lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ライブ・イン・ローマ:「ローマ講演」(発表原稿)

*「ローマ講演」(Discours de Rome, in Autres Ecrits, Seuil, 2001)

 

 「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」(じゅうらい「ローマ講演」と呼びならわされてきたテクスト)への導入として1953年9月26日におこなわれた口頭発表、およびその翌日に発表された「質問への回答」の原稿。口頭発表の原稿とは言い条、「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」に劣らず晦渋な言葉遣いで書かれている。ありがたいことに、向井雅明氏によるきわめて正確な試訳がネットで読める。

 

 「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」ではおそらく使われていなかった l’action de la parole という言い回しが頻出する。action という語にはさまざまないみあいが込められていよう。

 

 「さいしょに言葉[Verbe]ありき」に『ファウスト』がつきつけた「さいしょに行為ありき」をふまえ、ほんらい対立的とみなされている action と parole をあえて繋げているところがこのいいまわしの妙であろう。

 

 本論文の眼目のひとつは心理学をはじめとする諸科学による実体化(objectivation もしくは chosification)の批判である。これら諸科学は、ことばを現実界象徴界に切り出すための手段としてしかみなしていない。それにたいし、ラカンはことばそのものが物質性をもち、現実界に影響をおよぼす力をもつと考える(ディディエ・アンジューはそれを「言葉の魔術」と誤解し、この誤解を師匠格のラカンに「投影」した)。諸学においては畢竟、無意識という不可視のものにたいする不安が実体化の傾向をはびこらせているのだ。

 

 action にはいうまでもなく action psychanalytique (論文中でじっさいに使われている)という含意がある。分析とは言語化のプロセスである。これは意識化ということとはちがう。ことばという「媒体」(médium)は、無意識の階層にあるものを意識の階層へと運び上げる「エレベーター」とはちがう。ことばはことばによって伝達される現実と同じく現実(物質)である。

 

 デカルトの「思考」はすでにこうした認識を先駆けている。デカルトにおいて「思考」は、その内容と結びついたものではなく、内容の不在において際立っている。コギトを自我に還元すること(メーヌ・ドゥ・ビラン)はできない。同じ認識は、<<Do Kamo>>(レーナルト)のマレーシア人たちによっても共有されている。

 

 転換症状、制止、不安はそれぞれが独自のトポロジーにしたがって編み上げられた「結び目」(nœud)であり、これはパロールの関数(fonciton)として解きほぐす(dénouer)ことができる。とはいえ問題はこれら結び目のトポロジーを了解すること(ヤスパース)ではなく、じっさいに解きほぐす行為である。症状そのものがことばとして構成されているのであり(「語る病」)、分析は客観化(対象化)によって病からことばをうばうのではなく、病そのものに語らせなければならない。これが精神分析の倫理である。

 

 客観化の逆説を、ラカンはイギリスのことわざを引くことで鮮やかにあばきだしている。いわく、ケーキを置いておくことと食べることとは同時にはできない。

 

 ことばはさらに、主体を基礎づけ(fonder)、創設する「行為」でもある(「ことばの活動は……人間をその正統性において基礎づける」)。まず主体がいて、その主体がことばを発するのではない。ぎゃくである。<一者>(l’Un)に先だって<他者(l’Autre)>の媒介がある(ヘーゲル)。このいみで主体の「はじめに行為がある」のだ。

 

 ことばという素材(matériel)は、もじどおりその物質性においてとらえられるべきである。コミュニケーション理論におけるハートリー単位は、意味を欠いた(insignifiant)空虚な記号ではあっても、その物質性を欠いているがゆえにラカン的ないみでのシニフィアンではない。ラカンが――「唯物論者とみなされることを承知のうえで」――ことばの物質性を文字どおりにとらえよとのべるとき、強調されているのはその物質が占めるべき「場所」である。「場所」の強調は、言語の“座”を脳に還元する「幻影」を退けるためである(脳科学批判)。

 

 返す刀で心理学におけるパロールの多義性とフロイトのいう「症状の多重決定」との混同が批判される。心理学は相補系列、身体側からの対応という概念に名を借りて病因を器質的なものに帰す実体主義に陥っている。

 

 ことばの「場所」性は、同時に存在への問いにかかわっている。われわれはことばに「住まう」というハイデガー的ないいまわしをラカンはたしかにしている。物理学(語源的に「存在者」に由来する名称)は象徴界現実界を了解するための道具とみなしているかぎりで、「存在」についての知をとり逃している。客観化を事とする厳密科学の対抗的科学として、ラカン精神分析を「推測科学」として完成させることを提唱する。

 

 ことばはいってみれば「音波」と同一物の物質である。言語活動の壁という観念が、「音速の壁」というかたちで変奏される。ことばの物質性という認識は、じつはラブレーの「凍りついた言葉」によって見事に先取りされている(ちなみにラカンによればラブレーのこの発想は蓄音機の発明をも準備した)。「精神分析における言語活動とことばの機能と領野」におけるリベラル・アーツと糸巻き遊びへのオマージュがくりかえされ、「機能と領野」のプレヴェールへの参照を受けるかたちでシュルレアリスムへの忠誠が誓われつつ、「ローマ講演」(本篇)はつぎのようなことばでしめくくられる。

 

 「精神分析は真理の泉であるのみならず智慧の泉でもある。……あらゆる智慧は悦ばしき知である。智慧は開かれ、転覆し、歌い、教え、笑う。智慧は言語である。ラブレーからヘーゲルに至るこの伝統を糧にしよう。民衆の歌や街のすばらしい会話に耳を傾けたまえ。あなた方はそこに、個々の人間において人類が顕現する文体を受け取り、パロールを解放する前提となる言語活動の意味を受け取るだろう」。

 

 書を捨て(?)街に出よう。 これこそ l’action de la parole の究極的なメッセージであるといえようか。