lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

コギトのパラドクス:セミネール第9巻『同一化』(その1)

*L'identification (1961-1962)

 

 ラカンの最重要作のひとつにしていまだ未刊行のセミネール。複数の受講者のノートを照合して作成された Michel Roussan 版にもとづき“超約”(「要」約でも超「訳」でもない)をお届けする。

 

 第1講(15/11/1961)

 

 これまでの八つのセミネールにおいては主体というテーマとシニフィアンというテーマが「拍動のごとくに」隔年で交互に扱われていた。本セミネールにおいてはシニフィアンにたいする主体の関係がテーマとなる。

 

 同一化というテーマに着手するにあたり、同一である(A=A)とはなにかが問われる。AがAであるのなら、なぜわざわざ分離してA=Aという命題を立てるひつようがあるのか?

 

 論理実証主義においてこれは意味をもたない命題として排除される。一方、ラカンパロールの経験からアプローチしようとする。

 

 自己(moi)の観念は語源的にも同一性(même)を示している(mihilisme)。ここでデカルトのコギトにおける「われ」が召喚される。コギトにおいては存在が主体に内在的であると考えられている。現代哲学はその乗り越えを図っている。デカルトのテクストにおいてコギトはじっさいにはわれわれがおもっているいじょうにfluent でありglissantでありvacillantであって、入り組んでいる。

 

 「伝統的な哲学における主体の観念を支えているのはシニフィアンの実在とその諸効果だけである」。「思考」もまたしかり。

 

 「私とはだれか?」という問題には無意識がかかわっている。

 

 問題は真理ということである。ラカンのある患者はラカンがなぜほんとうのことについてのほんとうのこと(le vrai sur le vrai)を言ってくれないのかという夢を見た。ほんとうの真理(vraie vérité)を期待するなど子供の態度だと言って済ますことはできない。ほんとうの真理はひとつの意味をもつから。精神分析の信憑性はもっぱらこの意味にかかっている。精神分析はほんとうの真理をもたらすものとして世に出た。

 

 分析家の言説のほんとうの真理はどこにあるのかと人は問う。哲学者にたいしてはこのことは問われない。たとえば哲学者(デカルト)は神に不確実な信仰しかもっていないとされるから。

 

 哲学者の信憑性を保証してきたのは二重の真理だ。真理という厄介な問題を持ち出したのは精神分析自身であり自業自得ではあるが……。

 

 コギトにおける主体の同一性の諸関係が検討される。デカルトを乗り越えることが問題ではなく、デカルトが突き当たった隘路から最大限のものを引き出すことが問題なのだ。

 

 コギトはマラルメの摩滅した硬貨のごときものだ。われわれの用に供すべくこれを復元しよう。「われおもうゆえにわれあり」の「われおもう」は思考ではない。

 

 思考は思考についての思考を前提しない。思考は無意識において始まる。

 

 思考は縮小された行為であるとする心理学的説明がある。フロイトもどこかで言っている。思考は自足的な自慰的満足であると(フロイトにはなんでも書いてある)。

 

 「われおもう」というパロールは「われあり」という現前を支えるにじゅうぶんであろうか。

 

 「われおもう」は「私は嘘をついている」と同じくらい論理学的に空虚である。「私は嘘をついている」と言う人は嘘をついていない。とはいえそのように言うことでぎゃくのことを述べているのであってみれば立派に嘘をついている(エピメニデスのアポリア)。

 

 この論理的アポリアはこの言述がそれじたいを対象としているという判断から生じる。そこでは[言表と言表行為の]二つのレベルの区別がなされていない。

 

 全称肯定命題(「すべてのクレタ人は嘘つきである」)の批判として存在否定命題(「嘘をつかないクレタ人は存在しない」)と同じであるというものがある。エピメニデスの言述のいみは、自慢ないしは警告である。

 

 全称肯定命題にはこのような斜に構えた意図がある。アリストテレスの「ソクラテスは死ぬべき運命にある」は解釈の機能について考えさせる。

 

 生身の人間ソクラテスの死はプラトンによる転移が蘇らせるその名声の不死を意味する。また、この言述は死への欲望(acting out)によって定義されるソクラテスの atopie を指しているともとれる。

 

 アリストテレスはこの言述によって知の発展にとっての障害となる転移を厄介払いしようとしていると解釈することもできる。しかしそのためにはプラトン以上の欲望の変形が必要である。近代科学は超プラトン主義から生まれたのであって、アリストテレス的な知の機能に回帰することによってではない。

 

 近代科学の誕生は神々の第二の死を必要とした。ルネサンスにおいて神々の亡霊が蘇り、<御言葉>がその真なる真理をわれわれに示したのだ。その真なる真理が追い払うのは幻影ではなく近代科学の揺籃である意味の闇である。

 

 「われおもう」は判断の意志的な次元を示す。コギトが「わたしは嘘をついている」のようなパラドクスに陥るのは言表と言表行為を混同しているかぎりにおいてだ。真理とはその本質からして彷徨っている

 

 「われおもうとわれおもう」とはドクサでありイマジネールな思考である。「かのじょがわたしを愛しているとわたしはおもう」があてにならないのは周知のとおり。デカルトにおいて「われおもう」はイマジネールであり、それはいかなるものの支えにもならない。

 

 「わたしは考える存在である」も私の実在を導かない。「わたしはいっこの存在である」は、おそらくわたしが存在するために本質的な存在であるということをいみしているだけだ。

 

 「私はわたしがかんがえている[嘘をついている]と知っている」。あるしゅの現象学における主体の観念を支えているのはこれである。精神分析はこの先入観を転覆させる。このような哲学のリミットの彼岸に無意識がある。

 

 コギトに発する哲学的問いにおいては唯一の主体があるだけだ。すなわち「知を想定された主体」である。

 

 ヘーゲル的な現象学においてこのような知を想定された主体は共時的な価値をもつ。絶対知へと導くとされている通時態を構造のひとつの結び目がシャットアウトする。「想定(subjicere)された知」をいかなる主体にも帰してはならない。知は間主観(間主体)的である。<他者>の知であるといういみでそうなのだ。<他者>は主体ではなく場所である。アリストテレス以来、そこに主体のもろもろの権能が転移されるべき場所である。絶対知は主体の知ではなく全知の<他者>の知であるかぎりで存在する。とはいえ<他者>は主体以上に知らないのだ。<他者>は主体ではないという理由によって。

 

 <他者>は知のこのような想定の諸々の表象代表のゴミ捨て場(dépotoire)だ。それが無意識とよばれる。主体は知のこのような想定において喪失される。

 

 主体はそれと知ることなくそれ(ça)をひきずっている。çaとは主体の現実がこれによって苦しむものから主体へともどってくる屑(débris)である。「まさにこれだ(c’est bien ça)」。あるいは「ぜんぜんこれ(ça)じゃない」。実はそれがまさにこれ(ça)なのであるが。

 

 次回はデカルトにおける主体の機能とその精神分析における反響が考察されるだろう。