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lacaniana  

ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

「自我と他人」:『フロイトの技法論』Ⅳ章

 

*セミネール第1巻『フロイト技法論』Ⅳ(1954年2月3日の講義)

 

 ラカンフロイトの論文「転移の力動性について」において抵抗に関し本質的なことが言われているとかんがえる。仏訳には致命的な誤訳が含まれている。そのひとつは、コンプレクスそのものの顕れと、コンプレクスが「翻訳」されたものとしての症状の顕れとを混同している。さらに末尾の段落では、抵抗を転移と同一視している。末尾の一節は接続詞が省略されることで意味不明な文になっている。

 

 ラカンはこの論文の一節をコメントしている。そこにはいくつかの重要な指摘がある。転移は抵抗のプロセスの一段階において生じること。転移は抵抗と分析継続という二つの要請の妥協の産物であること。「転移性の観念は抵抗を満足させる」こと。

 

 つづいて「狼男」において、性器的段階にあるもののすべてが排除(verwerfen)されていることが想起させられる。フロイトは「抑圧は排除とは別のものである」と明言しているが、仏訳は両者を恣意的に混同している。抑圧は「抑圧以前のもの」、「抑圧されたものの最初の核」の存在を前提している。それはフロイトみずから言うごとく「あたかも存在しないかのようなもの」ではあるが、ラカンによれば「あるいみでどこかに存在している」のであり、このことこそ「フロイトの発見の真髄そのもの」である。フロイトはさしあたってそれを「外傷」として概念化した。

 

 つづいて『夢解釈』第7章が参照され、主体が提示する夢のテクストが不確かであればあるほどそれは興味ふかいというフロイトの指摘が想起させられる。この「不確かさ」のなかにこそ重要なものが宿る。夢の断片(夢の全体を再現することは問題ではない)は夢の基盤にある「思考」を発見させてくれる。この「思考」とはつうじょうのいみにおける思考ではなく、「欲望」の謂いである。この「欲望」はばばぬきにおけるジョーカーのように循環していることはすでに確認ずみであるが、それではいったいそれは「誰の」欲望であり、いかなる「欠如」によって生じるものなのだろうか。

 

 つづけて『精神分析入門』における「海峡(pas)」の機知が想起させられる。「崇高から滑稽へはほんの一歩(un pas)」という患者の談話はフロイトに向けられた言葉であり、そのかぎりで抵抗のプロセスにおいて転移が生じるのと同じことが起こっている。つづけて『日常生活の精神病理学にむけて』冒頭の度忘れの事例がとりあげられる。この事例で問題になっているのは「存在する絶対的なもの、すなわち死」である。「このパロールフロイトの存在の奥底にある秘密を顕現しうるこのパロールを口に出さないからこそ、かれはもはや言葉の脱落をもってしかその相手との関わりを続けられなかった」。かくして、「存在の告白(l’aveu de l’être)」のまったき実現が不可能であることがパロールによる他者の召喚(「現前」)の前提となる。フロイトは『転移の力動性』において、「主体の世界の構成においてあらかじめなされている構造化のなかに他者が織り込まれている」といったことを述べている。いっぽうでパロールは「表現」(「ローマ講演」では意識的に避けられた言葉)ではなく「顕現」である。

 

 空虚なパロールと充実したパロールの区別。前者は個々の文化状況(「ランガージュの体系」)という「迷路」に規定されている。「主体が“じぶんじしんの”真理の実現[……]にたどりつくことができないことから抵抗は生じる」。空虚なパロールはその「彼岸」を想定させるが、それは分析家自身の自我の「投影」にすぎない。これは「抵抗の解釈」の際のアポリアである。