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ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

精神分析という名の希望:「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」

*「犯罪学のあらゆる可能な発展のための諸前提」(Prémisses à tout développement possible de la criminologie, 1950)

 

 フランス語圏精神分析家会議における報告「犯罪学における精神分析の機能にむけての理論的序説」(『エクリ』所収)の質疑応答の要約。Autres écrits に収録されている。

 

 くだんの報告においては、精神分析は犯罪の現実性を否定することによって、犯罪者の人間性の否定をやめた」と述べられていた。犯罪において精神分析が見出そうとするのは、罪の真理ではなく、犯罪者の真理であると。

 

 質疑応答においてはこれを受けるかたちで、精神分析があきらかにするのは「主体性という閉ざされた構造において理解されてのみいみをもつ犯罪の存在」であり、「犯罪行為の真理」であり、それによって精神分析は犯罪者の[裁きではなく]治療の可能性を開くとされる。

 

 くだんの構造は、「自我そのものの構造」であり、分析は「自我の抵抗」を解除することでこれら「自我の犯罪者」の真理をあかるみに出す。

 

 そもそもなにをもって罪となすかはそれぞれの文化に相対的である(「自然的犯罪」など存在しない)。したがって、刑法的な観点からある主体を犯罪者と本質化するのではなく(そのことによってかれらは文化の「身替わりの犠牲」にまつりあげられている)、その文化が罪とみなすものがなにであり、罪を犯した主体がなにをみずからの「責任」として引き受けようとしているのかをあきらかにすることが問題である。「精神分析が主張するのは、犯罪中心的決定要因は、主体がみずからが生きている文化からうけとる責任の概念じたいであるということだ」。そもそも、「責任の概念なしでは人間的経験はいかなる進歩ももたらさない」。犯罪者を責任能力のない者とみなすべきではないということであろう。

 

 「超自我、自我、エスという互いに関連した諸概念は空虚な自己満足のための論議[une vaine casuistique]ではなく、教育者、政治家、立法者の思考を導きうる」。

 

 「分析が罪のある主体のなかにあきらかにするいみは、そのひとを人間的共同体から追い出すものではなく」、「分析がかれのなかでとりもどさせる責任は、ひとつの生きられたいみに統合されたいという希望に応える。この希望はすべての辱められた者[être honni]のなかで高鳴っている」。「精神分析が犯罪者を導くことができる真理は、分析を構成する経験の基盤から切り離すことができないし、この基盤は医学的行動の神聖な性格を決定する同じもの、つまり人間の苦しみの尊重である」。

 

 人間主義的なトーンに貫かれた力強い文章である。向井雅明氏による試訳を参照させていただいた。