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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

強迫神経症あるいはファルスの言語的破壊:『無意識の形成物』(了)

*『無意識の形成物』(Le Séminaire Livre V : Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998)

 

 第XXII講(14/05/1958)〜第XXVIII講(02/07/1958)

 

 セミネールの残りの四分の一においては、主として強迫神経症についてのモーリス・ブーヴェの諸論文にそくしてファルスが考察される。

 ヒステリー者が理想への同一化という「迂回」を経るのにたいし、強迫症者は要求の彼方の欲望それじたいを[ダイレクトに]めがける。ヒステリー者とどうよう、強迫症者は満足させられない欲望を必要とする。強迫症者は欲望を<他者>によって禁じられたものと位置づけることでこの<他者>に欲望を支えさせる。ヒステリー者は想像的な他者への同一化によって<他者>の欲望を維持しようとするが、強迫症者はじぶんの欲望を守るためにそれが基づいている<他者>の欲望を「否定」する。「<他者>の欲望は分節化され、象徴化されているが、Non という記号を付されている」。強迫症者において問題になのは欲望の維持ではなくその取り消し(annulation)である。想像的な他者のファルスを破壊することである。ところで「取り消しについて語ることができるためにはシニフィアンが問題になっているのでなければならない」。強迫症者が想像的な競争相手のうちに「破壊」しようとするのはシニフィアン=ファルスである。「おまえなんかナプキンだ……」という幼き鼠男の呪詛の言葉は、シニフィアンを無生物的な対象へと失墜させる(強迫症において問題になるのは[父という]卓越したシニフィアンの失墜である)。強迫症者の取り消す要求は[<他者>への]「死の要求」である。強迫症者の欲望は[対象に接近するにつれて]消尽する欲望という逆説的なものである。フロイトが強迫症者に帰した欲動分離(Entbindung)とは、<他者>の欲望の維持と破壊の配分のさじ加減を説明する概念であると考えてよいだろう。

 ブーヴェは強迫症者における「対象との距離」の取り方を問題にしているが、正しくは「みずからの欲望への距離」と言うべきである。「神経症は対象ではなく、主体の行為とふるまいのなかにある分析的な構造である」。神経症の構造によって主体の「人格」全体が規定される。「人格」とは「行動のなか、<他者>や他者たちとの関係のなかにつねに同じであるのが見出されるある種の運動、一つの区切り」であり、「強迫あるいはヒステリー的な行動の総体は一つのランガージュとして構造化されている」。

 ウィニコットは幼児にとっての問題が欲求不満から脱することではなく欲求の満足から脱することであることに気づいている(ようするに移行対象がシニフィアン・ファルスであることに)。

 

 アクティング・アウトの無動機性は非心理学的であり、そこにはシニフィアン的な要素がある。そのかぎりでアクティング・アウトは幻想に通じる。幻想とは「シニフィアンのある一定の使用のうちに捉え込まれた想像的なもの」である。

 

 症状はシニフィエである。「生命はみずからをおそるべき統覚のうちで、その全体的なよそよそしさ、その不透明な乱暴さにおいて受け止めるなかでじぶんじしんを、生命自身によってたえがたいようなある存在(existence)の純粋なシニフィアンとして把握する」。症状とは「純粋状態のシニフィアンとして生命にたいして生命から現れてくるもの」である。

 

 Wo Es war, soll Ich werden の意味が、「私はファルスである」ではなく「私はシニフィアン的分節においてファルスが占めている場所にいる」ということであると解釈される。

 

 最終回の講義の調子は翌々年の『精神分析の倫理』を先取りしている。「汝の隣人を汝じしんのように愛せ」が「Tu es celui qui me … tu (tues) es celui qui me…」に送付される。