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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

ドラのシーソー:『フロイトの技法論』XIII〜XIV章

 

XIII(05/05/1954)

 

 人はみずからの欲望について知らない。「無知」は「真理」との相関において理解すべき「弁証法的」概念である。動物の知が生得的(「環界」への「想像的接合」)であるのに対し、人間の基本的欲望は無政府状態にある。……人間は自身を身体として知っているが(「身体の想像的構造」12/05/1954)、動物は知らない。

 

 鏡像段階の消失に際して、「シーソー」のような transitivisme が生じ、「他者のイメージ」の「取り入れ」が起こる。この「イメージ」は「人間の心性の中に内部と外部との関係を導入する表面」をなす。自我の観念について『自我とエス』への参照が促される。ラカンによればこのテクストは正しく読まれていない。

 

 

XIV(12/05/1954)

 

 治療における象徴的機能は、「パロールの舫い綱 amarres」(言葉のマナー、さらには整合性への配慮)を弛め、解き、他者との鏡像的関係に「離脱、浮動、揺らぎの可能性」をあたえることである。自分自身との想像的な幻影的関係の中に、惚れ込み(Verliebtheit)の基礎となる条件を人工的に創り出すこと。

 

 バリントによれば、分析は primary love の再発見によって進展する。個々の対象を考慮の外に置くという点でラカンはこの見解を評価しつつ、最終的に依存関係、本能充足、欲求不満へと問題を帰してしまうと批判している。

 

 象徴的命名――フロイトのいうエゴの「言語的核」――による欲望の再統合(05/05/1954)の過程がドラ症例に即して確認される。分析において重要なのはパロールの再認の機能である。欲望(もしくは primary love といったもの)を満たすことではなく、再認することが問題なのだ。フロイトはかれじしんのエゴ(「若い女性は男性を愛するものだ」という先入観)を介入させることで、ドラにK夫人への欲望を再認させることに失敗した。