を創り出す]物理法則との並行性を想定しているかぎりで意識を機械に還元し、意識の優位性を無効化する。この並行性はフロイトが人間存在の根底に見出した葛藤と対立する。

 

 フロイトが発見した反復への傾向は、フロイトにおいて修復への傾向(慣性)と明確に区別されていない。それを記述するスタイルじたいが「循環的な弁証法」を構成している。快原則の「最低」水準とは、システムの平衡におけるそれと文字どおりのそれ(即ち死)という二重のいみあいをもち、それが論評者の混乱の種となっている。フロイトは快原則の彼岸を生体の死のうちに見出したのではなく、生きた人間の体験、人間のコミュニケーション、間主観性のうちに見出した。「フロイトが[生きた]人間について観察したことの中に、かれを生命という限界から抜け出させざるをえなくする何かがあった」。「ほかならぬ生という道によってしかリビドーは死へと引き戻されない」。

 

 フロイトは『狼男』の最後のパートでエントロピー熱力学第二法則)に出会い、死の欲動を予感した。

 電話は情報を計量化し、コード化して伝達し、意味によって伝達しない。つまり、ランガージュとは意味ではなく物質的なものである。ある閾値を境にコミュニケーションが成立しなくなるのであり、これはポンティ的な閉じた主観性という発想と相容れない(マックスウェルの悪魔)。

 

 「快原則とは快がやむことである」。「分析が明らかにするのは、人間にとって基本的な行動が、人間の経験すべてにたいしてもつ本質的な根本的な不調和」。動物は環境と調和しており、その「学習」は適応の完成を目指す。一方、人間における「学習」は、果たされなかった努めを反復しようとする欲望に導かれている。人間にあっては「悪しきゲシュタルト」こそが支配的であり、それが反復を強いる。

 プラトンにおける想起は二元相補的であったが、キリスト教による第三項としての「罪」概念(象徴的次元)の導入以来、反復がこれにとって代わる(『反復』におけるキェルケゴールの「フロイト的直観」)。進歩は必然的に反復を経由する。

 

 反復のイメージとして、「原子爆弾よりも危険な機械」である計算機におけるそれ(フィードバック)が召喚される。各地に転送されて送り手に戻ってくる電報の例(メッセージを末尾まで発信した後、メッセージの先頭がまだ送り手に戻って来ていない)。個々の文面がメッセージの全体に照らしてしか読解され得ないということがいいたいのであろう。機械の最初の経験がメッセージというかたちで機械の中で循環しつづけることで、一つの「ディスクールの輪」が形成される。テレパシーは患者たちがこうしたディスクールの輪に組み込まれた要素となることであり、超自我は「私は父の犯した過ちを絶対に再現すべく定められているというかぎりで私の父のディスクールである」ことである。「誰にもディスクールの連鎖を止めることはできず、私はこのディスクールを他の誰かに歪んだ形のまま伝えるという責務を帯びている」。このような反復欲求は快原則の彼岸において出会われる。人間存在の一部は生の外にあり、死の本能にかかわっている。生そのものがそれに基づけられている。