lacaniana  

ラカンの全著作・全講義を年代順に読破するプロジェクト。

ガンジス河からエトナ山へ:「ローマ講演」第3部を読む(その10)

 

 Ecrits, p.317~

 

 

 とはいえ生物学の黎明期においてビシャが生命にあたえた定義は、死に抵抗する諸力の集合というものであり、自己の均衡を維持するシステムの機能としてのホメオスタシスというキャノンのもっとも現代的な観念と同様、生と死とが、生に帰されている諸現象のただなかで、双極的な関係をなしているということを思い起こさせてくれる。

 

 対立する二つの語の合一である死の本能は反復の現象をともない、この現象にたいしてフロイトの説明は自動性という名称のもとにそれらの語を結びつけたのだが、これが生物学的な観念であるなら不都合はないところだ。

 

 そうではないとだれもが感じていて、それゆえわれわれ分析家の多くがこの問題につまずいている。多くの人がふたつの語のみかけの両立不可能性をまえに立ち止まってしまうという事実は、むしろわれわれの興味をひきうる。この事実は、限定的言表における意味論につきつけられた古典的な問いが退けるであろう弁証法的無知を示しているからだ。ガンジス川の上の部落。このように言うことで、ヒンドゥー的な美学は、言語活動の反響[résonances]のふたつめの形態を提示している(脚注:Laksanalaksana とよばれている形態)。

 

 というのも死の本能という観念には、われわれがフロイトの著作の詩学とよぶものにおけるこの観念の反響からアプローチすべきであるから。これはこの観念のいみを見抜くための最良の通路であり、この観念において頂点を画すことになるフロイトの著作のさまざまな源泉の弁証法的な影響[répercussions]を理解するために本質的な次元である。たとえばフロイトが、じぶんが医学を志したのはゲーテの『自然讃歌』についての公開講演で耳にした呼びかけがきっかけになったと証言していることを想起すべきだ。つまり友人が発見したこの文章において、晩年の詩人は、その若々しい筆のほとばしりから、推定上の子供を認知することを受け入れた。

 

 フロイトの生のいまひとつの極、限定された分析と限定されない分析についての論文のなかで、二つの原則の葛藤というかれの新しい考えにちらっと言及しているが、(自然と精神を区別しない前ソクラテス派)エンペドクレスはそれによって普遍的な生命の交替を説明している。

 

 この二つの事実からじゅうぶんわかるとおり、これはプラトンが有名にした対概念[両性性]の神話にほかならず、「快原則の彼岸」ではそれへの言及がある。この神話は、現代人の主観性においては、現代人のおかれている判断の否定性という事態に高めることによってしか理解されない。

 

 つまりやはり二つの語を分割したくなるあまり誤解されている概念である「反復の自動性」が、転移の経験の編年的な[historisant]時間性に狙いをつけているのと同じく、死の本能は、本質的に、主体の歴史的な機能の限界をいいあらわしている。この限界とは死である。とはいえここでいう死とは[……]ハイデガーの言い回しを借りれば、「主体の、絶対的に固有で、無条件的で、乗り越え不可能で、確実で、それゆえ無限定な可能性」としての死である。

 

 このような限界は、この歴史の完遂した部分にそのつど現前している。この限界は現実的な形態において過去を代理している。つまりすでに存在しない物理的過去でもなければ、記憶のはたらきにおいて完成される叙事詩的な過去でもなければ、人間が未来の保証をそこで手にする歴史的過去でもなく、反復においてさかさまに[renversé]あらわれる過去である。(脚注:「永遠回帰」の不適切な援用を1966年にこの四つの表現に変更した。)

 

 このような死の主体性は愛(Philia)と不和(Neikos)の葛藤に死が仲介してつくりあげる三項図式と好一対だ。

 

 それゆえ主体性がそこにおいてその孤立[déréliciton]の統御と象徴の誕生とをともども醸成する反復の作用の理由を理解するために原初的マゾヒズムという古くさい観念を援用するひつようはもはやない。

 

 この遮蔽作用[隠しっこ jeux d’occultation]をこそフロイトは天才的な直観によってわれわれの眼前につくりだした。それによってわれわれはそこに、欲望が人間化する瞬間はまた子供が言語活動へと生まれ落ちる瞬間でもあるということを認めることができる。

 

 いまやわれわれはつぎのことを理解する。主体は反復においてみずからの剥奪されてあること[privation]を引き受けることによって統御するだけでなく、欲望を二乗[une puissance seconde]にまで引き上げる。なぜなら主体の行動は反復がその不在と現前を先取り的に「そそのかしつつ」[provocation 原文イタリック]現させたり消えさせたりする客体を破壊するから。こうして反復は欲望の力の場を打ち消し、じぶんじしんにおいて[à elle-même]、じぶんじしんの客体となる。そしてこの客体は、基本的な二つの祈りの声[jaculations]の象徴的な組み合わせにおいてただちにかたちをなし[prendre corps]、主体のなかで、音素の二元性の通時的統合を予告するのだが、現存する言語活動の通時性がその習得に共時的な構造をあたえる。かくして子供は周囲の具体的な言説のシステムに参入しはじめるが、その際、「Fort!」と「Da!」という声において周囲から受け取るいろいろな語彙をばくぜんとながら再現している。

 

 「Fort!」「Da!」。まさに孤立状態のなかで、小さい人間の欲望は他人の欲望になった。この他人とはかれを支配し、その欲望の対象がかれじしんの苦痛[の種]になる alter ego である。

 

 子供が話しかけているのが想像的なパートナーであれ、現実的なパートナーであれ、子供はこのパートナーもかれの言説の否定性にしたがうことを理解する。そして子供の呼びかけはこのパートナーをかれのまえからのがれさせる効果をもつので、子供は追い払うための呼び出し[intimation bannissante]によって回帰のそそのかし[provocation]を模索する。この回帰によってパートナーをみずからの欲望にしたがわせるべく。

 

 それゆえ象徴はまず物の殺害としてあらわれ、この死は主体においてかれの欲望の永続化を実現する。

 

 遺跡のなかに認められる人類の最初の象徴は墓であり、死の仲介は、人間が歴史によって実現する生とのどんな結びつきにおいてもみいだされる。

 

 永続する、真のものである唯一の生。なぜならこの生は主体から主体へと受け継がれる永遠の伝統のなかで失われることがないから。この生が動物から継承された生、個人が種において開花する生のはるか高みにあることは見逃されるべくもない。どんな記念碑も、このような生のつかのまのあらわれを、類の一貫性において生を再生するあらわれから区別していなくても。phylum [族、語族]の変容という仮説は措く。一個の主体性はこの仮説にしたがっているはずだ。個々の主体性と人間という種とは、外部を介してしか結びついていない。種としての人間が個々の主体性と結びつく経験いがいのなにものも、一匹のマウスをマウスとし、馬を馬と認識しない。もしくは生から死へのこの不整合な[inconsistant]移行いがいのなにものも。エンペドクレスはエトナに身投げすることで、かれのなかの死へむかう存在の象徴的行為を人間の記憶に永久に刻みつけている(laisser présent)。