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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

「たぶん何も」と「もしかして何も?」:『同一化』第14講(その3)

 

 承前。 

 

 欲望のグラフにおける裂け目は、<他者>への答えの求めが rien peut-être と peut-être rien のあいだで揺れることにある。

 

 以下のグラフ下段がメッセージである。

 

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 メッセージは現実界への主体の参入によって構成される開けとしてわれわれに現れるものへと開かれる。これは可能性(possibilité ; Möglichkeit)にかかわる。可能なものは<もの>の側にではなく主体の側にある。「メッセージは欲望を構成する状況における期待によって構成される偶然性(éventualité)へと開かれる」。「おそらく」(peut-être)における可能性は「無」(rien)という主格(nominatif)に先行している。この「無」はその究極において、肯定性(positivité)の代替(substitut)の価値をもつ。これはピリオドであり、ピリオドでしかない(un point c’est tout.)。trait unaire の位置はここでは欲望の期待にこたえることのできる空虚に割り当てられている。

 

 <<rien peut-être?>> という問いはまったく別(グラフ上段)。「おそらく」は問いに付されている要求(私は何を欲しているのか?)のレベルにある。「おそらく」はここではメッセージのレベルではあり得る答えをなしていたものと同じ位置にくる。

 

 <<peut-être rien>>はメッセージの最初の定式化である。

  <<peut-être:rien>>はひとつの答えでありうるが、これは<<rien peut-être?>>という問いへの答えであろうか。否。ここでは rien という平叙的言表(énonciatif)が結論することの non lieu [免訴]の可能性を立てるものとして、まず、実存の cote に先行するものとして、存在の潜在性(puissance)に先行するものとして、問いのレベルにあるこの平叙的言表(énonciatif)は、問いそのものの無(néant)の名詞化という価値をもつ。

 

 <<rien peut–être?>>という文のほうは、つぎのような可能性に開かれている。何ものもそれを問いとして規定しない可能性、何ものも全体(tout)によって定義されない可能性。何ものも確実ではないことがあり得、結論できないことがあり得(カフカ的『審判』の無限の遡行によらぬかぎり)、結論することの不可能性によって問いが存続する可能性。現実界の偶然性(éventualité)のみが何かを規定することができ、問いの存続によって無(néant)を指し示すこと(nomination)こそ、問いそのもののレベルにおいてかかわっていることである。

 

 <<peut-être rien>>は、メッセージのレベルにおいては、ひとつの答えでありうるが、メッセージはひとつの問いではないのであった。

 

 問いのレベルにおける<<rien peut-être?>>は、ひとつの隠喩でしかない。つまり、存在の潜在性(puissance)は彼方からくる。いっさいの偶然性はそこではすでに消滅している。いっさいの主体性もどうようである。

 

 あるのは意味の効果だけである。意味から意味への無限の送付だ。ただし、分析家はこの送付を二つのレベルに送付することに慣れている。このふりわけがすべてを変える。なんとなれば隠喩は圧縮、つまり二つの連鎖であり、メッセージのさなかに思いがけない仕方で現れ、問いのさなかにメッセージともなる。famille という問いは分節化されて、millionnaire の million のさなかに現れる。メッセージのさなかにおける問いの闖入は、メッセージが問いのさなかに、真理へと導かれる道筋において現れ、真理についての問い(問いそのものであり、問いへの答えではない)をとおしてメッセージは現れるというふうになされる。

 

 言表行為と言表の差異。このような「無の可能性」がこの裂け目を見えなくする。この裂け目は記号からシニフィアンへの移行において具現化している。そこにおいてこの差異において主体を識別するものが現れる。

 

 主体は記号であろうかシニフィアンであろうか。記号である。何の記号か。何ものでもないものの記号である。シニフィアンがいまひとつのシニフィアンにたいして主体を表象するものであるなら(意味の無際限な先送り)、そしてそのことが何かを意味するのであれば、それは、シニフィアンはいまひとつのシニフィアンにたいしてなにものでもないもの(rien)としての主体という特権的なものを表象するから。(つづく)