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ラカンを年代順に読破。非ラカン派有志によるプロジェクト。全著作・講義解説!

転移の現実性:「ローマ講演」第3部(その7)

 

 Ecrits, p.307 最終段落~

 

 このような極端さへ至る道の途中で、問いが立てられる:精神分析は、弁証法的な関係であり、そこでは分析家の非介入主義が主体[患者]の言説を主体の真実の実現へと導くのであろうか。あるいは、精神分析は空想的な関係にすぎず、そこでは「二つの深淵[断絶]が隣り合い」ながらも触れ合うことはなく、さまざまな度合いの想像的な退行を経巡るにいたるのであろうか。つまり、心理学的な試練の限界にまでおしすすめられたいっしゅの bundling 。(脚注:トリスタンとイズーの神話もしくはトリスタン=イズー・コンプレクスは、本能的な幻想の婉曲表現であるまやかしの結婚に約束された魂の探究に精神分析家を精進させている。)

 

 実際には、主体の現実を言語活動の壁の裏側にもとめるよう促すこうした幻影は、主体に、「じぶんの真実がわれわれ分析家のうちにすでにあたえられている、分析家はそれを前もって知っている」と信じこませる幻影と同じものであり、主体が分析家の客観主義的解釈[intervention]をうのみにする原因もまさにこの幻影ゆえである。

 

 おそらく主体のほうとしては、この主観的な誤謬に責任をもつひつようはないのだ。この誤謬は、かれの言説のなかで口にされていようといまいと、主体が分析に入り、分析の契約を結んだという事実に内在的である。それだけにいっそう軽視してはならないのは、転移に属する[constituant]諸効果とよばれているものの理由をわれわれ分析家がそこにみいだす瞬間の主体[的]性[質]である。この諸効果は、それに後続する構成された[constitué]諸効果とは、現実性という指標ゆえに区別される。(1966年の脚注:のちに「知を想定された主体」として概念化される。)

 

 フロイトは、転移に関係づけられているさまざまな感情にかんして、そこにおいて現実という要因を区別する必要性を強調している。主体にたいして、この感情は神経症の転移におけるたんなる反復にすぎないと説得しようと望むことは、主体の従順さにつけいることになる。したがって、これらの現実的な感情が一次的なものとしてあらわれ、また、われわれ分析家の人格の固有の魅力は偶然的な要因にすぎないので、そこに謎めいたものがあるようにみえるのだ。

 

 しかしこの謎は主体の現象学に照らすことで解明される。真実の探究において構成されるかぎりでの主体のそれだ。仏教の伝統的な教えにたすけをもとめるに如くはない。こうしたかたちの転移が実存に内在する誤謬であると見抜いているのは仏教だけではないけれども。愛、憎悪、無知という三項図式がある。最初のいわゆる陽性転移に相当するものをわれわれは分析[の弁証法]的運動の反効果として理解してしまう。各々の項がこのような実存的側面において他の二項によって解明される。ただし、無知は主体との近さによって除かれるのがふつうであるが。

 

 ここでわれわれは、分析における諸本能の作用のばかげた客観化によってあるしゅの研究がさらしている慎みのなさをわれわれにおもいしらせてくれるある人の罵倒を思い起こす。現実的なものという術語の用法をその人はわれわれに負っている。その人はこう言って「みずからのこころを」「解放する」。「治療においてどんなものであれ現実的なものがあらわれると信じさせようとするまやかしをいまややめるべきときだ」。その帰結は言わずにおく。というのは、聖書が述べている犬の食い意地を精神分析が癒してこなかったのなら、その状態は悪化しているのだ。つまり他の犬たちの吐いたものを呑み込むにいたっている。

 

 というのはこのような冗談は的外れなものではないから。象徴的なもの、想像的なもの、現実的なものという、精神分析においては区別されたことがなかった基本的な領域の区別をしようとしていることにおいて。われわれはこの区別の根拠をすでに提示している。

 

 じっさい分析の経験における現実は、しばしば否定的な形態のもとに覆い隠されたままだが、その現実をつきとめることはそれほどむずかしいことではない。

 

 たとえば現実は、ふつう能動的な介入として指弾されているもののなかで出会われる。しかしそこが現実の限界であると見定めるのは間違いだ。

 

 というのも、一方で、分析家の非介入主義、応答の拒否のほうも、分析における現実の一要素であるのはあきらかであるから。正確に言うと、まさに一切の特殊な動機をのがれた純粋な否定性において、象徴的なものと現実的なものとが接合する。このことを理解するには、つぎのことを想起すればよい。この非介入主義[non-agir]は、“現実的なものはすべて合理的である”という原則によって確証されるわれわれ分析家の知、および、現実的なものの[主体?]の拍子[mesure]をみつけるのは主体じしんのやくめだという、そこから導き出される動機に基づいているということを。

 

 とはいってもこの非介入主義は、無際限に保持されるのではない。主体の問いが真のことばというかたちをとるとき、われわれ分析家はそのことばをわれわれの応答によって承認する。のみならず、真のことばはすでに応答をふくんでおり、われわれはそれをなぞっているだけだ[nous doublons de notre lai son antienne]。つまり、われわれは主体のことばに弁証法的な区切りを入れているだけなのだ。

 

 こうして、象徴的なものと現実的なものとがまじりあうもうひとつの瞬間がみてとれる。われわれはすでにそれを時間の機能において理論づけた。時間の技法的効果についてしばし立ち止まることにしよう。

 

 時間は技法においてさまざまな角度[incidences]からそのやくわりを演じている。

 

 時間はまずセッションの持続時間としてあらわれ、分析の終了[terme]にたいしていみをもつ。これはなにをもって分析の終結[fin]の徴候[signes]とみなすかという問題の前提となる問題である。これは分析の終了の期限設定[fixation]という問題に関わる。しかしすでにあきらかであるように、セッションの時間は主体にとっては無際限[不確定]と予想されるほかはない。

 

 それには二つ理由がある。二つの理由は弁証法的な観点から区別される。

 

 ――ひとつめの理由は、われわれの領野[champ]の限界に由来し、この制限の定義についてのわれわれの発言を確証する。分析家は患者について「理解するための時間」がどのくらいであるかを予想することができない。この時間は心理的要因をふくんでおり、心理的要因そのものは分析で太刀打ちできない。

 

 ――二つめの理由はもっぱら患者に固有の理由である。この理由によって、終了の期限設定は空間的な投射にひとしい。この投射において、患者はすでにみずからにたいして疎外されている。かれの真実の期日が予期できるので、中間的な間主観性において到来するのがなんであろうと、真実はすでにそこにあるのであり、主体がわれわれのうちにかれの真実を位置づけているかぎりで、われわれは主体においてかれの原初の幻影[mirage]を再現し、われわれの権威についてかれに承認をあたえることで、われわれはかれの分析を、逸脱させる。結果が出てからそれを訂正することはできない。