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イギリス人は斬首される夢を見る:セミネール第2巻『フロイト理論と精神分析の技法における自我』第10講、第11講

 

 第10講(09/02/1955)

 

 フロイト理論の進展の四段階(「草稿」、『夢解釈』、ナルシシズム論、「彼岸」)において、つねに同じ矛盾が持続するのは、この進展が否定弁証法の一形態であるから。「人間存在や人間経験に一貫性と自律的経済を付す象徴の次元」、「人間の中のもっとも高次のもの、人間の中にではなく他の場所にあるもの」としての象徴の次元をフロイトはその都度新たに捉え直すことを強いられた。

 

 意識の把握困難な性質の探究は、フロイトにあって無意識の探究と同じくらい重要である。

 

 「夢理論へのメタサイコロジー的補遺」におけるフロイトは、備給と脱備給という術語によって意識装置を説明することに失敗している。「そこにあると同時にそこにない」意識系の逆説。

 

 「草稿」と『夢解釈』のシェマにおける「意識」。後者において時間的モメントが導入され、機械的モデルから論理的モデルへの移行がなされる。

 

 第三のシェマ(倒立した花束)における想像的なものの導入。第四のシェマ(L図)は「快原則の彼岸」に送り返される(「人間の構造は人間の内部にある意味の統合ではない」)。

 

 抵抗と自我の想像的機能を説明するものとして真空管(三極管)というメタファーが召喚される。分析において伝達されるべきものにフィルターをかける自我の機能が電極間の抵抗になぞらえられる。

 

 サイバネティクスは「ひとりでに機能し、われわれを超えるものとして現れる人間のランガージュ」の再発見というフロイトの課題を実現した。

 

 『夢解釈』においては夢と症状との類似性が指摘されているが、共通なのは文法だけであり、両者は叙事詩熱力学の論文とが異なるのと同じくらい異なっている。

 

 

 

 第11講(16/02/1955)

 

  イルマの夢。「フロイトは「心理学草稿」でイルマの夢のテーマを[先駆けて]四つの要素に帰している」。そのうちの二つは意識的要素、もう二つは無意識的要素であり、後者は、創設的パロール(フリース宛書簡)と、前講における三極管の比喩で電極を横断する要素であるとされる(「意識的要素」が何であるかは示されない)。

 

 イルマの夢において注目すべきはこの夢における女性のイメージにみられるナルシシズム的要素とフロイト自身との関係である。「フロイトが提示するもののなかには、いつも彼自身が概念化したものより多くの『素材的なもの』が含まれている。こういうことは科学的文献の歴史において例外的なケースである」。

 

 ヴァラブルガによる『夢解釈』第七章の注釈。フロイトの用いている「聖なるテクスト」という比喩(断片からメッセージが読み取れるといういみで)。

 

 夢の忘却は意識的であり、検閲は一つの意図であり、疑いは強調である。そのいずれからも夢の「思考」(心理学的に解する勿れ)を読み取るべきである。「中断された」「執拗につづく」ディスクールとしての思考を。

 「canal」という語以外の一切が忘却された夢の例。重要なのは「夢が誰かに何を言わんとしているのか」であり、この「誰か」とは誰のことかということである。

 

 「抵抗」は心理学的な水準で主体に内在するものではなく、個々の解釈に際して現れる。ところで「検閲」は「抵抗」と同じレべルにはなく、ディスクールの中断として現れる。

 

 「中断されたディスクールがとるもっとも驚くべき形態は、理解されないものとしての法である」。法を全体として把握することはできない。「検閲とは理解されていないかぎりでの法である」。「神が存在しなければすべてが許される」というイワン・カラマーゾフの言葉は神経症者の観察によって反駁される。じっさいには神が存在しなければ何事も許されない。

 

 クノーのポルノ小説のヒロインは「英国王が馬鹿ならすべてが許される」と言う。じっさいには、それは英国民が口にできない言葉である。英国王が馬鹿であるというディスクールは検閲によって中断されている。「基本的な法はすべて死刑の命令を含んでいるが(たとえば「国王が馬鹿と口にする者は斬首」)、その法自体が部分的であるがゆえに根本的に理解されない可能性を含んでいる」。禁止そのものが意識されないので「いかなる人もディスクールの法をその全体として支配できない」。法を成り立たせているのはこの禁止である(精神分析において突き当たるのはこのような法の存在である)。このような検閲ゆえに英国民はじぶんが斬首される夢を見る。「主体が斬首されるという事実が、英国王は馬鹿であることをいみする」。

 

 これに関連して、セミネール1巻で言及されたイスラムの患者(父親が窃盗で告発された)の症状がふたたび引き合いに出される。盗人は手を切られるべしとする戒律のいみを理解しなかったがゆえに患者は書痙という形で「手を切られた」。「症状は患者(主体)が法を理解していない点を指し示す」。患者は理解するかわりに「法を演じる」。「症状は法を法として体現しようとし、法に謎めいた形態を付与する」。検閲と超自我は具体的なディスクールという同じ水準に位置づけられる。検閲は主体、個人の水準にはないくディスクールの水準にあるかぎりで「抵抗」と区別される。

 

 無生物にも意識現象を帰そうとするフェヒナーの精神物理学へのフロイトの酔心。フリース宛書簡において、フロイトは「夢は心的な他の場所にあるものとしてしか考え得ない」というフェヒナーの一節を引いている(アンゲルス・シレシウスにおける Ort と Wort の語呂合わせ)。「夢の構造の法はランガージュの法と同じく他の場所に書き込まれている」。

 

 フロイトはある時点で不可逆的な時間的継起(それまでは反射の不可逆性に帰されていた)という契機を導入したが、逆説的なことにそれは「退行」概念の導入と同時的であった。

 

 「欲望はその生物学的 élan に根ざしていればいるだけ幻覚的な現れ方をする」という根本的な逆説。

 

 夢が主体を原始状態につれ戻すという言明は、未開人が論理的思考をしていないという前提に基づいている。退行概念の導入はフロイトのネックとなる。